白い悪魔
埴輪庭(はにわば)
第1話
◆
昭和十四年の夏、東京は例年になく蒸し暑かった。
帝国陸軍参謀本部の会議室には扇風機が三台置かれていたがその羽根が切る空気すら生温く、集まった将校たちの額には絶えず汗が滲んでいる。窓の外では蝉が鳴いていて、その声が時折会議の声を遮った。誰もが軍服の襟元を気にしながら、しかし緩めることは許されないのだと知っていた。
欧州では既に戦火の匂いが立ち込めている。
ドイツがポーランドへ侵攻するのは時間の問題であり、そうなれば世界は再び大きな戦争へと突入することになる。日本もまた、その渦中に巻き込まれることは避けられないだろう。満州事変以来、国際連盟を脱退し、孤立を深めてきた大日本帝国にとって、この機会は千載一遇のものでもあり、同時に破滅への入り口でもあった。
山本五十六は海軍の立場から発言を求められ、ゆっくりと立ち上がる。
「諸君、率直に申し上げる」
彼の声は静かだったが室内の空気が一瞬で張り詰めた。
「米国と戦えば、半年や一年は暴れてみせる。しかし二年、三年となれば、自信はない」
沈黙──扇風機の音だけが響く。山本の言葉は誰もが薄々感じていたことを、ただ明確にしただけのことである。米国の工業力は日本の十倍以上。石油、鉄鋼、あらゆる資源において、勝ち目などあるはずがなかった。
陸軍の参謀たちは苦々しい顔をしていた。彼らとて馬鹿ではない。精神論だけで戦争に勝てないことくらい承知している。だがここで弱気な発言をすれば出世に響く。誰もが黙り込み、天井の染みを数えるふりをしていた。
その時、末席に座っていた一人の少佐が手を挙げる。
「一つ、提案がございます」
彼の名は田所一郎。農林省からの出向組で、軍人というよりは学者然とした風貌の持ち主だった。眼鏡の奥の目は妙に澄んでいて、それが却って周囲の者たちを不安にさせることがある。
「餅であります」
室内に奇妙な沈黙が落ちた。
「……何だと?」
陸軍大将の一人が眉を寄せる。田所は動じることなく続けた。
「我が国には餅という食文化がございます。これを戦略的に活用できないかと考えておりました」
「戦略的に、餅を?」
「はい。餅は実に美味でありながら、同時に極めて危険な食物です。毎年正月には多くの方が窒息死されている。しかしそれだけではありません」
田所は一枚の紙を取り出した。
「私は五年前から餅の研究を続けてまいりました。そしてある発見をしたのです」
将校たちの視線が田所に集中する。
「餅にはある種の……依存性があります」
「依存性?」
「はい。餅を食べ続けると、やがて餅なしでは生きられなくなる。私の実験では餅を三ヶ月以上摂取した被験者の九割以上が餅を断つと激しい禁断症状を示しました。震え、発汗、幻覚、そして……死に至る者もおりました」
会議室がざわめいた。
「餅で死ぬというのか」
「正確には餅を食べられないことで死ぬのです」
田所の説明は続いた。餅に含まれる特殊な成分が脳に作用し、一度その味を覚えると二度と忘れられなくなる。日本人は長い歴史の中で餅に対する耐性を獲得しているがそれでも完全ではない。まして餅を知らない外国人であれば、その影響は計り知れないものになるだろう。
「つまり……敵国に餅を広めれば」
「はい。彼らは餅を食べ、餅に依存し、餅で死ぬ。窒息死だけではありません。餅を与えられなければ禁断症状で死に、餅を与えられれば喉に詰まらせて死ぬ。どちらに転んでも、我々の勝利です」
山本五十六は腕を組んだまま、しばらく考え込んでいた。彼の脳裏には真珠湾という言葉がちらついている。奇襲攻撃で米太平洋艦隊を叩く。それは確かに魅力的な案だったが成功しても米国の工業力を削ぐことはできない。長期戦になれば必ず負ける。
だが餅は違う。餅は米国人の体と心を同時に蝕んでいく。ゆっくりと、しかし確実に。そしてそれは戦争行為とは見なされない。あくまでも食文化の普及に過ぎないのだから。
「面白い」
