そのうち気が向いたら公開します。五万か、十万か──まあそのへんの文字数までいけば。とりあえず一話目だけ公開し、あとはサポ限でほそぼそと書きます。サポーターさんもちょいちょい支援してくださってるので、何かしら限定コンテンツは必要かと思いました
あらすじ
「信じられないほどのクズ。それが元太という男だ。元太の世界は狭い。金、女──それしか興味がない。だからどうでもいいのだ、幽霊やら怪奇現象やら、そんなものなど」
◆
暁闇いまだ去りやらぬ午前六時二十三分。
道成寺元太がその醜怪なる肉体を腐朽しかけた畳上より引き剥がしたるは、畢竟、生理的な欲求、就中、膀胱に蓄積された液体の排出という、動物的な焦眉の急に駆られてのことであった。
四十七年の歳月を経たその臓器は、もはや夜通しの貯留という重責に耐え得るほどの堅牢さを持ち合わせてはいない。その陋屋の、築四十余年を経た安普請の床を踏みしめれば、家全体が崩落を訴えるかのような不吉な軋み音を発した。家賃三万二千円。それすら、既に二ヶ月の滞納を重ねている始末であった。
便所へと続く薄暗き廊下にて、元太は俄かにその歩みを止めた。壁に、あたかも地獄絵図の一葉が抜け出したるが如き、蒼白の女の面相が浮かび上がっていたのである。その眼は虚ろに虚空を彷徨い、口元からは黒々とした粘液状の何かが一筋垂れていた。けれども元太はその超自然的なる怪異に些かも頓着せず、ただその現象が壁紙の汚損を意味し、結句、家主たる老婆からの執拗なる詰問に繋がるであろうことを思料し、深く舌打ちするのみであった。
女の顔を素通りし、元太は便所へと入る。
己が肉体から濁った液体を排出させながら、元太は本日一日の段取りを脳裏に描いていた。午前八時に「マイミー」と称する口入れ稼業の事務所にて点呼を受け、然る後、その日の現場へと赴く。本日は家屋の解体作業と聞かされていた。日当八千円。源泉徴収などという洒落た制度とは無縁、故に納税の義務は自らに課せられる。けれども、元太が確定申告などという国民の義務を律儀に果たしたのは、既に三年以上も昔のことだ。
「くそったれが……」
誰にともなく悪罵をほきだし、用を終えて便所を出れば──廊下の女は未だそこに佇んでいた。今度はその骸骨のような顎をわななかせ、何かを訴えんとする風情で元太を見つめている。元太はフンと鼻を鳴らした。
「うるせえんだよ、朝っぱらから。気色悪い面しやがって」
六畳間に立ち戻り、昨日脱ぎ捨てた作業着を拾い上げる。三日は洗滌していないその衣類からは汗と脂の酸化した堪え難き異臭が放たれていた。けれども、洗濯機を稼働させるための金銭的余裕など端から無い。より正確に言えば、水道の供給停止が目前に迫っているのである。今月中に一万三千円也を納めなければ、生命線たる水は完全に断たれる運命にあった。
その汚穢にまみれた作業着に腕を通しながら、元太は昨夜の痴態を反芻していた。
駅前にて営業する韓国系の出張店舗型性風俗。九十分で一万八千円という、彼の稼ぎからすれば法外な対価を支払った。金髪に染め上げたその女は「ユナ」などと名乗ってはいたが、どう見繕っても四十路はとうに越えているであろう醜婦であった。その奉仕も頗る懶惰を極め、結句、手技のみにて辛うじて射精に至ったという、何とも慊たらぬ結果に終わったのである。けれども来週になればまた彼はその番号へ電話をかけるに相違ない──他に女体を慰撫する術を知らぬが故に。
お冷やでも一杯嚥下せんと、台所の蛇口を捻る。けれども吐出されたのは、恰も断末魔の喘ぎのようなか細い水流のみであった。硝子のコップに映り込んだ己の顔貌は皮脂でぬらぬらと光る中年男のそれである。薄くなった頭髪、目の下に澱む濃い隈、そして頬を覆う無精髭。かかる醜態を晒しながら、二十代と詐称する風俗の女に劣情を抱くとは何とも救い難き痴愚の極みではあるまいか。
陋屋を後にし、一階の郵便受けを検分する。督促状が三通、そして数枚の広告ちらし。一通は区役所より住民税支払いの最終通告。一通は名の知れた消費者金融。そして最後の一通を認めた時、元太の顔から血の気が引いた。
裁判所からの特別送達。
