第8話『私の周波数、そして兄のコールサイン』



第8話『私の周波数、そして兄のコールサイン』


1.【新しい世界のノイズ】


「いってきます」


あの日、私の口から放たれたその言葉は、まるで石を投げ込んだ水面のように、私の世界に静かな波紋を広げていった。

数年ぶりに踏み出した外の世界は、私が部屋の中で想像していたよりも、ずっと多くの「ノイズ」で満ち溢れていた。車の走行音、商店街の喧騒、生徒たちの笑い声、風が木の葉を揺らす音。かつての私なら、この情報の洪水に耐えきれず、耳を塞いでしゃがみ込んでしまっただろう。


だが、今の私には、その一つ一つが、不快なノイズではなく、世界が生きている証の「信号」として聞こえた。それは、認知のフレームが変化したということなのだろう。心理学でいう「リフレーミング」。物事の枠組み(フレーム)を変えることで、その意味もまた変わる。私にとって世界は、もはや私を攻撃する脅威ではなく、私がその一部であるべき、豊かな生態系だった。


もちろん、全てが順風満帆だったわけではない。

学校に戻った初日、教室のドアを開けるまでには、10分以上の時間と、人生で最大級の勇気が必要だった。クラスメイトたちの視線が、好奇心と、戸惑いと、そして僅かな同情の色を帯びて、私の肌に突き刺さる。あの駅前でのトラウマが、幽霊のように蘇り、足がすくんだ。


だが、違ったのは、私の中から、一つの声が聞こえたことだった。

『大丈夫。ここは、モニターの向こう側じゃない。あなたは、アバターじゃない』

それは、あの嵐の夜を共に戦い抜いた、もう一人の私の声だった。


休み時間、一人の女子生徒が、おずおずと私の席にやって来た。

「篠原さん…あの、よかったら、一緒に…お昼、食べない?」

彼女の顔には、かつてネットで私を焼いたような、顔のない悪意はなかった。ただ、少しの緊張と、誠実な戸惑いがあるだけだった。

「…うん」

私がそう答えると、彼女は、花が咲くように、はにかんで笑った。


その笑顔を見た時、私は理解した。

私が恐れていたのは、他者からの悪意だけではなかった。他者からの「善意」もまた、同じくらい恐れていたのだ。いつか裏切られるかもしれない、という恐怖。信じることのリスク。だが、リスクを冒さなければ、得られないものがある。温かい、手作りの卵焼きのように、不器用で、けれど確かに存在する、人の温もりのようなものが。


日々は、穏やかに、しかし確実に流れていった。

私は、新しい世界のノイズに、少しずつ耳を慣らしていった。友人と交わす、他愛ない会話。夕暮れの教室に差し込む、オレンジ色の光。教科書のインクの匂い。その全てが、私の五感を通じて、私の乾いた魂を潤していく。部屋に積まれた機材の山は、少しずつ、しかし確実に、埃をかぶり始めていた。それは、私が前に進んでいる、何よりの証だった。


父との関係も、変わった。

父は、あの事件について、何も語らなかった。彼の任務のことも、兄のことも。だが、言葉にしなくても、私たち-間には、新しい絆が生まれていた。それは、嵐の夜に、電波という見えない糸で結ばれた、戦友としての絆。時折、食卓で目が合うと、父は何も言わずに、ただ、少しだけ誇らしげに、微笑むのだった。


季節は、秋から冬へと移ろいでいった。


2.【残響、あるいは忘れることのできない歌】


世界は、私を癒してくれた。

だが、癒えるということと、忘れるということは、同じではなかった。

心の傷は、古傷のように、寒い夜や、雨の降る日には、鈍く痛んだ。


特に、兄のことは、私の心の最も深い場所に、小さな棘のように、ずっと残り続けていた。

高村長官が言っていた。「彼は、我々にとっても、かけがえのない協力者だった」。その言葉が、何度も頭の中で反響する。兄は、一体何と戦っていたのか? 私の知らないところで、どんな世界を見ていたのか?


あの嵐の夜、データベースの奥深くで見た、兄の名前。

『最終更新者: RIKU SHINOHARA』

それは、兄が遺した、私への最後のメッセージのようにも思えた。だが、今の私には、その意味を解き明かす術も、そして、再びあの闇の世界に足を踏み入れる勇気も、なかった。


兄が遺した部屋は、彼の失踪以来、時間が止まったままだった。

ある冬の日の午後、私は、何かに導かれるように、その扉の前に立っていた。ドアノブに手をかけると、ひやりとした金属の感触が、なぜかあの夜に握ったマイクの感触を思い出させた。