山本が呟いた。その一言で、会議の流れは決まった。
◆
最初の餅がアメリカの土を踏んだのは一九四〇年の一月である。
ロサンゼルスの日本人街で小さな餅屋が開業した。店主の名は佐藤清吉。表向きは普通の移民だったが実際には陸軍の特務機関に所属する工作員である。彼の任務は餅を売ることだった。それ以上でも以下でもない。
店は「MOCHI HOUSE」という看板を掲げていた。白い暖簾には日の丸があしらわれ、いかにも異国情緒があった。アメリカ人の目にはそれは東洋の神秘として映るだろうと、佐藤は計算していた。
開店初日、客は一人も来なかった。二日目も同様。三日目になってようやく、近所に住む白人の老婦人が興味本位で暖簾をくぐる。
「これは何ですか?」
老婦人は陳列された餅を指差した。白くて丸い、見たこともない食べ物。佐藤は笑顔で答える。
「日本の伝統的なお菓子です。お米から作られていて、とても健康的ですよ」
「お米から?」
「ええ。砂糖も油も使いません。カロリーが低くて、消化にも良い」
老婦人は半信半疑の様子だったが試食を勧められると断りきれなかった。佐藤が差し出したのはきな粉をまぶした小さな餅である。
一口食べた瞬間、老婦人の瞳孔が開いた。
それは美味という言葉では表現できない何かだった。脳の奥深くで、何かが弾ける感覚。全身の細胞が歓喜の声を上げ、魂が震えるような快感が走り抜けていく。老婦人は恍惚とした表情で、残りの餅を一気に口に入れた。
「も、もっと」
彼女の声は震えていた。
「もっとください。全部ください」
佐藤は静かに微笑んだ。計画通りだった。
翌日、老婦人は開店前から店の前で待っていた。その翌日も、そのまた翌日も。彼女は餅を買い、餅を食べ、餅のことだけを考えて生きるようになった。
そして開店から二週間後、彼女は餅を喉に詰まらせて死んだ。
最初の犠牲者だった。
しかしそれは終わりではなく始まりに過ぎなかった。
老婦人が友人たちに餅の素晴らしさを伝えていたからである。彼女の葬儀に参列した人々は口々に餅の話をしていた。死因が餅だと知っても、誰も餅を恐れなかった。むしろ、そんなに美味しいものなら自分も食べてみたいと思う者が大半だった。
「MOCHI HOUSE」の前には行列ができ始めていた。
◆
一九四〇年の夏、餅の流行は爆発的な速度で広がっていた。
ロサンゼルスだけで餅屋は二十軒を超え、サンフランシスコ、シアトル、デンバーにも次々と出店していく。日本政府は密かに資金を投入し、餅の生産体制を整えていった。
この時点で、餅による死者は既に三千人を超えていた。
窒息死が大半だったが奇妙な死に方をする者も現れ始める。餅を食べられない状況に置かれた者たちが発狂して死んでいくのである。
最初の「禁断死」が報告されたのは七月のことだった。
ニューヨークに住む銀行員のトーマス・ウィルソンは餅に出会って以来、毎日欠かさず餅を食べていた。しかし出張でシカゴに行った際、餅を入手することができなかった。
三日目の朝、同僚が彼のホテルの部屋を訪ねると、トーマスは壁に頭を打ち付けて死んでいた。部屋中に「MOCHI」という文字が血で書かれていた。
「餅をくれ」
それが彼の最期の言葉だったという。
この事件は地元紙に小さく報じられたが餅との関連性は言及されなかった。精神異常による自殺として処理され、それ以上の調査は行われない。
しかし田所一郎は東京でこの報告を受け取っていた。
「予想通りだ」
彼は静かに呟いた。
「餅の依存性は我々が考えていた以上に強い」
田所の研究によれば、餅を継続的に摂取すると、脳内に不可逆的な変化が起きる。餅に含まれる特殊な糖質とタンパク質の組み合わせが神経伝達物質の分泌パターンを書き換えてしまうのである。
一度この変化が起きると、餅なしでは正常な精神状態を維持できなくなる。餅を断つと、激しい不安、幻覚、妄想が現れ、最悪の場合は死に至る。
日本人にも同様の変化は起きるが長い歴史の中で耐性が形成されており、症状は比較的軽い。しかし餅を知らない外国人にはその耐性がない。