震える指で封を切れば、案の定、給与差押命令の通知書であった。マイミーから支払われる日当が今後は直接、区役所の口座へと振り込まれる段取りになるという。その四分の一が、強制的に天引きされる、と。
「ふざけんじゃねえぞ、この糞役人が……!」
元太はその公権力からの通告書を、あたかも不倶戴天の仇敵の首を絞めるが如く、その汚れたる両の手で握り潰したのである。ただでさえ雀の涙ほどの日当から更に搾り取られる。これでは風俗どころか、日々の糧を得ることすら困難となろう。
駅へと向かう道すがら、元太の脳髄は金銭の計算で飽和していた。日当八千円、月に二十日稼働して十六萬円。そこから四萬円が差し押さえ。残りは十二萬円。これで家賃、光熱費、食費、そして……女。どう考えても、勘定が合う筈はなかった。
信号待ちをしていると、水気を帯びた制服をその幼気な肢体にまとわりつかせた童女が、俄に元太の傍らに嶄然と立ち現れた。その顔色は土気色で、如何にも不健康な様子である。元太は苛立った。朝から汚らしい餓鬼の姿など、見たくもない。
信号が青に変わる。元太が歩を進めると、童女もまた、その後に続いた。横断歩道を渡り終えても、なお執拗についてくる。元太は足を止め、振り返った。
「おい、糞餓鬼。なんだてめえは」
童女は無言のまま元太を見上げた。その眼窩は恰も墨汁を湛えたるが如く、底なしの闇を宿していた。糞生意気な餓鬼畜生めが、と元太は舌打ちを一つ。
「親はどうした。さっさと学校にでも行きやがれ」
返答はない。元太はそれに頓着することなく、再び歩き始めた。マイミーの事務所まで残すところ十分。遅刻すれば、ただでさえ減額される日当が、更に削られるやも知れぬ。幽霊か何者かは知らぬが、かかるものに拘泥している暇など微塵もなかった。
事務所は古びた雑居ビルの三階にその所在を構えていた。「マイミー人材サービス」と記された看板は、その半分が剥落しかかっている。中へ入れば、既に十数名の男たちが屯していた。いずれも元太と同類、その日暮らしの日雇い労働者という風体の者ばかりである。
「おう、道成寺。また遅刻か」
現場監督の田所が、人を食ったような笑みを浮かべて声をかけてきた。五十路を過ぎた小肥りの男で、他人を見下すような目つきが、その卑しい人間性を如実に物語っていた。
「ぎりぎり間に合ってんだろうが、ああ?」
「へいへい。今日は架場根町の解体だ。お前は瓦礫運びな」
最も過酷で、最も賃金の安い労働。元太は内心で田所の祖先まで遡って罵ったが、それを口に出すほどの勇気はない。ここで事を構えれば、明日からの仕事がなくなることは必定であった。
現場へと向かう護送車のようなワゴン車の中で、元太は瞼を閉じた。昨夜の女の、安っぽい香水の匂いと、ざらついた肌の感触を思い出そうと試みる。けれども、脳裏に浮かぶのは一万八千円という金額の重さばかりであった。三日分の労働に匹敵する対価を支払い、得たものといえば、ほんの数分間の、虚しい射精の快楽のみ。
「なあ、道成寺」
隣席の男が話しかけてきた。山田という名で、元太より些か若い。その顔貌には、アルコール依存症患者特有の赤みが浮いていた。
「昨日、妙な夢を見てな。死んだ女房が出てきたんだ」
元太は無視を決め込んだ。他人の夢語りほど、退屈で無価値なものはないに如くはない。
「お前を恨んでるって言うんだ。俺じゃなくて、お前をな」
「はあ?」
思わず振り返ると、同僚たる山田の顔貌が、俄に奇怪なる変容を遂げていた。その右半面は、見知らぬ女のそれに取って代わられ、怨嗟に満ちた眼差しを元太へと向けているではないか。元太は顔を顰めた。
「朝から酒でも残ってんのか、てめえは」
山田は答えず、ただじっと元太を見つめている。その目が、徐々に朝の童女と同じ、漆黒の闇へと変じてゆく。
元太の脳髄にて、堪忍袋の緒とでも呼ぶべき脆弱な一本の線が、ぷつりと断絶する音がした。朝からの怪異、そして給与の差し押さえ。彼の怒りは、既にはち切れんばかりに膨れ上がっていたのである。
「おい、山田! てめえ、何ガンつけてんだよ! 文句あんのか、ああ!? ぶっ殺してやるぞ!」
その怒号に、車内の全ての視線が一斉に元太へと突き刺さった。山田は、いつの間にか元の、ただ困惑した表情を浮かべる中年男に戻っている。
