第六章① 道元禅師の教えは「修証一如」修行が悟りの実証である

第一節 坐禅修行しているところに、宇宙と続きの自己が現成している


 正法眼蔵「弁道話」の冒頭には、

「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨あのく菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これただ、仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用じじゅゆう三昧ざんまい、その標準なり。」

【現代語訳】

どの仏も、どの仏も、同じく妙法⦅究極の不可思議な真理⦆を師から弟子に伝

えて、無上の悟り⦅宇宙と続きの自己⦆を実際に現すのに、最上で人間的なし

わざが少しもない、不思議なすぐれた方法がある。これはただ、仏から仏に伝授

して間違いないもの、それはとりもなおさず自受用三昧⦅もともと元々、自己にそなわ備っている仏性を、自ら受け用いてする三昧、もともと元々、宇宙と続きである自己が、宇宙と続きの自己に深まって行く坐禅修行、沢木老師は『自分が自分で自分を自分する。』と言われている。⦆がその標準、ありかたである。


とあり、


 正法眼蔵「弁道話」には、さらに、

「もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端座するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる」

【現代語訳】

もし人が、ほんの一時であっても、身口意の三業⦅身心の行為⦆に仏心印⦅宇宙と続きの自己⦆を現し、禅定に入って、正しい坐禅をする時、⦅三界唯心、出会う所、我が生命だから⦆すべての世界もみな仏心印となり、虚空の全体は余すところ所なく悟り⦅真実の姿、ありのままの事実⦆となる。


「それ、修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の弁道すなはち本証の全体なり、かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。直指の本証なるがゆゑなるべし。」

【現代語訳】

だいたい、修行と実証⦅悟り⦆が一つでないと思う考えは、それは全く、仏教の見解ではない。仏法においては、修行と実証⦅悟り⦆は同じ一つのものである。現在においても、もともと元々悟っている⦅もと元々宇宙と続きの自己である⦆上での修行⦅宇宙と続きの自己を実現する修行、深まって行く修行⦆であるから、初心者の修行⦅坐禅⦆が、そのまま即、本来仏であることの実証⦅元々宇宙と続きの自己であることの、実際の証し、実現すること⦆の全体である。

 そういうことだから、修行の用心⦅気をつけること⦆を授けるにおいては、修行のほかに証⦅悟り⦆を期待し、待つ気持ちがあってはならないと教えるのは、修行⦅坐禅⦆がそのまま本来仏であることの実証であるからに違いない。


「すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。ここをもて、釈迦如来・迦葉尊者、ともに証上の修に受用せられ、達磨大師・大鑑高祖、おなじく証上の修に引転せらる。仏法住持のあと、みなかくのごとし。」

【現代語訳】

すでに言ってきたように、ずっと以前から、⦅その時、その時の⦆修行が即、そのまま実証⦅悟り、宇宙と続きの自己の実現⦆だから、この実証には限りがなく、本来仏である⦅元々、宇宙と続きの自己である⦆上での修行であるから、この修行には、いつから始まったという始まりがない。⦅今のこの自分の生命は遠い昔から、親から子へ、子から孫へと伝わって来たものである。つまり、悟りに始めなく、修行に終わりなしという事である。⦆

 こういう事だから、釈迦如来も、その弟子の迦葉尊者も、ともに同じく本来仏である上の修行を受用せられ、⦅自受用三昧、自分が自分で自分を自分すること⦆達磨大師⦅禅を印度から中国へ伝えた初祖⦆も六祖大鑑慧能禅師も同じく本来仏である上の修行に引きまわされて⦅自分が修行していると同時に、大いなるものに生かされ、修行させられていること⦆きたのである。仏法が歴代の祖師方によって住持⦅本証の上の修行によって宇宙と続きの自己に住み持つ、修証を継続して行くこと⦆されてきた様子は、みなこのよう⦅修証一如の修行⦆である。)


「仏法には、修証これ一等なり」

【現代語訳】

仏法においては、修行と悟りは同じ一つの事である


とあって、

修証一如(同時同体)なのです。

修行している処に、天地一杯の自己が生き生きと現れています。


 また、道元禅師の著、「学道用心集」には

「仏の言わく、行ずれば乃ち証その中に在りと。」

【現代語訳】

仏が言われた、『修行すれば即座に実証、悟りはその中にある。』

 つまり「修行」(いつのまにか、我に覆われている自己が、宇宙と続きの自己に立ち帰ること)が即「実証」(宇宙と続きの自己のげんじょう現成)なのです。


「識るべし、行を迷中に立つるは、証を覚前に獲るものなるを。」

【現代語訳】

はっきりと知りなさい。迷いのまっただ中で発心して修行をすることは、そのままただ直ちに実証⦅悟り、宇宙と続きの自己に立ち帰ること⦆をさと覚る前に得ることであると。⦅なぜかというと、元々、宇宙と続きの自己だから⦆


とあります。

 また、

「永平広録八 小参」には、

「要且すらくは拠令而行せば、尽大地人、喫茶す」

【現代語訳】

要するに、仏の教えにもとづいて修行すると、そこに天地一杯の生命としての自己が、⦅その日常底の⦆喫茶喫飯しているところに現成している。


とあります。


 このようにみてくると、

 本来の自己、宇宙と続きの自己は迷いとか悟りとか分かれる以前のもので、ただ修行する処に現成しています。ただし、それは自分の意識や思いでとらえられるものではありません。(不得不知)

ということで、道元禅師の教えは「修証一如」修行が悟りの実証である、ということです。

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仏様と同じ坐禅をしてみませんか(道元禅)/山寺の和尚さん著 @usagiosho

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