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グスターヴという老人には奇妙な日課がある。
毎朝、目覚めると真っ先に壁に向かうのだ。
そして掌に収まるほどの小さな石片──鉱脈から零れ落ちたやつだ──を握り込み、固い岩壁にしゅっ、と短い線を刻む。
一日一本。
これを飽きもせず、欠かさず続けている。
ある朝、歳三はその様子をぼんやりと眺めていた。
岩肌には既に相当な数の線が刻まれている。五本目ごとに斜線で束ね、それが何段にも連なっていた。歳三は何となく数えてみようかとも思ったが数え始める前にグスターヴが振り返った。
「七百八十三日、だよ」
グスターヴは嗄れた声で言った。歳三が数えようとしていた事に気づいたのだろうか。いや、単に誰かに聞いてほしかっただけかもしれない。
「ここに入れられてから七百八十三日。毎朝一本、欠かした事はない。一日だって」
歳三は何も言えなかった。七百八十三日。二年と二ヶ月ほどか。この穴蔵の底で、毎朝毎朝壁に線を引き続けて。
「数えることは人間の証だよ」
グスターヴは壁の線を見つめたまま穏やかに言った。
「数を忘れたら獣と変わらん。だから私は数えるのさ。数え続ける限り、私は私でいられるからね」
そう言ってグスターヴは笑った。嗄れた声と同じく乾いた笑みだが、不思議と温かい。
歳三は何も返せなかった。
──数える。
数えること。
それはかつて金城権太という男が酒の席で語った言葉と妙に重なるのだ。
もう二十年以上も前になるだろうか。池袋北口の居酒屋「超都会」で。歳三と権太はビールを飲んでいた。権太は探索者協会の買取センターの古株職員であり、そして数少ない飲み友達の一人である。歳三は当時既にダンジョンに二年ほど潜っており、地上の日付の感覚が曖昧になりかけていた頃だ。
「佐古さん、ちょっと気になったんですけどね。日数──探索者になってからの日数、いつから数えなくなりました?以前はほら、やれ半年記念だ、一年記念だと言ってたじゃないですか」
権太はビールのジョッキを傾けながらそう訊いた。唐突に。
「え? あー……いつからだっけな。最初のうちは数えてたんだけどよ」
「でしょうねぇ。佐古さん、一つおせっかいを言いますけどね。数えなくなった辺りから、ちょーっとおかしくなってると思うんですよ。ここ最近長期での探索が増えてますよね。探索者の平均探索期間はええと、乙級の下っ端なら、まあ……一週間くらいですかね?でも佐古さんは二か月も三か月も潜りっぱなしだ」
権太はそう言って、ビールを一口ぐいと飲んだ。その口調は普段のねっとりした感じから少しだけ変わっていた。
「おかしいって……そりゃあねえだろ、金城さん」
「いやねぇ、おかしいですよ。佐古さん、最後に地上でご飯食べたのいつです?」
「……さあ、今、かな?」
「お風呂は?」
「……さあ」
「人とお喋りしたのは?」
「今」
「それ以前は?」
「……さあ」
権太はジョッキをテーブルに置き、太い指で首元のホクロをいじくりまわした。
「いいですか、佐古さん。数えないって事は区切らないって事でしょう。区切らないって事は、始まりも終わりもないって事ですよ。始まりも終わりもなくなっちゃったら、自分が今どこにいるかも分からなくなる。そこから悪化するとね、ダンジョンの底か地上か、それすら怪しくなってくるンですよ」
「……俺は別に困ってねえですけどね」
「困ってないのが一番まずいんですよ。自分が何処にいるかわからなくなるとね、人は人でいられなくなるんですよ……特に、探索者ってやつはね」
権太は細い目で歳三の顔をじっと見た。それからもう一度ビールを飲み、続けた。
「まあね、余計なお世話とは思いますよ。ただね、たまには数えてくださいよ。今日が何日目かぐらいでいいんですから。それだけで全然違うものですよ、本当に」
