第三章:沈黙の救済
2031年3月23日。 九本のアンプルを保冷ポーチに詰め、私は郊外のグループホームへと向かった。 道中のラジオは、都内で相次ぐ「低体温症による集団欠勤」のニュースを繰り返し報じている。世界が静かに麻痺し始めている実感が、ステアリングを握る手に伝わってきた。
「あら、賢ちゃん。久しぶり。元気だった?」
個室のドアを開けると、何枚も毛布を被った彼女が、他人事のような笑みを浮かべて私を迎えた。 賢ちゃん。その呼び声が、私の脳内に忌まわしい過去の断片を引きずり出した。
『賢ちゃん、明日の授業参観、お母さん行くからね』 『うるせぇ、来んじゃねえよ!』
中学の頃、私は彼女を疎み、汚い言葉を浴びせ続けていた。学習障害を抱え、世の中の立ち回りが不器用な母。そんな彼女とともに、私は周囲から徹底的に馬鹿にされて育った。「親子揃って出来損ないだ」と嘲笑われるたび、私は拳を握りしめ、いつか圧倒的な成功を手にしてこいつらを黙らせると誓った。 公認会計士になり、経営者として富を築いたのは、その誓いを果たすためだった。今こうして高価なアンプルを持ってくるのは、かつての自分に対する罪滅ぼしのようなものだった。
だが、会話を進めるうちに、凍りついていた記憶が再び熱を帯び始めた。 話題が、十二年前――二〇一九年の、あの遺産相続の問題に及んだ時だ。
「あの時、どうしてあいつらの前であんな嘘をついた」
当時、親族たちが障害を持つ彼女を騙し、財産を食い潰そうとしているのを私は必死で止めようとしていた。孤立無援で、親族全員に対して殺意に近い怒りを燃やしながら戦っていた。だが、彼女はあろうことか、親族の中での自分の立場を守るために、私を「強欲な息子」として切り捨て、あいつら側に寝返ったのだ。その裏切りが決定打となり、私はすべての親族と縁を切った。
「……賢ちゃん、あれはしょうがなかったのよ。あそこであなたに味方したら、お母さん、あの一族の中で生きていけなかったでしょ?」
彼女は毛布の中から、悪びれる様子もなく言葉を続けた。
「結果的に、あなたもあれがあったから、一人で頑張って今うまくいってるんじゃない。いいじゃないの、もう済んだことなんだから」
私の痛みなど微塵も顧みない、配慮の欠片もない言葉。 母親に殺意までは湧かなかったが、胸の奥が焼けるような怒りに支配された。絶対に許さない。なんなら、このままアンプルを打たずに、この冷えゆく世界で朽ち果てていくのを見届けてもいいとさえ思った。
しかし、私の良心がそれを引き止めた。ここで見捨てれば、私はこの後悔を一生背負い続けることになる。
「……新しい薬だよ。最近流行ってる風邪によく効くんだ。これを打っておけば安心だから」
私は彼女に嘘をつき、説得した。彼女は「あら、そうなの」と、何の疑いもなく腕を差し出した。
一億円の液体が、彼女の腕に吸い込まれていく。 注入が終わり、彼女が熱に顔を顰(しか)めるのを冷めた目で見つめながら、私は心に誓った。 これが最後だ。 もう二度と、この女の前に姿を現すことはない。十億円の資産のうち、一億を投じたこの処置は、私から彼女への、最初で最後の絶縁状だった。
私は礼も聞かずに部屋を出た。 廊下には、ガタガタと震えながら壁に手をついているスタッフの姿があったが、私は目もくれずに通り過ぎる。
救えるのは、あと八人。 駐車場に向かいながら、私はスマートフォンの画面をスクロールした。 次は、地元の「裏切った仲間たち」に会いに行こう。 彼らには、母とは違う形での「選別」が必要だった。
摂氏35度の生存権 @k7654321
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