第7話 【嵐の後の凪】



1.【嵐の後の凪】


夜は、明けていた。

私がそれに気づいたのは、全ての緊張の糸が切れ、オフィスチェアの上で意識を失うように眠りに落ちてから、数時間が経過した後のことだった。部屋を満たしていたのは、もはや絶望的な闇ではない。遮光カーテンの僅かな隙間から差し込む、遠慮がちな、しかし確かな朝の光だった。その乳白色の光は、部屋に積もった薄い埃を、まるで銀河の星々のようにきらきらと照らし出していた。


耳につけたままだったヘッドフォンからは、もう父の切迫した声も、BE70の苦しげな息遣いも聞こえない。ただ、日常の周波数に戻った受信機が拾う、遠い国の穏やかなラジオ放送のメロディと、空電のノイズが、寄せては返す波のように、静かに鼓膜を揺らしていた。

嵐は、過ぎ去ったのだ。

現実の嵐も、そして、私の心を荒れ狂わせた、嵐も。


身体が、鉛のように重い。指一本動かすのも億劫だった。カフェインとアドレナリンによって無理やり酷使された神経系が、悲鳴を上げている。だが、その疲労感は、不思議と不快ではなかった。それは、全力を出し切った者だけが感じることのできる、ある種の達成感にも似た、甘美な重さだった。


私は、ゆっくりと身を起こし、モニターの電源を一つ、また一つと落としていく。光を失った黒い画面は、ただ、疲れ果てた私の顔を、ぼんやりと映し出すだけだった。目の下には、深い隈が刻まれている。それは、一夜にして老いてしまった兵士のようでもあり、あるいは、長い蛹の時間を経て、羽化を終えた蝶のようでもあった。


父からの連絡は、私が眠りに落ちる直前に、一度だけあった。

『…救助は成功した。BE70の乗員は、二人とも無事だ。…ありがとう、結女。お前が、全員を救ったんだ』

その声は、ひどく疲れていたが、同時に、私が今まで聞いたこともないような、深い安堵と、そして誇りのような響きを帯びていた。


その後のことは、何も知らない。

父がどうなったのか。BE70の乗員がどこへ運ばれたのか。そして、私の脅迫メッセージを受け取った、あの官邸の人々が、今、何をしているのか。

私の物語は、あの「送信」ボタンをクリックした瞬間に終わったのだ。そう、自分に言い聞かせた。私は、再び、観測者に戻るのだ。いや、観測者ですらなく、ただの、部屋に閉じこもる、16歳の少女に。


だが、世界は、もう私を放ってはおいてくれなかった。

その日の午後、階下から、普段は聞き慣れない、複数の来客の気配がした。低い、重々しい男たちの声。母の、緊張したような声。そして、父の声。

やがて、階段を上ってくる、複数の足音。

私の部屋のドアの前で、その足音は止まった。


コンコン、と控えめなノックの音。

それは、私の独房の扉を叩く、外の世界からの、最初の呼び声だった。


2.【制服の男たち】


ドアを開けるべきか、私は一瞬ためらった。この扉は、私を世界から守る、最後の城壁だ。それを自らの手で開くことは、降伏を意味するのではないか。

だが、ドアの向こうから聞こえてきたのは、父の、静かな声だった。

「結女。私だ。入っても、いいか?」


私は、深呼吸を一つして、重い足取りでドアに向かい、鍵を開けた。

そこに立っていたのは、父だった。

しかし、それは私の知っている父の姿ではなかった。いつも着ている、くたびれたシャツやセーターではない。紺色の、アイロンが impeccably にかけられた、凛々しい制服に身を包んでいた。その肩には、金色の階級章が、部屋の薄暗がりの中で、鈍い光を放っている。それは、海上保安庁の、それも最高幹部だけが着用を許される、特別な制服だった。


そして、父の後ろには、もう一人、さらに年配の、厳格な顔つきの男が立っていた。彼もまた、同じ制服を着ていたが、その肩で輝く階級章は、父のものよりも、さらに複雑で、重々しいものだった。彼の背後には、黒いスーツを着た二人の男が、まるで影のように控えている。


部屋に、張り詰めた沈黙が落ちる。エナジードリンクの甘い匂いと、機材が発するオゾンの匂いが、重苦しい空気と混じり合った。


「篠原結女さん。……で、間違いないかな?」

年配の男が、静かに口を開いた。その声は、穏やかだが、有無を言わせぬ威厳に満ちていた。

私は、ただ、小さく頷いた。

男は、私の部屋の中――天井まで積まれた機材の山を、ゆっくりと、しかし鋭い観察眼で見渡した。それは、感心しているようでもあり、あるいは、呆れているようでもあった。


「私は、海上保安庁の長官を務めている、高村という」

高村と名乗った男は、そう言って、深々と頭を下げた。

「昨夜の君の行動に、日本国政府を代表して、心からの感謝と、そして、最大限の敬意を表する。君が一晩で成し遂げたことは、我々が数年をかけても、なし得なかったことだ。君は、多くの人々の命を救い、そして、この国の海に巣食う、巨大な脅威の存在を、我々に示してくれた」


その言葉は、あまりにも現実離れしていて、私の耳には、まるで遠い国の物語のようにしか聞こえなかった。私は、ただ、呆然と立ち尽くすだけだった。


「君の送ってくれた情報ファイル、『Nightingale.zip』…見事なものだった。我々が掴んでいた断片的な情報を、完璧に裏付け、そして、我々が全く知らなかった、新たな事実までをも示していた。特に、"影"の背後にいる国家の関与を示唆する通信ログと、君のお兄さん…篠原陸君の名前が残されていた、あのデータベースのバックドアの記録。あれは、決定的な証拠となった」