歳三はその時「へへ、了解っす」と頭を下げただけで、結局一度も数えようとはしなかった。
あの忠告の意味が本当には分かっていなかったのだと思う。二十年経っても分かっていない。
──しかし今、グスターヴの壁の線を見ていると、あの夜の権太の顔が妙にはっきりと浮かぶのだ。
歳三はそのまま黙り込んだ。黙り込んで親指をしゃぶった。
ドルクがその様子を横目で見ていたが何も言わない。代わりに水の入った椀を歳三の前に置いた。
「飲め」
とだけ言った。
歳三は親指を口から離し、椀を手に取り、一口飲んだ。
ぬるい。泥の味がした。
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それから間もなく、朝の号令が坑道に響き渡った。
バルグスの怒号は相変わらず耳障りだが最近は歳三の房に対してだけやや声量が控えめであるという事実に、当の歳三は全く気づいていない。
◆◆◆
城塞都市ベルグリット。
聖女セフィラ・アークライトに与えられた宿舎は帝国が管理する官舎の一室であり、決して豪華とは言えないが清潔で静かな部屋であった。
勇者が死に、新たな勇者選定のために滞在を命じられてから、もうかなりの月日が経っている。
その間、セフィラが何をしているかといえば──何もしていないのである。
語弊があるかもしれない。正確に言えば帝国から時折もたらされる事務的な書簡に目を通し、返事を書くのが唯一の「仕事」であった。召喚の儀の進捗に関する報告。次期勇者の候補に関する打診。いずれも定型文に等しい内容であり、セフィラの返答もまた定型文で事足りた。
それ以外の時間は完全に彼女のものである。
朝は好きな時刻に起き、窓辺の椅子で茶を飲みながら街の喧騒を眺め、昼は書物を繙き、夕刻には市場まで足を延ばして食材を買い求め、夜は自室で静かに食事を摂る。
──実に快適であった。
無論、セフィラはこの快適さの正体を理解している。
天道ユウキがいないのだ。
あの男がいた頃は、夜が来るたびに全身が強張った。扉の軋む音がするだけで胃が絞られた。彼女の身体はあの男の所有物として扱われ毎晩のように汚された。
今、その恐怖がない。
それだけのことで朝の陽射しがこれほど温かいとはセフィラは知らなかった。
温かいのだ。ただ陽が差しているだけのことが。
だからこそ──と彼女は思う。
このままではいけない。
この快適さに溺れてしまえば彼女はただの帝国の飼い犬に成り下がる。聖女という名の装飾品。勇者の添え物。新しい勇者が召喚されれば、同じ地獄がまた始まるだけだ。
そうはさせない、とセフィラは自分に言い聞かせている。
彼女が欲しているのは、自らの運命を自ら定める力であり、そのための手駒である。
佐古歳三。
あの不可解な中年男。聖女であるところの自分に「へへ……どうもすんません」と揉み手をしていた男。その同じ手が勇者の頸椎を粉微塵にした。
あの男さえ確保できれば使い道はいくらでもある。帝国に対する交渉の切り札。森の民への攻撃を止めるための抑止力。あるいは、万が一の際の盾。
打算であることは認める。
だが打算だけかと問われれば、セフィラは少しだけ口ごもるだろう。
あの男は自分を庇おうとしたのだ。ユウキに胸を鷲掴みにされた時、あの冴えない中年男は明らかに怒っていた。それが勇者に対するものだったのか女に対する暴力への義憤だったのか、彼女にはわからない。
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ヘンダーソンが姿を現したのはその日の夕刻であった。
裏口から入ってきたその男は以前と変わらぬ飄々とした態度で一礼する。ただし目の下に隈が濃い。ここ数週間ろくに眠っていないらしい。
