空虚と笑う

案山子

第1話

 今日もまた、いつもの日常をそのまま写し取ったかのような一日だった。


 朝食に口にしたのは、いつもと同じ、賞味期限ぎりぎりで安売りされていた食パン。相変わらず、文句のつけようがない味だ。


 友人関係も良好だった。日中に顔を合わせた友人たちとは、他愛のない話で笑い合い、特別なことは何もなかったが、嫌な出来事もなかった。


 生活は裕福とは言えない。それでも、困窮こんきゅうするほどでもない。


 今日も何事もなく、無事に夜を迎えている。


 何も問題はない。


 そう、何一つ。


 ……それなのに、なぜだろう。


 僕――深見楓太ふかみふうたは、この先も同じ日々を生き続けるのだと想像しただけで、胸の奥がわずかに締めつけられ、呼吸が浅くなるのを感じていた。


 理由はわからない。


 ただ、今の生活がこのまま続くと考えた瞬間、身体のどこかが「それは嫌だ」と小さく拒絶した気がした。


 名前を持たない息苦しさだけが、そこにあった。


(……こんなことを考えるなんて、僕は浅ましい人間なのかもしれないな)


大学生の身分には分相応ぶんそうおうな、古い安アパートの一室。

 服や食器、雑誌が無造作に散らばったリビングのソファに、僕の身体は深く沈んでいる。

 テレビから流れてくるバラエティ番組の軽薄な笑い声だけが、部屋の中でひどく場違いに響いていた。

 その音を聞き流しながら、僕は意味のない思考をただ漫然まんぜんと巡らせていた。


「確かに、あなたは浅ましい人間のようね。深見楓太」


「…………え?」


 自分しかいないはずの室内に、突如として聞こえてきた声。


 驚いて声がした玄関の方を見ると、そこには見知らぬゴスロリ少女が立っていた。


 透き通るような白い肌に、吸い込まれそうな漆黒の瞳。身に纏った黒いドレスには、白いフリルが随所ずいしょにあしらわれ、その裾もまた、同じ色で縁取られている。年の頃は十四、五歳だろうか。


 大学生が独りで暮らすこの部屋には、あまりにも不釣り合い――というか、他人が見たら絶対に誤解されて、即行で警察沙汰になるやつだ!


 僕、そういう趣味なんてないんですけど!


「あの、えっと。君は誰? どうしてここにいるの? それと……靴、脱いで!」


「そう矢継やつばやに質問や文句を言わないでよ。それじゃ、答えようがないでしょ。まったく、礼儀ってものを知らないの?」


「いやいやいや! 平然と土足で人の部屋に入り込んでる君に、礼儀云々れいぎうんぬんを言われる筋合いはないから!」


「土足で入ってきてほしくないなら、少しは部屋の掃除をしなさいよ! こんな汚い部屋を素足で歩けるわけないでしょ」


「な、なんだと! 男性大学生の部屋が汚いのは、この国の由緒正しき伝統なんだぞ!」


「そんなくだらない伝統なんて、この国にはないわよ!」


「くっ! ああ言えばこう言う、なんて屁理屈ばかりをこねる少女なんだ! 他人事ひとごとながら将来が心配になるよ」


「余計なお世話! それに、心配される側はあなたの方だから!」


「僕が心配される側? どういう意味だよ、それは……」


「やっぱり気付いてないかぁ……」


 少女はハァッと、わざとらしいほど大きなため息をつくと、次の瞬間、こちらをまっすぐ見据え、言い放った。


「あなた、このままだと『空虚くうきょ』という怪物に喰われて、死ぬことになるのよ!」


 僅かな、沈黙。


 ――僕は堪えきれず、プッと吹き出した。


「ハハハ! なんだよ『空虚』って。その怪物に僕が食べられて死ぬ? どんな空想話なんだよ、それは。ハハハ! ……ハハ、ハハ……」


 徐々に笑い声が萎んでいく。


 こちらを見る少女の目が、冷たいほどに真剣だったから。


 その視線が否応なく告げていた。これは、冗談の類ではないと。


「……いや、嘘だよね? 僕が死ぬなんて……」


「嘘なんかじゃないわ。このままいけば、あなたは確実に『空虚』に喰われて死ぬわ」


「な、なんでそんなことを君が言い切れるんだよ!」


「だってわたし、人の生死を見極める天使だから」


「て、天使!? ふ、ふざけてるのか! 天使なんてこの世に――」


「いるわけがない。はいはい、そのセリフはもう聞き飽きたわ。会う人間全員が言うんだから。でも実際、あなたの目の前にいるあたしは、天使よ。だって、こんなに可愛い美少女が人間なわけないでしょ?」


「自分のことを美少女と自惚れている? これはもしかしたら、本当に天使なのかもしれない……」


「どこで確信を得ているのよ!」


「でも、だからといって君が天使で、僕が死ぬって……」


 簡単に信じられるわけがない。


 それに――それに、僕は……。死にたくない、のか?