◆
一九四〇年の年末、餅による死者数は全米で五万人を超えていた。
窒息死が三万人、禁断症状による死が二万人。この数字は同年の交通事故死者数の二倍に相当した。医療関係者たちは警鐘を鳴らし始めたがその声は人々の耳には届かなかった。
餅はあまりにも美味しかったのである。
一度でも口にした者は二度とその味を忘れることができない。死ぬと分かっていても、食べずにはいられない。そして食べれば、喉に詰まらせて死ぬ可能性がある。食べなければ、禁断症状で死ぬ。
「まさに悪魔の食べ物だ」
ある医師はそう評したが彼自身も餅を食べていた。
「分かっている。分かっているんだ。でも、やめられない」
彼は泣きながら餅を頬張り、その三日後に窒息死した。
ルーズベルト大統領はこの異常事態を認知していた。
毎朝届けられる報告書には餅による死者数が記載されている。その数字は日を追うごとに増え続け、もはや無視できないレベルに達していた。
「これは一体何なのだ」
大統領は側近たちに問うた。
「なぜ人々は死ぬと分かっていて餅を食べ続けるのか」
誰も答えられなかった。彼らもまた、餅を食べていたからである。
◆
一九四一年、餅の猛威は全世界に広がっていた。
アメリカだけでなく、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア。あらゆる国に餅は浸透し、あらゆる国で人々が死んでいく。
この年だけで、餅による死者数は世界全体で三百万人に達した。第一次世界大戦の戦死者数を、わずか一年で超えたことになる。しかも戦争と違い、餅による死は終わる気配がなかった。
日本国内でも、事態は深刻化していた。
餅の生産量を増やすため、品質管理が疎かになったのである。粘性の強すぎる餅、添加物が過剰な餅、保存状態の悪い餅。そうした「欠陥餅」が市場に出回り、日本人の死者も急増していく。
一九四一年、日本国内での餅による死者は月平均三万人に達した。年間で三十六万人。これは日清戦争の戦死者数の十倍以上である。
「本末転倒ではないか」
軍部内から批判の声が上がった。
「敵を殺すつもりが味方まで殺している」
田所一郎はこの批判に対して冷静に反論した。
「確かに我が国でも犠牲者は出ています。しかし敵国の被害は我々の比ではありません。アメリカでは毎日三万人が死んでいる。イギリスでは二万人、フランスでは一万五千人。我々の月間死者数を、彼らは一日で超えているのです」
数字は嘘をつかなかった。
日本の犠牲は確かに大きかったが敵国の犠牲はそれを遥かに上回っている。この不均衡こそが餅戦略の本質だった。
◆
一九四一年十二月八日、午前七時。
駐米日本大使館の野村吉三郎大使は国務省に向かう車の中で封筒を握りしめていた。その中にはアメリカ合衆国に対する最後通牒が入っている。
形式上は宣戦布告だった。
しかしその内容は通常の宣戦布告とは大きく異なっていた。
「帝国政府は合衆国政府に対し、以下の点を通告する」
文書にはそう記されていた。
「一、日米間の外交交渉は本日をもって終了する。二、帝国は合衆国との間に戦争状態に入ったものと見なす。三、ただし帝国は軍事行動を取らない。四、帝国は引き続き餅の輸出を継続する」
ハル国務長官は文書を読み終えると、しばらく沈黙した。
「……これは何かの冗談か」
「いいえ、閣下」
野村大使は静かに答えた。
「帝国政府は至って真剣であります」
「軍事行動を取らない宣戦布告だと? 餅の輸出を続けると? 一体何を考えているのだ」
「閣下はよくご存知のはずです」
野村の目は穏やかだったがその奥には冷たい光があった。
「餅が何をしているか。貴国の国民が毎日何人死んでいるか」
ハル長官の顔が歪んだ。彼自身、昨夜も餅を食べていた。やめたくてもやめられないのだ。机の引き出しにも、非常用の餅が隠してある。
「これは……これは宣戦布告などではない」