「聖女サマ、ご機嫌麗しゅう。いやぁ、えらい目に遭いましたよ」
「あの襲撃の始末はつきましたの」
セフィラは単刀直入に切り出した。
ヘンダーソンは肩を竦める。
「始末も何も──全員、帰ってきませんでしたよ」
あの護送隊襲撃は完全な失敗であった。
ヘンダーソンが金と人脈を注ぎ込んで集めた実行部隊──「人食い」ウォーケン、「毒針」イライザ、「影狼」ロムとレム。いずれも裏社会では名の知れた連中であった。
一人も帰ってこなかった。
護送隊がジャコール鉱山に到着したという情報だけは掴んでいる。つまり襲撃は失敗し、そして襲撃者は全滅した。それだけは確かだ。だが何があったのかは分からない。護送隊の精鋭が返り討ちにしたのか、あるいは他の何かが起きたのか。ヘンダーソンの情報網をもってしても、その詳細は闇の中であった。
「ウォーケンだのイライザだの、あんな連中が揃って全滅するってのは尋常じゃねぇ。護送隊の側にも相当な戦力がいたってことでしょうが、それにしたって腑に落ちねえ」
ヘンダーソンは顎を掻きながら唸った。
「いずれにせよ、同じ手は二度と使えない。裏社会にゃ腕利きが消えたって噂が広まっちまって、新しい頭数を揃えるのも一苦労ですぜ」
「それは結構ですけれど」
セフィラの声がひんやりと冷える。
「肝心の歳三さんは今、ジャコール鉱山にいるのでしょう? あの方をこちらに引き入れる手段がなければ、千人力も万人力も絵に描いた餅ですわ」
「ええ、そのことなんですがね」
ヘンダーソンは懐から一通の密書を取り出した。
「鉱山の中に、俺の息がかかった奴を一人送り込んでありやす」
セフィラが僅かに目を細める。
「……いつの間に」
「まあそれが俺の商売ですんで。ジャコール鉱山ってのは確かに地獄ですが、人が回している以上は物流があり、物流がある以上は人の出入りがある。鉱石の運搬、食料の搬入、監督官への定期報告──そういった裏口はいくらでもありましてね」
ヘンダーソンは椅子の背にだらしなく体を預けた。
「そいつは新入りの運搬夫として潜り込んでおりやす。直接サイゾウに接触できるわけじゃありませんが、鉱山の内情──囚人の配置、監督官の性格、坑道の構造、そういった情報は上がってくる」
「情報があっても、前と同じことになりませんこと? 力ずくで助け出そうとして全滅──では話になりません」
セフィラの声は穏やかだが、刃物のように鋭い。
「……おっしゃる通りで」
ヘンダーソンは珍しく苦い顔をした。
「前回何が起きたか分からねえのが一番まずい。敵の正体が分からないまま突っ込むのは下の下でさ。ならばどうするか」
ヘンダーソンは指を一本立てた。
「あの男が自分の意志で出てくるように仕向けるしかない」
「自分の意志で?」
「ええ。あの男は今、自分が『罪人』だと思い込んでいる。罪を償うために鉱山にいるんだと。だったら償わせてやりゃあいい。償い終わった、もうお前は自由だ、と──誰かが権威をもって告げてやれば、あの男は大人しくついてくるでしょうよ」
「……誰かが」
セフィラは自分の頬に手を当てた。
帝国の聖女。その権威は、少なくとも一介の囚人を騙すには十分だ。
「面白いですわね」
その言葉には微かな、だが確かな凄みがあった。
「ただし」
セフィラは続ける。
「すぐには動けません。帝国の目がありますもの。今のわたくしには聖女としての体面を保ちながら、時機を見極める忍耐が求められています」
「無論でさぁ。こちらも急ぐつもりはねえ。あの男が鉱山の中でくたばらなけりゃの話ですがね」
「死にませんわよ、あの方は」
セフィラは断言した。
「勇者を平手打ちで殺す方が、鉱山ごときでくたばるはずがありません」
ヘンダーソンは一瞬きょとんとし、それからくつくつと笑った。