兄の名前。

その言葉に、私の心臓が、大きく跳ねた。


「お兄さんのことは、本当に残念に思う。彼は、我々にとっても、かけがえのない協力者だった。彼が遺してくれた『道』を、君が、こうして見つけ出してくれたことに、運命のようなものを感じる」

「…兄は、協力者…?」

「そうだ。彼は、類稀なる才能を持った、勇敢な若者だった。そして、君もまた、彼と同じか、あるいはそれ以上の才能を持っている」


高村長官は、そこで一度言葉を切り、真っ直ぐに私の目を見た。その瞳は、深い海のようで、私の心の奥底までを見透かしているかのようだった。


「篠原結女さん。単刀直入に言おう。もし君が望むなら、我々の組織に、君のための特別な席を用意したい。君のその『耳』と『頭脳』は、個人の趣味の領域に留めておくには、あまりにも惜しい。この国の海を、人々を、そして…君のお兄さんが守ろうとしたものを、我々と一緒に守ってはくれないだろうか」


それは、スカウトだった。

ひきこもりの、社会不適合者の、16歳の少女に対する、国家からの、正式なスカウト。

それは、私がネットの世界で渇望してやまなかった、「承認」の、究極の形だったのかもしれない。


3.【私の周波数】


部屋に、再び沈黙が落ちる。

私は、高村長官と、そして、その隣で心配そうに私を見つめる、制服姿の父の顔を、交互に見た。

父の顔には、誇らしさと、そして、娘を再び危険な世界へといざなうことへの、深い罪悪感が、複雑に交じり合っていた。


才能。特別な席。国を守る。

その言葉は、どれも甘美な響きを持っていた。

かつての私なら、きっと、飛びついていただろう。私の存在価値を証明してくれる、絶対的な証。ガラスの城よりも、ずっと強固で、決して崩れることのない、鋼鉄の城。


だが、今の私の心は、不思議なほど、静かに凪いでいた。

昨夜の嵐が、まるで嘘のように。


私は、ゆっくりと首を横に振った。


「…お申し出、ありがとうございます。でも…もう、いいんです」

私の声は、自分でも驚くほど、穏やかだった。


私の視線は、部屋に積まれた、黒い鉄の塊たちへと注がれる。

「私はずっと、誰かの助けを求める声を、ノイズの向こうに探していました。誰にも届かない、孤独な魂の叫びを、聴こうとしていました」


一息、吸う。


「でも、それはきっと、私自身の声だったんだと思います」


心理学でいう「投影」だ。私は、自分自身の孤独や、救いを求める心を、無意識のうちに、電波の向こうの誰かに投影していたのだ。私が救いたかったのは、見知らぬ誰かではない。ネットの炎に焼かれ、現実の世界から逃げ出し、この部屋に閉じこもっていた、臆病な私自身だったのだ。


「この機械たちは、たくさんのことを教えてくれました。世界の広さも、人間の賢さも、そして、愚かさも。でも、最後の最後で私が信じたのは、この機械が弾き出す、合理的な答えじゃありませんでした」


私は、自分の胸に、そっと手を当てた。


「私が信じたのは、BE70の乗員さんの、生きたいと願う『心拍』でした。そして、私の無茶な作戦を、信じてくれた、父さんの『声』でした。顔も知らないけれど、電波の向こうにいる、誰かの人間性を、私は信じたんです」


「もう、無線はこりごりです」

私は、ふっと微笑んだ。それは、この物語で私が見せる、初めての、心からの笑顔だったかもしれない。

「電波に乗った、断片的な情報だけで、誰かを理解した気には、もうなりたくない。私は、もっと不便で、もっと非効率で、もっと面倒くさい繋がりが欲しいんです」


私は、高村長官と父の目を、真っ直ぐに見返した。


「これからは、自分の足で地面を歩いて、ちゃんと顔を見て、体温を感じて、そして、自分の『声』で、会話がしたいです」


4.【いってきます】


その翌朝。

私の部屋には、数年ぶりに、本物の太陽の光が差し込んでいた。

私は、自らの手で、何年も閉ざされていた、重い遮光カーテンを勢いよく開け放ったのだ。


眩しい朝日が部屋に氾濫し、電子機器の山に積もった薄い埃を、まるで教会のステンドグラスを透かす光のように、きらきらと照らし出す。私は思わず、その圧倒的な光の奔流に、手をかざした。手のひらが、温かい。生きている、と感じた。


クローゼットの奥から、窮屈な匂いのする、学校の制服を引っ張り出す。

袖を通すと、少しだけ、丈が短くなっているような気がした。私がこの部屋に閉じこもっている間に、私の身体も、世界も、少しずつ、でも確実に、変化していたのだ。


階下へ降りると、リビングのテーブルには、母が作った、温かい朝食が並んでいた。

父は、もう制服姿ではなかった。いつもの、くたびれたセーター姿に戻っていた。彼は、何も言わずに、ただ、少しだけ泣きそうな、それでいて、とても優しい顔で、私を見ていた。


私は、食パンを一枚、口に運ぶ。

本物の食べ物の味がした。


玄関で、靴を履く。

見送る両親に、私は振り返って、はっきりと告げた。

それは、マイクを通していない。暗号化もされていない。

私の、ありのままの、新しい朝の始まりを告げる、最初の言葉。


「いってきます」


その声は、もうコールサインではなかった。

篠原結女の、魂の周波数が、無限の未来へと、確かに発信された瞬間だった。


(第7話 了)

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