空虚と笑う
案山子
第1話
今日もまた、いつもの日常をそのまま写し取ったかのような一日だった。
朝食に口にしたのは、いつもと同じ、賞味期限ぎりぎりで安売りされていた食パン。相変わらず、文句のつけようがない味だ。
友人関係も良好だった。日中に顔を合わせた友人たちとは、他愛のない話で笑い合い、特別なことは何もなかったが、嫌な出来事もなかった。
生活は裕福とは言えない。それでも、
今日も何事もなく、無事に夜を迎えている。
何も問題はない。
そう、何一つ。
……それなのに、なぜだろう。
僕――
理由はわからない。
ただ、今の生活がこのまま続くと考えた瞬間、身体のどこかが「それは嫌だ」と小さく拒絶した気がした。
名前を持たない息苦しさだけが、そこにあった。
(……こんなことを考えるなんて、僕は浅ましい人間なのかもしれないな)
大学生の身分には
服や食器、雑誌が無造作に散らばったリビングのソファに、僕の身体は深く沈んでいる。
テレビから流れてくるバラエティ番組の軽薄な笑い声だけが、部屋の中でひどく場違いに響いていた。
その音を聞き流しながら、僕は意味のない思考をただ
「確かに、あなたは浅ましい人間のようね。深見楓太」
「…………え?」
自分しかいないはずの室内に、突如として聞こえてきた声。
驚いて声がした玄関の方を見ると、そこには見知らぬゴスロリ少女が立っていた。
透き通るような白い肌に、吸い込まれそうな漆黒の瞳。身に纏った黒いドレスには、白いフリルが
大学生が独りで暮らすこの部屋には、あまりにも不釣り合い――というか、他人が見たら絶対に誤解されて、即行で警察沙汰になるやつだ!
僕、そういう趣味なんてないんですけど!
「あの、えっと。君は誰? どうしてここにいるの? それと……靴、脱いで!」
「そう
「いやいやいや! 平然と土足で人の部屋に入り込んでる君に、
「土足で入ってきてほしくないなら、少しは部屋の掃除をしなさいよ! こんな汚い部屋を素足で歩けるわけないでしょ」
「な、なんだと! 男性大学生の部屋が汚いのは、この国の由緒正しき伝統なんだぞ!」
「そんなくだらない伝統なんて、この国にはないわよ!」
「くっ! ああ言えばこう言う、なんて屁理屈ばかりをこねる少女なんだ!
「余計なお世話! それに、心配される側はあなたの方だから!」
「僕が心配される側? どういう意味だよ、それは……」
「やっぱり気付いてないかぁ……」
少女はハァッと、わざとらしいほど大きなため息をつくと、次の瞬間、こちらをまっすぐ見据え、言い放った。
「あなた、このままだと『
僅かな、沈黙。
――僕は堪えきれず、プッと吹き出した。
「ハハハ! なんだよ『空虚』って。その怪物に僕が食べられて死ぬ? どんな空想話なんだよ、それは。ハハハ! ……ハハ、ハハ……」
徐々に笑い声が萎んでいく。
こちらを見る少女の目が、冷たいほどに真剣だったから。
その視線が否応なく告げていた。これは、冗談の類ではないと。
「……いや、嘘だよね? 僕が死ぬなんて……」
「嘘なんかじゃないわ。このままいけば、あなたは確実に『空虚』に喰われて死ぬわ」
「な、なんでそんなことを君が言い切れるんだよ!」
「だってわたし、人の生死を見極める天使だから」
「て、天使!? ふ、ふざけてるのか! 天使なんてこの世に――」
「いるわけがない。はいはい、そのセリフはもう聞き飽きたわ。会う人間全員が言うんだから。でも実際、あなたの目の前にいるあたしは、天使よ。だって、こんなに可愛い美少女が人間なわけないでしょ?」
「自分のことを美少女と自惚れている? これはもしかしたら、本当に天使なのかもしれない……」
「どこで確信を得ているのよ!」
「でも、だからといって君が天使で、僕が死ぬって……」
簡単に信じられるわけがない。
それに――それに、僕は……。死にたくない、のか?