「聖女サマがそこまで言い切るってぇのは大したもんだ。まあ俺もそう思いますがね」
二人の間に短い沈黙が降りた。
窓の外では城塞都市の夕暮れが街並みを橙色に染め上げていた。市場の喧騒すらどこか牧歌的に聞こえる、穏やかな夕刻。
聖女と情報屋。
互いに相手を信用してはいない。互いに互いを利用しようとしている。だがその利害の一致点に、佐古歳三という男の存在がある。
ヘンダーソンが立ち上がる。
「じゃあ聖女サマ、次の報告はひと月後くらいになりやすかね。急ぎの用があればいつもの妖精経由で」
「ええ。お気をつけて」
ヘンダーソンは裏口から出て行った。
一人になったセフィラは窓辺に戻り橙色の空を見上げた。
鉱山の空もこんな色をしているのだろうか。
いや、あの場所に空などない。
ふと、彼女は先日まで寝台の枕元に置いていた天道ユウキの運転免許証──をへし折った夜のことを思い出し、あの清々しさを記憶から引き出した。
今の自分には、あの男の遺品に費やす時間すら惜しい。
セフィラは静かに窓を閉めた。
◆
話は少々前後するが、ジャコール鉱山での歳三の日々は相変わらず淡々としたものであった。
朝に目覚め、号令に従い、坑道に降り、拳で岩を殴り、適度に手を抜き、飯を食い、寝る。
消灯後に死霊が出ることもあったがもはや歳三のいる第十七房に近づく死霊はいなくなっていた。歳三が殴った三体の死霊の『噂』が死霊の間でも広まったのかどうかは不明だがともかく事実として、この房だけが奇妙な安全地帯と化していた。
そのことに歳三は気づいていない。というより彼は「最近静かでいいな」くらいにしか思っておらず、それが自分の拳のせいだとは夢にも考えていないのである。
この男はいつもそうだ。
その夜。
消灯後の暗がりの中で、歳三は天井の岩肌を見つめていた。
隣ではヤーギが丸くなって眠っている。その向こうでベルッツの巨体が規則正しく上下し、カンツの鼾が坑道に響いている。グスターヴは壁にもたれて静かに目を閉じており、ミーロはいつも通り虚ろな表情で膝を抱えていた。
ドルクだけが起きていた。
番をしているのだ。消灯後にも死霊は出る。以前は交代で見張りを立てていたが最近はドルクが一人で全部やっている。歳三が死霊を黙らせてからは出番がないにもかかわらず、だ。
「おい、サイゾウ」
ドルクの低い声が闇に響く。
「は、はい」
「お前、ここに来る前は何をしていたんだ」
ドルクの問いかけは無造作だがこの男にしては珍しく私的な質問であった。普段のドルクは必要なこと以外を口にしない。水を飲めか、寝ろか、そのいずれかだ。
歳三は答えに窮した。
何をしていたか。
冒険者をやっていた──というのが事実ではあるが、冒険者になったのはベルグリットに転移してからの話であり、たかだか数日の経歴に過ぎない。それ以前は東京で探索者をやっていたわけだが、それをこの世界の言葉でどう説明すればよいのか見当もつかない。
「えっと……その……なんつーか……あの……」
歳三は後頭部を掻きながらしどろもどろに唸った。嘘を吐くのも下手、本当のことを言うのも下手。結局のところこの男は、自分のことを他者に説明するという行為そのものが極端に苦手なのである。
「……ま、言いたくなきゃいい」
ドルクはあっさりと引いた。
「ただな」
暗闇の中でドルクの目が微かに光る。
「お前が何者であれ、この房の連中はお前のおかげで生きている。それだけは覚えておけ」
歳三は何も返せなかった。
こういった|含《・》|む《・》所が多い会話では何を返せばいいかわからないのである。要はオツムの回転が鈍いのだ。
歳三は天井の岩肌に目を戻した。
──数えてなかったな。
今日で何日目だったかと一瞬悩む歳三だが。
──よし、明日から数えよう。
と、明日の自分に任せるに至った。