 胸の奥で、そんな黒々とした疑念が生まれた瞬間、自分でも驚いた。

 死という絶対的な恐怖を前にしてなお、明確な拒絶が浮かばなかったから。


 この先に、いったい何がある、この僕に?


 希望に満ちた将来?


 平穏と幸福に包まれた日常?


 努力が報われ、理想が叶う輝かしい未来?


 ……そんなもの、あるわけがない。

 現実はもっと冷酷で、残酷だ。


 期待するたびに何度も裏切られ、耐えるほどに悲鳴を上げつつすり減っていく。

 こんなくだらない現実に、これ以上しがみつく理由なんてどこにある?


 耐えきれない。

 いや、もう耐えなくていいんだ。


 そうだ。

 耐える必要なんて、どこにもないじゃないか。


 自由になろう。

 この息苦しい現実から、解放されよう。


 すべてを手放せば、何も感じずに済む。

 希望も落胆も、苦しみも後悔も。


 ……そうだ。

 それでいい。


 それが、僕に残された唯一の自由なのだから。


「はい、ストップ! あなた、もう『空虚』に食べられかけているわよ」


「……え?」


 少女の声に、ふと我に返る。


 あれ? 僕はさっきまで、なにを考えていたんだ?

 というか、なんであんな思考に陥ってしまったんだ?


 まるで、生きることを放棄するような……。


 冷たい汗が、背中をスッと伝う。


「あなたもわかったんじゃない? 『空虚』という怪物が、あなたのなにを食べようとしているのか」


 少女の言葉が、ジワリと胸の奥に浸透していく。


 あり得ないと思いながらも、僕は少女の問いに答えた。


「……『心』、か?」


「正解! 物分かりが良くて助かるわ」


「人の『心』を食べる怪物? そんなものがこの世にいるの!?」


「この世にはいないわよ」


「はい? だったらどこにいるんだ」


「それは――」


 そう言うと、少女はズカズカと僕の私物を容赦なく踏み分けてきた。

 そして僕の目の前に立つと、こちらの胸を指した。


「怪物は、そこ。あなたの“内なる世界”にいるわ」


「“内なる世界”?」


「そう。あなたが潜在意識下せんざいいしきかで創り上げた、あなただけの世界。

それをあたしたち天使は“内なる世界”って呼称してるの。まぁ、捻りのない呼び名だけどね」


「……そこに『空虚』という、怪物がいるのか?」


「そういうこと。そしてあたしは、あなたがその怪物に『心』を喰われて、死にゆく運命を阻止するために、ここに来たの」


「……どうして、そんなことをしてくれるんだ?」


「理由は簡単よ」


 少女はあっさりと言った。


「あの世はね、『空虚』に『心』を喰われた人間の死者で、もう溢れかえってるの。完全にキャパオーバー。このまま増え続けたら、あたしたち天使の労働時間も際限なく伸びて、そのうち天使のほうが過労死しかねないわ」


 冗談めかした口調とは裏腹に、その内容は笑えない。

 少女は肩をすくめ、淡々と続ける。


「だから上のお偉いさんたちは決めたの。これ以上、『空虚』に人間を簡単に殺させるわけにはいかないってね。

で、あなたは天使の助力があれば、『空虚』から“救えそう”な人間だった」


「それで、君が派遣された……と」


「そういうこと。わざわざ、あの世からね」


「……なるほど」


 俺は小さく息を吐いた。


「要するに、君たちの都合ってわけか」


「ええ。完全にね」


 少女は、悪びれもせずに微笑んだ。


「でも、本当に僕は、その『空虚』という怪物から助かるの?」


「もちろん。けど、それはあなたが、生きたいと強く願えばだけどね」


「……僕が、生きたいと願う……」


 反射的に、そんなの当たり前だと思った。


 けど、その“当たり前”を最後に口にしたのは、いつだったのか覚えていない。


 ……でも、僕はまだ生きたい――そう、信じたい。


「僕は『空虚』に『心』を喰われて死にたくない! 頼む、僕を助けてくれ!」


「わかったわ、そこまでの決意があるなら、助けてあげる。そうしたら、目をつぶって」


「わかった」


 僕は少女の言葉に従い、静かに目を閉じた。

 ほどなくして、額に触れた少女の指先の冷たさに、わずかに身を強張らせる。


 その感触を合図にするように、意識がゆっくりと後方へ引きずられていった。

 抵抗する間もなく、視界は闇に溶け、僕はそのまま意識を手放した。


―――第二話へ続く―――

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