ハルは呻くように言った。
「これは死刑宣告だ」
「お好きなようにお呼びください」
野村は一礼して、部屋を後にした。
その日の午後、ルーズベルト大統領は議会で演説を行った。
「日本帝国は我が国に対して宣戦を布告した」
議場はざわめいた。しかしそのざわめきには怒りよりも恐怖の色が濃かった。
「彼らは爆弾を落とすとは言っていない。軍艦を送るとも言っていない。彼らは餅を送ると言っている」
大統領の声は震えていた。
「そして我々は……我々は餅を止めることができない」
議場に沈黙が落ちた。
誰も反論しなかった。誰も対策を提案しなかった。なぜなら議員たちの多くも、ポケットに餅を忍ばせていたからである。
こうして、史上最も奇妙な戦争が正式に始まった。
銃声のない戦争。爆発のない戦争。ただ餅だけが静かに人を殺し続ける戦争。
◆
宣戦布告から数日後、計画されていた真珠湾への奇襲攻撃の計画が正式に中止された。機動部隊はハワイの手前で反転し、本土に帰還する。山本五十六の決断だった。
「餅を信じる」
彼は短くそう言っただけで、理由を説明しなかった。
軍部では大混乱が起きたが数字を見れば山本の判断が正しいことは明らかだった。アメリカはすでに餅との戦いで疲弊しきっていたのである。
この時点で、アメリカの餅関連死者数は累計で八十万人を超えていた。
医療システムは完全に崩壊し、病院は餅の被害者で溢れかえっている。救急車の平均到着時間は三時間を超え、助かるはずだった命が次々と失われていった。
軍需工場の労働者も餅から逃れることはできなかった。工場内での餅による死亡事故が相次ぎ、生産性は大幅に低下している。戦闘機も軍艦も、予定通りには完成しない。
ルーズベルト大統領は苦渋の決断を迫られていた。
「餅を禁止すべきだ」
側近の一人が進言した。
「禁止すれば、禁断症状で死ぬ者が続出する」
「ではどうしろというのだ」
「……分かりません」
誰も答えを持っていなかった。餅を食べれば死に、食べなくても死ぬ。この悪夢から逃れる方法はどこにも存在しないように思われた。
◆
一九四二年、世界は餅地獄と化していた。
この年の餅関連死者数は全世界で一千二百万人に達した。第二次世界大戦の全戦死者数を、餅は一年で超えてしまったのである。
アメリカでは毎日五万人が死んでいた。朝起きてニュースを見れば、昨日の餅死者数が発表されている。五万三千人、四万八千人、五万一千人。数字は毎日変動したが減ることはなかった。
「餅パンデミック」という言葉が生まれた。しかしこれはパンデミックとは本質的に異なるものだった。病気は治療できる。予防できる。しかし餅への欲求は治療も予防もできないのである。
イギリスではチャーチル首相が餅禁止令を発令した。
結果は悲惨だった。
禁止令から一週間で、二十万人が禁断症状で死亡する。街中で人々が発狂し、暴動が起き、社会秩序は完全に崩壊した。
「餅をよこせ」
「殺してもいいから餅をくれ」
「餅なしでは生きられない」
人々は叫び、暴れ、そして死んでいった。チャーチルは三日で禁止令を撤回せざるを得なかった。
フランスでは餅の配給制が導入された。
一人一日あたりの餅消費量を制限し、窒息死を減らそうという試みである。しかしこれも失敗に終わった。配給量では足りない人々が闇市場に殺到し、粗悪な餅を高値で買い求める。その粗悪な餅は正規品よりも遥かに危険だった。
闇餅による死者は正規品の三倍に上ったという。
ドイツではヒトラーが餅を「ユダヤの陰謀」と断じて全面禁止した。
結果、ドイツ国民の三分の一が禁断症状で死亡する。軍の兵士も例外ではなく、東部戦線は餅不足で崩壊した。ヒトラー自身も密かに餅を食べていたという噂があり、それが事実だとすれば、彼の狂気の原因は餅だったのかもしれない。
◆
日本国内でも、犠牲者は増え続けていた。
一九四二年、国内の餅関連死者数は月平均五万人に達した。年間で六十万人。これは日露戦争の戦死者数の七倍に相当する。
