第2話
笑っていた。
楽しんでいた。
充実していた。
あの頃は、見るものすべてが、色鮮やかに輝いていた。
なのにいつから変わって、こうも色褪せてしまったのだろう。
いや、違うか。
変わったのは他の何物でもない――自分自身だ。
「おおーい、もういいぞ。目を開けろ」
「!」
少女に促され、僕は即座に目を開けた。
そして視界に飛び込んできた光景は、先ほどまでいた僕の部屋とは似ても似つかない場所だった。
それどころか、そこは室内ですらなかった。
「……ここ、どこ?」
僕と、天使を名乗る少女は、鬱蒼と生い茂る森に囲まれた湖のほとりに立っていた。
明るさはあるが、対岸は闇に溶け、どこまで続いているのか分からない。
空を仰ぐと、満天の星空が広がっていた。
そして夜空には、蒼色と黄色と碧色の光を放つ、三つの満月が静かに浮かんでいる。
その光景は美しくもあり、どこか不安を掻き立てた。
「ここがあなたの
「ここが?」
「そう。そして“あれ”を見て」
少女は湖の中央付近を真っ直ぐ指差した。
その先――湖面の上に、黒い物体のようなものが、静かに佇んでいた。
「なんだ、あれ?」
「あれが『空虚』よ」
「あれが!?」
そう言って、改めて視線を送る。
だが、やはり遠く、細部までは見えなかった。
「あれが『空虚』っていう怪物なのか。それなら早いとこ、退治してくれよ」
「なに人任せなことを言ってんのよ。あの怪物を退治するのは、あなたなのよ」
「ぼ、僕が!? そ、そんなこと出来るわけないじゃないか。
僕はただの一般人なんだぞ!」
「あたしだって、ただの愛くるしい天使なんだけど」
「……自分のことを躊躇することなく愛くるしいと言える、その度胸。これが人間と天使の差か……」
「……それ、どういう意味?
とにかく真面目な話、『空虚』は、あなたの“内なる世界”に棲んでる。
だから退治できるのは、あなた自身だけなのよ」
「ど、どうしてなのさ」
「だって、この“内なる世界”で実在できるのは、それを創造したあなただけだから。
実体は、いまもあなたの汚部屋にいるわ」
「い、いや、だからって、僕にどうやってあの怪物を退治しろっていうの!」
「どうしろって、簡単じゃない。あなたが持っているその剣で、あの怪物を突き刺せばいいじゃない」
「剣? そんなの持っているわけないだろ」
少女に指摘されて視線を落とす。
すると――自分の右手には、いつの間にか、光の粒子が寄り集まったような輪郭の定まらない剣が握られていた。
その剣はひどく頼りなく、まるで今の自分そのものを映しているように思えた。
「な、なんだよ。この剣みたいなものは」
「みたいじゃなくて、剣よ。『空虚』を倒すために、あなたの潜在意識が勝手に作り出したね」
「作り出した?」
「そう。何度も言うけど、ここはあなたの“内なる世界”。
だから、あなたの潜在意識ひとつで、何でも起きるの」
「そ、そうなのか。でも潜在意識で何でも起きるなら、あの『空虚』っていう怪物も、知らぬ間に何とかしてくれればよかったのに」
「……そうね。とりあえず、ここで愚痴っていても仕方ないし。そろそろ『空虚』を退治に行きましょ。
あなたに定められた死の運命を、覆すために」
そう言って、まるで散歩にでも行くかのような気軽さで、少女は湖へと歩き出した。
その背中を見て、僕は慌てて声をあげる。
「ちょ、ちょっと待って! このまま湖に入って行くの!?」
「そんなわけないでしょ」
少女は平然と言い、躊躇することなく、湖へと踏み出した。
彼女の足首が水音を立てて湖に浸かる――ことはなかった。
なんと、彼女は湖面を歩いていた。
「えぇ! 湖面に乗れるの!?」
「そうよ。“内なる世界”では、よくあることだから。ほら、あなたも早く来なさい」
「う、うん。わかったよ」
少女に急き立てられ、僕も恐る恐る湖へと足を運ぶ。
(本当に、大丈夫なんだよね……)
一抹の不安に身体を強張らせながら、踏み出すたその足裏は――湖の底に沈むことはなかった。
僕も彼女と同じように、湖面の上に立っていた。
そして改めて思い知られる。
(……ここはやっぱり)
自分の知る世界ではないと。
「よし。それじゃあ行くわよ」
「わ、わかった」
少女に先導されるように、歩き出す。
僕らが
音。
そうだ。この世界には音がない。
風が吹く音も、木々が織りなす音も、生き物の僅かな生命活動による音もない。
ないのだ。この世界には。
(なんだろう、この気持ち)