胸の奥で、そんな黒々とした疑念が生まれた瞬間、自分でも驚いた。
死という絶対的な恐怖を前にしてなお、明確な拒絶が浮かばなかったから。
この先に、いったい何がある、この僕に?
希望に満ちた将来?
平穏と幸福に包まれた日常?
努力が報われ、理想が叶う輝かしい未来?
……そんなもの、あるわけがない。
現実はもっと冷酷で、残酷だ。
期待するたびに何度も裏切られ、耐えるほどに悲鳴を上げつつすり減っていく。
こんなくだらない現実に、これ以上しがみつく理由なんてどこにある?
耐えきれない。
いや、もう耐えなくていいんだ。
そうだ。
耐える必要なんて、どこにもないじゃないか。
自由になろう。
この息苦しい現実から、解放されよう。
すべてを手放せば、何も感じずに済む。
希望も落胆も、苦しみも後悔も。
……そうだ。
それでいい。
それが、僕に残された唯一の自由なのだから。
「はい、ストップ! あなた、もう『空虚』に食べられかけているわよ」
「……え?」
少女の声に、ふと我に返る。
あれ? 僕はさっきまで、なにを考えていたんだ?
というか、なんであんな思考に陥ってしまったんだ?
まるで、生きることを放棄するような……。
冷たい汗が、背中をスッと伝う。
「あなたもわかったんじゃない? 『空虚』という怪物が、あなたのなにを食べようとしているのか」
少女の言葉が、ジワリと胸の奥に浸透していく。
あり得ないと思いながらも、僕は少女の問いに答えた。
「……『心』、か?」
「正解! 物分かりが良くて助かるわ」
「人の『心』を食べる怪物? そんなものがこの世にいるの!?」
「この世にはいないわよ」
「はい? だったらどこにいるんだ」
「それは――」
そう言うと、少女はズカズカと僕の私物を容赦なく踏み分けてきた。
そして僕の目の前に立つと、こちらの胸を指した。
「怪物は、そこ。あなたの“内なる世界”にいるわ」
「“内なる世界”?」
「そう。あなたが
それをあたしたち天使は“内なる世界”って呼称してるの。まぁ、捻りのない呼び名だけどね」
「……そこに『空虚』という、怪物がいるのか?」
「そういうこと。そしてあたしは、あなたがその怪物に『心』を喰われて、死にゆく運命を阻止するために、ここに来たの」
「……どうして、そんなことをしてくれるんだ?」
「理由は簡単よ」
少女はあっさりと言った。
「あの世はね、『空虚』に『心』を喰われた人間の死者で、もう溢れかえってるの。完全にキャパオーバー。このまま増え続けたら、あたしたち天使の労働時間も際限なく伸びて、そのうち天使のほうが過労死しかねないわ」
冗談めかした口調とは裏腹に、その内容は笑えない。
少女は肩をすくめ、淡々と続ける。
「だから上のお偉いさんたちは決めたの。これ以上、『空虚』に人間を簡単に殺させるわけにはいかないってね。
で、あなたは天使の助力があれば、『空虚』から“救えそう”な人間だった」
「それで、君が派遣された……と」
「そういうこと。わざわざ、あの世からね」
「……なるほど」
俺は小さく息を吐いた。
「要するに、君たちの都合ってわけか」
「ええ。完全にね」
少女は、悪びれもせずに微笑んだ。
「でも、本当に僕は、その『空虚』という怪物から助かるの?」
「もちろん。けど、それはあなたが、生きたいと強く願えばだけどね」
「……僕が、生きたいと願う……」
反射的に、そんなの当たり前だと思った。
けど、その“当たり前”を最後に口にしたのは、いつだったのか覚えていない。
……でも、僕はまだ生きたい――そう、信じたい。
「僕は『空虚』に『心』を喰われて死にたくない! 頼む、僕を助けてくれ!」
「わかったわ、そこまでの決意があるなら、助けてあげる。そうしたら、目を
「わかった」
僕は少女の言葉に従い、静かに目を閉じた。
ほどなくして、額に触れた少女の指先の冷たさに、わずかに身を強張らせる。
その感触を合図にするように、意識がゆっくりと後方へ引きずられていった。
抵抗する間もなく、視界は闇に溶け、僕はそのまま意識を手放した。
―――第二話へ続く―――
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