しかし田所一郎は動じなかった。
「我々が六十万人失う間に、敵国は二千万人を失っている。この比率が続く限り、我々の勝利は確実です」
問題は餅の生産が追いつかないことだった。
国内需要と輸出需要の両方を満たすには現在の生産量では全く足りない。政府は「餅増産五カ年計画」を策定し、全国の農地を餅米の栽培に転換していった。
米が餅に変わり、餅が死に変わる。この連鎖はもはや誰にも止められなかった。
一九四二年の暮れ、ある事件が世界を震撼させた。
ニューヨークのタイムズスクエアで、大規模な餅パーティーが開催されたのである。主催者は不明。突如として広場に大量の餅が積み上げられ、人々は我先にと群がった。
その夜だけで、一万二千人が死亡した。
窒息死、圧死、禁断症状による発狂死。あらゆる死に方で人々は倒れていき、タイムズスクエアは文字通りの地獄絵図と化した。
後の調査で、この事件の背後に日本の工作機関がいたことが判明する。しかしその時にはもう手遅れだった。
◆
一九四三年、餅関連死者数はこの年だけで三千万人に達した。累計では五千万人を超え、第一次世界大戦の民間人、軍人を含めた全死者数の推計を遥かに上回っている。
だのに、世界情勢は第二次世界大戦待ったなしである。世界中がキナ臭くなってはいるものの、戦争はまだ本格的に始まっていない。
これで本格的に戦争が始まればどうなってしまうのか。
アメリカでは人口の一割以上が餅で死亡していた。
労働力不足は深刻を極め、工場は閉鎖され、農地は荒れ果てていく。軍隊を編成しようにも、兵士になれる健康な若者がいない。彼らは皆、餅を食べて死んでいるか、餅を求めて発狂しているかのどちらかだった。
「もはや戦争どころではない」
軍の幹部たちはそう嘆いたが解決策は見つからなかった。
ルーズベルト大統領は極秘のプロジェクトを立ち上げていた。
「セーフ・スワロー計画」。餅を安全に飲み込むための技術を開発する国家プロジェクトである。本来ならば原子爆弾の開発に充てられるはずだった予算と人材が餅の研究に投入された。
プロジェクトを率いるのはロバート・オッペンハイマー博士。
「餅か」
彼は最初の会議で、サンプルとして提供された餅を見つめながら呟いた。
「これが我々の敵だというのか」
オッペンハイマーは餅の物理的特性を徹底的に分析した。粘性、弾性、熱伝導率、水分含有量。あらゆる角度から餅を調べ、その危険性のメカニズムを解明しようとした。
しかし技術的な対策だけでは問題は解決しなかった。餅の粘性を下げる添加物を開発しても、人々はそれを「本物の餅ではない」と言って拒否する。本物の餅でなければ、依存症は満たされないのである。
「彼らは死んでも本物の餅を求める」
オッペンハイマーは報告書にそう記した。
「これは科学の問題ではない。人間の魂の問題だ」
◆
一九四三年の夏、田所一郎は「超粘餅」の開発に成功した。
通常の餅の五倍の粘性を持ち、一度喉に詰まると、外科手術でも取り出すことが不可能な餅。これを食べた者はほぼ確実に死ぬ。餅に対して造詣が深い日本人ですら、五人に一人は死ぬという代物だ。
ただし──美味い。
「これは兵器ではないのか」
軍部内から疑問の声が上がった。
「いいえ、食品です」
田所は冷静に答えた。
「より美味しく、より食べ応えのある餅を作っただけのこと。それを食べた人間が死ぬのは食べ方が悪いからです」
超粘餅は秘密裏にアメリカへ輸出された。
価格は通常の餅の十倍だったが飛ぶように売れた。「究極の餅」「一度食べたら忘れられない」という触れ込みで、富裕層を中心に爆発的な人気を博す。
そして爆発的な速度で人を殺した。
超粘餅による死者は最初の一ヶ月だけで五十万人に達した。通常の餅による死者を含めると、アメリカでは毎日十万人以上が死んでいることになる。
人口一億三千万人のアメリカで、毎日十万人が死ぬ。単純計算で、四年で国民が全滅する速度だった。
◆
