2年B組:地獄からの生還者たち

更衣室での着替えは、まさに戦場だった。

かじかんだ指先がうまく動かず、ボタン一つ留めるのにも一苦労だ。だが、乾いたワイシャツに袖を通した瞬間、安物の化学繊維がカシミヤ以上の極上の肌触りに感じられた。


「生きてる……俺、生きてるよな?」

タカシが半分青ざめた顔で、ストーブの前を陣取っている。


教室に戻ると、そこはまるで野戦病院のような有様だった。

本来なら始業前の騒がしい時間帯だが、今日ばかりは全員が死んだ魚のような目をしている。教室の四隅にあるスチーム暖房の前には生徒が密集し、濡れた髪を乾かす女子の姿もあちこちに見られた。


プールの塩素の匂いと、湿った髪の匂い。

それが冬の教室の埃っぽい空気と混ざり合い、独特のけだるさを生んでいる。


「……くしゅんっ!」


可愛らしいくしゃみが聞こえ、俺は視線を向けた。

俺の席の二つ前、佐伯さんだ。


彼女はジャージの上着を羽織り、教科書を広げているが、その背中は小刻みに震えている。長い黒髪はまだ半乾きで、毛先から滴る水滴が、彼女の白い首筋を伝って襟元に吸い込まれていくのが見えた。


いつもなら「姿勢を正して!」と注意してくる彼女が、今は猫背になって机に突っ伏しそうになっている。

俺はポケットの中に入れていた物を握りしめた。使い捨てカイロだ。今朝、母親に無理やり持たされた時は「いらねーよ」と悪態をついたが、今は神の恵みに思える。


俺は意を決して席を立ち、佐伯さんの机の横を通った。


「……ん」


何気ないふりをして、彼女の机の隅に、封を切って温まったばかりのカイロを置く。


佐伯さんがビクリと肩を震わせ、顔を上げた。

鼻の頭がまだ少し赤い。濡れたまつ毛が重そうだ。彼女はカイロと、俺の顔を交互に見て、怪訝そうな、でもどこか縋るような目をした。


「……これ」

「余ってたから。……風邪ひくなよ」


ぶっきらぼうに言い捨てて、俺は逃げるように自分の席へ戻った。

心臓が、冷水に入った時とは違う意味で早鐘を打っている。


チラリと様子を伺うと、佐伯さんは周りをキョロキョロと気にしてから、そっとそのカイロを両手で包み込んだ。

そして、その手を頬に当て、ふぅーっと長く息を吐く。

その表情が、さっきプールで見せた必死な形相とは打って変わって、あどけなく緩んでいた。


(……やばい)


そのギャップに、胸の奥がきゅっと締め付けられる。

彼女が不意に振り返った。目が合う。

いつもならすぐに逸らすか、睨み返してくる彼女が、ほんの数秒、俺の目を見つめた。

そして、唇だけを動かして、音のない言葉を送ってくる。


『あ、り、が、と』


口角がわずかに上がり、はにかむような笑みがこぼれた。

その瞬間、俺の体温は一気に2度は上がった気がした。プールの寒さなんて、もう記憶の彼方だ。


ガラララッ!


甘い空気を切り裂くように、教室のドアが乱暴に開かれた。


「おーし! 全員揃ってるな! 血行が良くなって脳も冴え渡ってるはずだ!」


ダウンジャケットを着たままの鬼瓦先生が、湯気の立つマグカップ片手に入ってくる。

クラス全員の、殺気に満ちた視線が一点に集中した。


「さあ、1時間目は数学だ。この極限状態で解く因数分解こそが、真の実力を養うのだ!」


「「「ふざけんな……」」」


クラス全員の心が一つになった瞬間だった。

男子も女子も、普段は仲の悪いグループも関係ない。俺たちは「鬼瓦」という共通の敵と、「寒中水泳」という理不尽な苦難を共有した戦友(チーム)なのだ。


黒板に向かう鬼瓦の背中を睨みながら、俺はシャープペンを握った。

前の席では、佐伯さんが俺があげたカイロを、今は太ももの上に置いて暖を取っているのが見える。


明日もまた、あの地獄のプールサイドに行かなければならない。

想像するだけで憂鬱だ。

だけど、またあの冷たい水の中で顔を見合わせ、その後でこうして秘密を共有できるなら――。


「……悪くないかもな」


俺は誰にも聞こえない声で呟き、ノートの隅に小さく『明日も晴れ』と書き込んだ。

外では冬の太陽がようやく高く昇り、プールの水面をキラキラと照らしているのが見えた。

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うちのクラスだけ寒中水泳!? 女子のスク水姿を拝む余裕もない氷点下の地獄で、委員長と奇妙な絆が芽生えた話 祥花 @ssachika

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