理由はわからないけど、無性に胸中がざわつく。
初めて認識する。音がないことで、こんなにも自分自身が掻き乱れてしまうことを。
「怖い?」
「え?」
前を向いたまま、突然に少女が声をかけてきた。
「これまで、あたしは様々な人間をこの“内なる世界”へ連れてきたけど、みんなこの世界を不気味がったり、怖がったりするの。見た感じ、とても綺麗に見えるのに。ほんと、おかしな話よね」
「……そうなんだ」
確かに、ここは綺麗な世界だ。
でも、だからこそ、ここは不気味で怖いのだ。
あまりにも、綺麗過ぎて。
ここを自分の
「と、やっと到着したわよ。これが『空虚』よ」
「これが?」
物想いにふけながら、歩くこと数分。
ついに僕は『空虚』と呼ばれる怪物の目の前まで辿り着いた。
その怪物は、一見すると僕と大差のない、人の形をしていた。
でも、こちらと決定的に違うのは、そこには目も、鼻も、口もなく、顔と呼べるものは存在しないことだった。
さらに全身は、光さえ吸い込むような、完全な漆黒で覆われていた。
……正直、怪物と呼びには、あまりにも迫力に欠けると思うのだが。
「……でもさ、思ったよりも、弱そうなんだね」
「そうね。『空虚』を見た人間は、例外なくあなたと同様のことを言うわ」
「……そうだろうね。もっと化け物じみたものを想像していたから」
「でも、間違いなくそれはあなたの『心』を食べる怪物よ。早く退治しましょ」
「たしかに。この剣を刺せば、この怪物はここからいなくなるんだよね」
「えぇ、そうよ」
「よし、わかった」
そう言うと、僕は『空虚』の目の前に立ち、持っていた光の粒子が集まって形作られた、輪郭のぼやけた剣を、両手で握り直す。
そしてそれを頭上へと掲げた。
後はこのまま振り下ろして、『空虚』と呼ばれるこの怪物に突き刺せば、すべてが終わる。
簡単なこと。なにも難しくはない。
当の『空虚』という怪物だって、なんら抵抗する素振りも見せず、無防備にこちらの目の前に突っ立っているのだから。
なにも
さぁ、刺せ。
刺せ。刺せ! 刺せ!!
――と、
「――――――――!」
「!?」
声――ではない。この“内なる世界”からの切実たる想いが、僕の中になだれ込んできた。
……あぁ、そうだったのか。
そういうことだったんだ。
僕は、ゆっくりと剣を頭上から下ろした。
そして、天使に声をかけた。
「……君、僕に嘘をついたね」
「嘘? なんのこと」
「君は言ったよね。この『空虚』という怪物が《心》を食べるって」
「そうよ」
「はい。嘘」
「………………」
「『空虚』自身が『心』を食べるんじゃない。僕自身がこの『空虚』に『心』を食べさせようとするんだろ?」
「なんでそう思うの?」
「教えてくれたんだ。この“内なる世界”が、必死になって」
「ふ〜ん、そうなんだ。だったら、もう騙されないか。あなたの言う通りよ。『空虚』は
「……なんで最初から、本当のことを言ってくれなかったんだ」
「それなら逆に聞くけど、最初から、『あなたは『空虚』という怪物に『心』を差し出して死ぬのよ』って言って、信じてくれた?」
「絶対に信じないね」
「でしょ。だから『空虚』が『心』が食べるからっていうことにして、その『空虚』そのものを退治してもらって、死ぬことを回避しているの。そのほうが効率がいいから」
「どうして、そこまでして人が死ぬのを止めようとしているんだ」
「言ったでしょ。あの世は、もう人間の死者でキャパオーバーなの。どんなことをしても、これ以上の死者が増えないようにする必要があるの」
「そっちも、本当に切羽詰まっているんだ」
「そうよ。で、あなたはどうするの。真実がわかったところで、その剣で『空虚』を退治するの? 退治すること自体は、そんないけないことではないわよ」
「この剣は『空虚』を退治するために、この“内なる世界”が与えたものじゃないから」
「そうなの? だったら、どうして剣を与えたの」
「僕を『空虚』に会わせるためさ」
「え〜、そうなんだ。でもなんで?」
「『空虚』は間違いなく怪物だ。……でも、“内なる世界”に居てはいけない存在かどうかを、確かめさせるためにだよ」
「なるほどねぇ。それで、結論は出たの? この『空虚』という怪物をどうするのか」
「あぁ、もう答えは出てるよ」
僕は憑き物が落ちたかのように、静かに言葉を紡ぐ。
そして再び、『空虚』に視線を向けた。
凝縮した暗闇が、形を成したかのような
そんな怪物に、僕が導き出した、ひとつの答え。
「僕は、『空虚』を退治しない」