一九四三年の秋、アメリカ各地で暴動が発生した。
餅を求める暴動ではない。餅を拒否する暴動だった。
「餅を燃やせ」
「餅を海に捨てろ」
「餅がなければ平和になる」
一部の人々は餅こそが全ての元凶だと気づき始めていた。彼らは餅屋を襲撃し、餅を焼き払い、餅の輸入を止めようと港を封鎖した。
しかしこの運動は長続きしなかった。
暴動に参加した者たちの多くは数日後には餅を求めて狂い死にしていったからである。彼らもまた、既に餅に依存していた。餅を憎みながら、餅なしでは生きられない。この矛盾が彼らの精神を引き裂いていった。
「餅を殺してくれ」
ある暴動参加者は死の間際にそう叫んだという。
「餅を殺して、俺を自由にしてくれ」
彼の願いが叶うことはなかった。餅は生き続け、人々を殺し続けた。
◆
一九四四年、世界の人口は急速に減少していた。
餅関連死者数は累計で一億人を超え、地球上の人口の約五パーセントが餅で死んだことになる。しかも、この数字は加速度的に増え続けていた。
ヨーロッパでは戦争よりも餅で死ぬ者の方が多くなっていた。ドイツ軍もソ連軍も、餅の前では等しく無力だった。兵士たちは敵と戦う代わりに餅を求め、餅を奪い合い、餅で死んでいく。
「これは戦争ではない」
ある将軍はそう嘆いた。
「これは餅による人類の自殺だ」
日本でも犠牲者は増え続けていた。
一九四四年、国内の餅関連死者数は月平均八万人に達した。年間で約百万人。しかし田所一郎はこの数字を「許容範囲」と見なしていた。
「敵国では年間四千万人が死んでいる。我々の犠牲はその四十分の一に過ぎません」
彼の計算は正しかった。しかしその計算の冷酷さに、周囲の者たちは戦慄を覚えた。
◆
一九四四年の暮れ、アメリカでは奇妙な現象が起きていた。
餅を食べない人々が現れ始めたのである。
彼らは「餅断ちの聖者」と呼ばれ、宗教的な崇拝の対象となった。どうやって餅への依存を断ち切ったのか、彼ら自身にも分からなかったがとにかく彼らは餅なしで生きていた。
「神の加護だ」
「奇跡だ」
人々は彼らの周りに集まり、救いを求めた。しかし聖者たちは何も与えることができなかった。彼らは餅を断ったのではなく、最初から餅を食べていなかっただけだったからである。
一度でも餅を口にした者には救いはない。その事実が明らかになると、聖者たちは怒った群衆によって殺された。
◆
一九四五年四月、ルーズベルト大統領が死去した。
公式発表では脳出血とされたが実際の死因は超粘餅による窒息だった。大統領は禁止令を出した後も秘書に命じて餅を入手させ、毎晩こっそりと食べていたのである。
彼の最期の言葉は「もう一つ」だったという。
新大統領トルーマンは就任早々に重大な決断を迫られた。
「日本との和平交渉を開始します」
閣議でそう宣言した時、誰も反対しなかった。反対する気力すら、もはや誰にも残っていなかったのである。
アメリカの人口は四年前の半分以下に減少していた。六千万人以上が餅で死に、社会機能は完全に崩壊している。このまま餅との戦いを続ければ、アメリカという国家は消滅するだろう。
◆
サンフランシスコ講和会議は一九四五年九月に開催された。
日本側の全権代表は重光葵。アメリカ側はバーンズ国務長官。両者はテーブルを挟んで向かい合ったがその表情は対照的だった。重光は静かな自信に満ち、バーンズは憔悴しきっていた。
「我々の要求は単純です」
重光は言った。
「餅の自由貿易の保障。そして餅に関するいかなる規制も行わないこと」
バーンズは項垂れた。
これを認めればアメリカ人は餅を食べ続け、死に続けるだろう。しかし認めなければ禁断症状でさらに多くの人が死ぬ。餅による発狂死は死に至るまでにやや時間がかかる。その間に被害者は大いに激発し、暴れ、周辺環境に大きな被害を齎すのだ。
どちらに転んでも地獄だった。
「……分かりました」
彼は掠れた声で答えた。
「全ての条件を受け入れます」
こうして、太平洋戦争は終結した。
