第7話「火の島」
第7話「火の島」
水の島を出てから、海の色が変わった。
灰色だった死海が、少しずつ赤みを帯びてきた。まるで、夕焼けに染まったように。いや、夕焼けよりももっと濃い、血のような赤だった。
「……気温が上がってきたな」
マルコが額の汗を拭った。
あたしも暑さを感じていた。服が肌に張り付き、息苦しい。風はほとんどなく、空気が重く、まるで蒸し風呂の中にいるようだった。
「火の島が、近いのかな」
「間違いないだろう」
マルコは海を見つめた。赤い海は、まるで煮えたぎる溶岩のように見える。波も、どこか不気味に揺れている。静かなのに、どこか暴力的な雰囲気があった。
「リディア、羅針盤は?」
「まっすぐ前を指してる」
あたしは羅針盤を確認した。針は揺れることなく、前方を指し続けている。母さんの羅針盤は、今までずっと正しい道を示してくれた。水の島も、この羅針盤が導いてくれた。
船の後ろから、トムの声が聞こえた。
「おい、あれを見ろ!」
あたしは振り返った。
トムが指差す先には、炎が見えた。
海の上に浮かぶ、巨大な炎の柱。空まで届きそうなほど高く、激しく燃えている。炎は赤く、時折オレンジや黄色に変わりながら、天へ昇っていく。
「……火の島だ」
サラが静かに言った。彼女の声は、いつもより少し緊張しているように聞こえた。
「母さんの日記に書いてあった、火の試練」
あたしは母さんの日記を思い出した。
『火の試練は、知恵を試す。怒りを捨て、真実を見極めよ』
怒りを捨てる。
それが、火の試練。
でも、怒りを捨てるって、どういうことだろう。
あたしは、怒りなんて感じていない——そう思っていた。少なくとも、表面的には。
船は、炎の島へ近づいていく。
島全体が、炎に包まれていた。
木も、岩も、全てが燃えている。でも、不思議なことに、炎は広がらない。まるで、島の中だけで燃え続けているように。煙も出ていない。ただ、炎だけがそこにある。音もない。静かに、でも激しく、燃え続けている。
「……上陸できるのか?」
トムが不安そうに呟いた。声が少し震えている。彼は明るいが、時々臆病な一面を見せる。でも、それは悪いことじゃない。怖いと感じることは、生きるために必要なことだ。
「行くしかない」
あたしは言った。
「試練を越えないと、欠片は手に入らない」
マルコが頷いた。
「俺が先に行く」
「いや、あたしが行く」
あたしはマルコを止めた。
「これは、あたしの旅だから」
「でも——」
「マルコ」
あたしは、マルコの目を見た。
「あたしが行かなきゃ、意味がないんだ。試練は、あたしのためにある」
マルコは少し迷ったが、最終的に頷いた。
「……わかった。でも、無理はするな。少しでも危険だと思ったら、すぐに戻れ」
「うん」
あたしは深く息を吸った。
ケイトが、あたしの肩に手を置いた。
「大丈夫よ、リディア。あなたなら乗り越えられる」
「……ありがとう」
リラも、小さく頷いた。
「あたしたち、ここで待ってるから」
ベンが、拳を握って言った。
「頑張ってくれ」
サラが、静かに微笑んだ。
「必ず戻ってきて」
あたしは頷いた。
「みんな、ありがとう」
あたしは船を降り、島へ足を踏み入れた。
炎が近づいてくる。
熱い。
顔が、腕が、全身が熱い。
でも、不思議なことに、火傷はしなかった。
炎は、あたしを避けるように揺れた。まるで、生きているように。まるで、あたしを迎え入れるように。
「……これが、試練」
あたしは呟いた。
島の中へ進むと、周りの景色が変わった。
炎の壁が、あたしを取り囲んでいる。
前も、後ろも、左も、右も、全て炎。
でも、道は一本だけ開いている。
あたしは、その道を進んだ。
炎が、あたしに語りかけてくるような気がした。
「……なんで」
誰かの声が聞こえた。