「な、なんだよ急に……」
「うるせえ! 二度と俺に話しかけんじゃねえぞ、このアル中が!」
監督の田所が振り返り、「うるせえぞ」と一喝した。元太は不承不承に黙り込んだが、腹の虫は些かも収まらなかった。
現場は、築七十年は経つという、古色蒼然たる木造家屋であった。軍手をはめ、瓦礫を運び出す。舞い上がる粉塵が肺腑を刺し、汗が滝のように噴き出す。八千円。この僅かな金銭のために、かくも過酷な肉体労働に甘んじねばならぬ。学もなく、資格もなく、技術もない人間の末路とは、畢竟、このようなものであった。
昼休み、コンビニエンスストアで購入したお弁当を食しながら、元太はスマートフォンの画面を眺めていた。「新人入店! 現役女子大生! 60分12,000円!」などという、噴飯ものの文句が躍っている。女子大生が斯様な稼業に身を窶す筈もない。どうせ三十路を過ぎた厚化粧の穴女郎に決まっている。けれども元太は、その店の電話番号を、律儀にもメモに書き留めるのであった。
午後の作業中、再び奇妙な出来事が持ち上がった。
二階部分を解体していると、壁の中から何かが落下した。それは、セピア色に変色した一枚の古い写真であった。着物姿の家族が写っている。父親らしき男、母親らしき女、そして三人の子供。けれども、その子供の一人の顔だけが、墨で黒く塗り潰されていた。
「なんだ、こりゃあ」
元太がその写真を拾い上げた途端、俄に悪寒が背筋を走った。真夏であるというのに、全身に鳥肌が立つ。写真の中の、黒く塗り潰された子供が、一瞬、動いたかのように思えた。
「おい、道成寺! 怠けてんじゃねえぞ!」
田所の怒声で、元太は我に返った。彼は写真を投げ捨て、作業へと復帰した。どうでもよい。古い写真がどうしたというのだ。今の元太には、何の関係もないことであった。
けれども、怪異はその後も執拗に続いた。
瓦礫を運搬していると、誰もいない筈の二階から足音が聞こえる。振り返れば、窓に人影がよぎる。他の作業員に尋ねても、「何も聞こえない」「何も見えない」と、怪訝な顔をされるばかりであった。
元太の苛立ちは、募る一方であった。幻聴か。度重なる心労が、己の精神を蝕んでいるのか。いや、違う。朝から、奇妙なものを見続けている。これは……。
「くだらねえ」
元太はそう吐き捨てた。幽霊だか何だか知らぬが、そんなものに構っている暇はない。今はただ、金を稼ぐことが最優先事項である。差し押さえられた分をどこかで補填せねばならぬのだ。
夕刻五時、作業は終了した。事務所で日当を受け取る。封筒の中身を検めれば、確かに八千円が入っている。これが、本日の稼ぎの全てであった。情けないほどに、少ない。
事務所を出ると、元太は駅前の立ち飲み屋へと足を向けた。おビール一杯三百円、つまみは百円の柿の種。これが、彼のささやかな、そして唯一の贅沢であった。
カウンターに陣取り、おビールを注文する。隣には、彼と同じような境遇であろう男たちが、皆、疲れ果てた顔で、黙々とグラスを傾けていた。
「はあ……」
ため息が漏れた。四十七歳、独身、日雇い労働者。貯蓄は皆無、借金は二百萬円を超える。この先の人生に、希望の光など一片も見出すことはできない。あるのはただ、風俗店で購う、一瞬の快楽のみであった。
おビールを嚥下し、もう一杯頼もうとした、その時であった。店内に設置されたテレビが、ニュースを報じ始めた。
「本日午後、架場根町の解体現場にて、作業員の男性一名が死亡する事故がありました。亡くなったのは山田孝之さん、三十九歳……」
元太は瞠目した。画面には、まさしく今日、己が汗を流した現場が映し出されている。山田。朝、ワゴン車で隣に座っていたあの男だ。
「死因は不明とのことで、警察は事故と自殺の両面から……」
元太は店を出た。
山田が死んだ。朝、あの奇怪な顔を見せた山田が。偶然だ、ただの偶然に相違ない。俺には関係ない。
陋屋への帰路、元太は歩きながら思考を巡らせていた。山田の顔、壁の女、濡れた童女、写真の中の黒い影。全ては、己の気の迷い。疲労が見せる幻覚。そうに決まっている。しかし、仮に気のせいではなかったとしたら?