部屋の中は、兄の匂いがした。半田の焼ける匂いと、古い紙の匂い、そして、微かに、彼が愛用していたミントのガムの香り。

壁には、彼が手書きで描いた、複雑なアンテナの設計図。本棚には、物理学や天文学の専門書が、まるで兵士のように整然と並んでいる。

そして、部屋の中央には、彼が最後まで使っていた、一台のトランシーバーが、静かに鎮座していた。


私は、その無線機に、そっと手を触れた。

埃の下に、兄の指紋が、まだ残っているような気がした。


この機械が、兄を遠い世界へ連れて行ってしまったのかもしれない。

この機械が、兄の最後の声を、私に届けてくれた。


愛と憎しみ。

感謝と後悔。

相反する感情が、私の心の中で渦を巻く。

感情の二律背反(アンビバレンス)。それは、人間が、愛する対象を失った時に抱く、最も自然で、最も苦しい感情だった。


私は、衝動的に、そのトランシーバーの電源スイッチを入れた。

スピーカーから、懐かしい「ザー…」というノイズが流れ出す。

それは、かつて兄と一緒に聴いた、希望の音。そして、兄を失った夜に聴いた、絶望の音。


私は、ダイヤルを回した。

指が、覚えていた。かつて兄と、毎晩のように交信していた、約束の周波数。私たちの、秘密の周波数。


何をするでもなく、私はただ、そのノイズを聴いていた。

ノイズは、全ての音の始まりであり、全ての音の終わりだ。宇宙の誕生(ビッグバン)の残響もまた、このノイズの中に含まれていると、兄は言っていた。

ならば、このノイズの中には、兄の「声」の残響もまた、漂っているのではないか。


私は、そっと、電鍵に手を伸ばした。

マイクではない。自分の「声」で、過去を呼び覚ますのが、まだ怖かったからだ。

指先から、電気信号へと変換される、私の意志。


トン、ツー、ツー…。


それは、ただの、挨拶だった。

過去への、訣別のための。


『CQ CQ CQ DE JQ1YUME K』

(どなたか、こちらJQ1YUMEです、どうぞ)


それは、あの嵐の夜以来、初めての自分からの呼び出しだった。

特に応答を期待していたわけではない。ただ、自分の手で、この物語を、兄との物語を、完全に終わらせたかった。

さよならを言うための、儀式だった。


ヘッドフォンをつけ、静かに目を閉じる。

ノイズだけが、変わらずにそこにあった。

それは、優しく、そしてどこまでも無関心に、私の心を包み込んだ。


(…さよなら、陸兄ちゃん。私はもう、大丈夫だから)


ヘッドフォンを外そうとした、その瞬間だった。


3.【最後の信号(ラストコール)、そして最初の対話】


ノイズの深海から、糸のように細く、か細い信号が立ち上ってきた。

それは、人間の耳ではほとんど聞き取れないほど微弱で、高性能なデジタルデコーダーでさえもエラーとして弾いてしまうだろう、不完全なモールス信号。

まるで、宇宙の果てから届く、最後の息遣い。


しかし、私の「耳」は、それを捉えていた。

何千、何万時間とノイズを聴き続けた私の脳が、その信号の「癖」を、そのリズムに込められた「署名」を、瞬時に見抜いた。

少しだけ性急な、短点(トン)の打ち方。長点(ツー)の終わりに、ほんの僅かに残る、優しい余韻。


それは、兄・陸のモールスの打ち方だった。


心臓が、喉から飛び出しそうになる。全身の血液が、一瞬で沸騰し、そして凍りついた。

私は震える手で、受信機の感度を、メーターの針が振り切れるほど、最大まで引き上げた。


信号は、何度も、何度も、同じ文字列を、まるで子供が母親の名前を呼ぶかのように、必死に繰り返していた。


『…UME… KIKOE…RU…KA…』

(…ユメ… キコエル…カ…)


『…JA1… YGG…』


兄のコールサイン。

彼が、初めて免許を取った時に、宝物のように私に見せてくれた、あのコールサイン。


涙が、堰を切ったように頬を伝う。

違う、これは幻聴だ。疲れているんだ。強いストレスが、脳に幻を見せているんだ。フロイトの言う「願望充足」だ。私が、兄に会いたいと、強く、強く願っているから。

そう自分に言い聞かせようとするが、信号は、物理的な現象として、確かにそこに存在していた。スペクトラムアナライザーの画面に、その微かな波形が、確かに刻まれている。


私は、パニックの中で、一つの、決定的な異常に気づく。

信号が、異常なほどに「揺らいで」いる。

それは、地球上の電波ではありえない、奇妙なドップラーシフト(周波数のズレ)を起こしていた。まるで、とてつもない速度で地球から遠ざかっているか、あるいは、地球の周りを、人間が作ったいかなる物体よりも速く周回している物体から発信されているかのような…。


机の引き出しの奥から、兄が遺した一冊のノートを引っ張り出す。

そこには、兄が追い求めていた「生きてる信号」に関する、走り書きのメモと、私には理解不能だった数式が残されていた。

だが、あの嵐の夜を経て、国家のシステムに触れた今の私には、その数式が何を意味しているのか、朧げながら理解できた。それは、既存の物理法則の枠組みを、僅かにはみ出す、禁断の数式。


兄は、事故で死んだのではなかった。失踪したのでもなかった。


彼は、自らの意志で、あるいは何者かの力によって、**「行った」**のだ。

あの謎の信号がやってきた場所へ。

この地球ではない、どこかへ。


私の、長くて暗い夜の物語は、終わった。

そして今、新しい物語が、始まろうとしている。


私は、涙を拭い、マイクではなく、兄の愛用していた電鍵を、固く、固く握りしめた。

震える手で、私は応答を打ち始める。


それは、絶望ではない。

それは、何年もの時を経て、ようやく始まった、兄妹の**「本当の対話」**だった。


『…Riku-nii… KIKOERU…YO…』

(…陸兄ちゃん… 聞こえるよ…)


『…Watashi…ha… KOKONI…IRU…』

(…私は… ここに…いる…)


兄の部屋の窓から差し込む西日が、無数の専門書と、埃をかぶったトランシーバーを、金色に照らし出していた。

カーテンを開け、現実の世界に一歩踏み出した私の元に、宇宙の果てから、最も切実で、最も愛おしい「コールサイン」が届いたのだ。


私の物語は、終わったのではない。

本当の意味で、今、始まったのだ。


(第8話 了)


(物語・完)

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『コールサインは、夜明けを待っている』 志乃原七海 @09093495732p

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