正確に言えば、戦争は始まってすらいなかった。一発の銃弾も撃たれず、一機の爆撃機も飛ばなかった。しかし一億五千万人以上の命が失われた。
そのほとんどは餅を食べて死んだのである。
◆
戦後、餅は「人類史上最大の大量破壊兵器」と呼ばれるようになった。
原子爆弾が投下されることはなかったが餅はそれ以上の破壊力を持っていた。放射能汚染のような後遺症はないが依存性という形で人類を永遠に蝕み続ける。
一九五〇年代に入っても、餅による死者は減らなかった。世界全体で年間二千万人。累計では三億人を超える。
それでも人々は餅を食べ続けた。
「なぜ食べるのか」
ある記者が餅を頬張る老人に尋ねた。
「死ぬと分かっているのに、なぜ食べるのですか」
老人は微笑んだ。
「美味いからだよ」
そう言って、彼は最後の一口を飲み込んだ。三十秒後、彼は息を引き取った。
◆
田所一郎は一九七三年に八十二歳で亡くなった。
死因は餅による窒息死だった。彼は最期の瞬間まで、自らが生み出した「兵器」を愛していたのである。
「本当にこれで良かったのだろうか」
晩年の彼はよくそう呟いていたという。餅は確かに日本を勝利に導いた。しかしその代償として、人類全体に癒えない傷を負わせた。
日本人もまた、餅で死に続けている。戦後だけで五百万人以上が餅で命を落とし、その数は今も増え続けていた。田所の葬儀には多くの人が参列した。政治家、軍人、財界人、そして一般市民。彼らは田所の功績を称え、その死を悼んだ。
しかし彼の墓石には何も刻まれていなかった。
田所自身の遺言だった。
「私の名前は残さなくていい。餅だけが残ればいい」
山本五十六は一九六七年に天寿を全うした。死因は老衰であり、餅ではなかった。
彼だけは餅を一度も食べなかったのである。
なぜかと聞かれると、彼は微笑んでこう答えた。
「私は餅の本当の姿を知っているから」
◆
二十一世紀の今日、餅は依然として世界中で食べられている。
研究に次ぐ研究によって、餅による死者数は大分減った。しかしそれでも毎年、万単位の人々が餅関連で命を落としている。窒息死、禁断死、餅を巡る争いによる死。あらゆる形で人々は死に続けている。
しかし餅の消費量は減るどころか増え続けていた。
「餅を食べる権利」は基本的人権の一つとして、国連憲章にも明記されている。餅を規制しようとする政府は国際社会から非難され、制裁を受ける。餅は人類の一部となり、もはや切り離すことは不可能だった。
時折、餅の危険性を訴える運動が起きる。
デモが行われ、請願書が提出され、議会で議論が行われる。しかしそれらは常に少数派の声に留まり、大きなうねりにはならない。
なぜなら運動の参加者たちもまた、餅を食べているからである。
餅を憎みながら、餅を愛している。餅に殺されると知りながら、餅なしでは生きられない。この矛盾を抱えたまま、人類は餅と共に歩み続けている。
歴史家たちは問い続ける。
なぜ日本は勝利できたのか。なぜ世界は餅に屈したのか。
答えは単純だった。
餅が美味しすぎたのである。
あまりにも美味しすぎたのである。
人類の歴史は美味しいもののために動いてきた。
香辛料を求めて大航海時代が始まり、砂糖のために奴隷貿易が行われ、茶を巡って戦争が起きた。餅もまた、その系譜に連なるものなのかもしれない。
ただし、餅には他の食品にはない特徴があった。
それは自らの愛好者を殺し続ける能力である。
窓の外では今日も餅屋の前に行列ができている。
人々は嬉しそうに餅を買い、嬉しそうに食べ、そして何割かは二度と戻ってこない。
それでも行列は途切れない。
明日もまた、新しい客がやってくるだろう。
明後日も、その次の日も。
人類が滅びるその日まで。
(了)
白い悪魔 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03
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