そこまで考えた所で元太は思う。けっ、知ったことかよ、と。
自室へ戻り、電気のスイッチを入れる。薄暗い蛍光灯がかび臭い六畳間を照らし出した。そして、元太はその場に凍りついた。
部屋中に人がいたのだ。
壁に、天井に、床に。男、女、子供、老人。無数の人影が、部屋を埋め尽くしている。皆、表情というものがなく、ただ、あの漆黒の眼で、元太をじっと見つめていた。
その瞬間、元太の中で最後の理性の糸が、音を立てて断ち切れた。
「うるせええええええ!! なんだてめえら、ああ!? 文句あんのか! 金か! 金が欲しいのか! ねぇよ、そんなもんは! 俺は税金も払えねえ甲斐性なしだ! 風俗にも行けねえんだ! てめえら亡者に構ってる暇なんざ、端からねえんだよ!!」
絶叫しながら、元太は己がズボンを乱暴に引きずり下ろした。そして、四十七年の懶惰と貪婪の果てに萎びかけた、醜悪なる自身の男根を掴み出し、それをあたかも魔を祓う破魔矢の如く、部屋中に満ち満ちる亡者どもへ向け、狂乱の態で振り回し始めたのである。
事実元太は狂っていた。なにせ金がない。金がないのだ。金が無くなれば正気も失う。
「これでも見てろ、この糞どもが! きたねえだろうが! 四十七歳の汚ねえチンポだ! これがてめえらの見たいもんなのかよ、ああ!?」
その姿は、畢竟、狂人そのものであった。
すると何とも不思議なことに、あれほど濃密であった人影が、俄にその輪郭を薄れさせてゆくではないか。一人、また一人と、まるで霧が晴れるように消えてゆく。最後に残った老婆の霊が、心底呆れ果てた、というような顔をして消え去った。
部屋には、ズボンを下ろしたまま、荒い息をつく元太一人が残された。
「はあ……はあ……」
我に返った元太は、緩慢な動作でズボンを上げた。そして、煎餅布団の上に倒れ込む。疲れた。心底、疲労困憊であった。
携帯電話を取り出し、昼間メモした風俗店の番号を眺める。現役女子大生、六十分一万二千円。手持ちの金はない。けれども、消費者金融のカードには、まだ僅かながら借入枠が残っている筈であった。
元太は電話をかけた。
「もしもし、今から……」
窓の外で、誰かが嘲笑したような気がした。けれども元太は気にしない。今や彼の頭の中は、一時間後に訪れるであろう女のことで、完全に満たされていた。
明日もまた、朝から日雇いの仕事が待っている。明後日も、その次も。差し押さえられた給金で、借金を返済しながら、その合間に風俗へ通う。それが、道成寺元太の人生であった。
幽霊など、知ったことか。
電話で予約を取りながら、元太は薄汚れた天井を見上げた。そこには、未だうっすらと女の顔が浮かんでいたが、もはや彼の関心を引くことはなかった。これから来る女のことを思えば、そんなものはどうでもよかったのである。
結句、その夜も元太は一万二千円を散財した。訪れた女は、どう見ても三十五は過ぎていた。その奉仕も頗る雑で、僅か三十分で帰っていった。けれども元太は、それでも満足そうに眠りに就いた。
部屋の隅で、何者かが深いため息をついたが、その音は、元太のけたたましいいびきに掻き消された。
かくして、道成寺元太の一日は終わった。明日もまた、同じような一日が彼を待ち受けているに相違ない。借金と風俗と、そして、幽霊と──。