「あらあら、やっぱりそうなっちゃうわけ」
「だって、この怪物はもう一人の『僕』だから」
「もう一人の『僕』?」
「うん。この“内なる世界”に『空虚』を生み出したのは……」
僕は言葉を飲み込み、静かに息を整えてから、再び口を開いた。
「僕自身だから」
「……なんでそう思うの?」
「これも“内なる世界”が教えてくれた。『空虚』は僕の
「成れの果て?」
「そう。僕が実在の世界で望んだ、幸福や希望や平穏。
それらを渇望しながらも、手に入らないと諦めた、その“絶望”こそが、この『空虚』を……。
いや、もう一人の『僕』を生み出したんだ」
「なるほどねぇ〜。だから退治はしないと?」
「そうだね。僕は『空虚』という“絶望”を抱えながら、これからも生きていきたい。“絶望”も大切な僕の一部分だから」
そう思いを告げた瞬間、手にしていた剣が、その役目を終えたかのように、音もなく砕け散った。
砕けた刃は光の粒子に戻り、きらめきながら宙を舞う。
光の粒子はそのまま上空へと昇っていき、やがて夜空の中へ溶け込むように消えていった。
それはまるで、迷いを終えた星々が、本来あるべき星空へと帰っていくような光景だった。
『ありがとう』
頭の奥で、か細い声が響いた。
その声に導かれるように、僕はゆっくりと『空虚』へ視線を向ける。
相変わらず、『空虚』は闇という闇を凝固させたかのような、真っ黒な人型をしていた。
顔のパーツが一切なくて、その表情を読み取ることはできない。
それでも、なぜか僕にはわかった。
僕はかすかな笑みを浮かべながら、『空虚』に向かって口を開いた。
「礼なんて言うなよ。恥ずかしいだろ」
「? なに独りでブツブツ言ってんの? 『空虚』を退治しないなら、さっさと元の世界に戻るわよ」
「わかった。でも君には悪いことをしたな。無駄足を踏ませたみたいで」
「別にいいわよ。あなた以外にも『空虚』との共存を選んだ人間はいるから。そしてそういう人間ほど――」
少女はニヤリと笑い、
「しぶとく生きるのよね。これがまた」
「へえ。そうなんだ」
僕もまた、ニヤリと笑う。
そして、少女がこちらの額に指先を触れた瞬間、僕の意識は、またも遠くへと引き離されていった。
――笑い声が聞こえた。
目を開けると、そこは見慣れた自分の部屋だった。
床にはあらゆる物が散乱し、つけっぱなしのテレビからは、先ほどまで見ていたバラエティ番組が、相変わらず軽薄な笑い声を垂れ流している。
部屋を見回してみても、あの天使を名乗っていたゴスロリの少女の姿は、どこにもない。
……やっぱり、夢だったのだろうか。
そう思いながら、胸の奥に残るわずかな違和感から目を逸らすように、僕はテレビと照明を消し、布団に身を沈めた。
瞼を閉じても、すぐには眠れなかった。
胸の内側で、なにかが静かに息をしているような感覚があったからだ。
その正体を確かめるのが、少しだけ怖くて――
僕はそのまま、意識が落ちるのを待った。
――翌日。
いつも通り、朝食に割引の食パンをかじりながら、テレビのニュースに目を向ける。
画面に流れるのは、どれも気分が沈む話題ばかりだ。
「……ハァ」
小さく息を吐き、僕はテレビの電源を切った。
今日もまた、この世界は“絶望”に覆われている。
だからこそ僕は、これまで息苦しかったのだと、ようやく理解した。
“絶望”を拒絶し続けることが、僕自身を追い詰めていたのだ。
でも――
これからは、この“絶望”を拒まない。受け入れて生きていく。
弱音は吐く。何度でも吐くだろう。
苦しくて、泣き叫ぶ日だってある。
嫌気がさして、逃げ出したくなることも、きっとある。
それでも、拒絶だけはもうしない。
“絶望”を拒めば、その裏側にある“夢”や“理想”まで、いっしょに閉め出してしまう。
それに、人の歴史に“絶望”のない時代など、一度としてなかったはずだ。
人はいつだって“絶望”の中を生き、そのたびに歴史を刻んできた。
ならば僕も、“絶望”のど真ん中で、悲痛な雄叫びを上げながら生き抜いてやろうじゃないか。
「こんな無様な生き方でも、お前だけは僕を褒めてくれるよな、『空虚』」
胸にそっと手を当て、ここではない、別の世界に棲む怪物へ、静かに問いかけた。
胸の奥で、確かに『空虚』が、静かに笑った気がした。
―――完―――
空虚と笑う 案山子 @158byrh0067
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