第二章:氷の目覚め
ハンスとの密談から数日が経過した。世界はまだ、表面的には平穏を保っていた。しかし、私は確実に忍び寄る「影」を感じていた。商談で会う相手が微かな悪寒を訴え、街中では厚手のコートを手放さない人間が不自然に増え始めている。 そして2031年3月22日、その時は私にも訪れた。
設定温度を24度に上げたエアコンの音が、静かな寝室に響いていた。 目が覚めた瞬間、私は全身を襲う強烈な「冷え」に息を呑んだ。布団の中にいるのに、胸の奥に氷の塊を押し込まれたような、身体の内側から凍りついていく感覚。
布団から出した手は、石膏のように白かった。指を動かそうとすると、関節に異物が挟まっているような鈍い抵抗がある。 私は洗面所へ向かい、脇に体温計を差し込んだ。 「三十五・一度」 液晶の数字を見た瞬間、喉の奥が乾ききった。ハンスの言った通りだ。私は金庫を開け、銀色のアンプルを取り出した。資産の大部分を投じたあの引き返せない重い恐怖が、今は確実な「正解」への安堵に変わっていた。
私は使い捨ての注射器に液体を満たし、左腕の静脈へ慎重に針を刺した。 ピストンを押し込む。 冷たい液体が血管を上り、体内に入った瞬間に、喉を焼く強い酒のような熱が全身へ広がった。心臓の鼓動が力強さを取り戻し、あの耐え難い底冷えが消えていった。
生き残った。まずは、自分だけは。 人心地ついた私は、スマートフォンでXを開いた。検索欄に「低体温」と打ち込む。
『最近、身体がずっと冷えてる。風邪?』 『職場に体温35度台で欠勤するやつが増えてる。不気味すぎる』 まだニュースにはなっていない。だが、タイムラインには静かに広がる異変の断片が溢れていた。世界はもう、確実に影響を受け始めている。 私は金庫に残った、九本のアンプルを見つめた。 これを、どうやって「彼ら」に打つか。 真っ先に浮かんだのは、グループホームで暮らしている母親のことだった。学習障害と重いうつ病を抱え、今は会話のキャッチボールすらままならない。彼女はまだ感染していないかもしれないが、この勢いで広がれば時間の問題だ。
「……説明しても、わからないよな」
1本1億円。そんな現実を彼女に理解させる必要はない。だが、どうやって拒絶されることなくこの針を彼女の腕に通すのか。救いたいという思いと、説得のしようがない現実が、重くのしかかってきた。
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