いや、違う。
あたしの声だ。
「なんで、母さんは死んだの」
声が、炎の中から響いてくる。
「なんで、父さんは逃げたの」
「なんで、あたしは一人なの」
「なんで、こんな目に遭わなきゃいけないの」
あたしは立ち止まった。
心臓が、ドクンと大きく鳴った。
怒りが、湧き上がってきた。
ずっと、心の奥底に押し込めていた怒り。
母さんへの怒り。
父さんへの怒り。
この世界への怒り。
そして——自分自身への怒り。
「……っ」
あたしは拳を握りしめた。
炎が、激しく燃え上がった。
あたしの怒りに反応するように。炎は、あたしの心を映し出している。
「……なんで、母さんは心臓なんて手に入れたの!」
あたしは叫んだ。
「心臓を手に入れなければ、母さんは死ななかった!」
「なんで、父さんは逃げたの!」
「あたしを一人にして、どこかへ行ってしまったの!」
「なんで、あたしを残して——」
声が、震えた。
涙が溢れてきた。
「なんで、あたしを残していなくなったの!」
炎が、答えるように揺れた。
そして、映像が浮かんだ。
父さんが、海を見つめている映像。
父さんの顔は、悲しそうだった。疲れ切っていた。目の下には隈ができ、頬はこけていた。
「……リディア、すまない」
父さんの声が聞こえた。
「俺は、弱かった。心臓の力に耐えられなかった」
父さんは、右手を見つめた。
右手には、青白い印があった。
心臓の印だ。
印は、手首まで広がっていた。
「代償は、もう限界だった。このまま力を使い続ければ、人間性を失う」
父さんは、海に向かって叫んだ。
「俺は、もう俺じゃなくなる! 海の怪物になる!」
父さんの声が、震えていた。
「セレーナが、あんなに苦しんだのを見た」
「心臓の代償で、少しずつ記憶を失っていった」
「最後には、俺のことも忘れた」
父さんは、膝をついた。
「俺も、同じ道を辿る」
「リディアのことを忘れる」
「いや、もっと悪いことをするかもしれない」
父さんは、顔を覆った。
「だから、逃げた! 全てを捨てて、逃げた!」
「でも……」
父さんは、顔を上げた。
涙が流れていた。
「リディアを、一人にしてしまった」
「セレーナの願いも、裏切ってしまった」
「俺は、最低の父親だ」
「許してくれとは、言わない」
「ただ……」
父さんは、静かに言った。
「お前を、愛していた」
映像が消えた。
あたしは、炎の中で立ち尽くした。
涙が溢れてきた。
止まらなかった。
「……父さん」
父さんは、弱かったんじゃない。
怖かったんだ。
人間じゃなくなることが。
自分を失うことが。
そして、あたしを傷つけることが。
父さんは、逃げた。
でも、それは逃げ方だったんだ。
あたしを守るための。
あたしと同じだ。
あたしも、怖い。
心臓の力を使うことが。
代償を受け入れることが。
人間じゃなくなることが。
でも——
「……でも」
あたしは呟いた。
「でも、あたしは逃げない」
炎が、静かになった。
「父さんは逃げた。それが、父さんの選択だった」
「母さんは、心臓を手に入れた。それが、母さんの選択だった」
「どちらも、間違いじゃない」
あたしは涙を拭った。
「父さんは、あたしを守るために逃げた」
「母さんは、あたしを産むために代償を受け入れた」
「二人とも、あたしのために選んだんだ」
あたしは、深く息を吸った。
「だから、あたしも選ぶ」
「あたしは、逃げない」
「あたしは、仲間と一緒に進む」
「たとえ、代償があっても」
「たとえ、怖くても」
「あたしは、前を向く」
炎が、完全に消えた。
あたしの前に、道が開けた。
道の先には、小さな祭壇があった。
祭壇は石でできていて、古く、苔に覆われている。でも、その上に置かれた石だけは、新しく見えた。
赤い石。
心臓の欠片。
火の欠片。
あたしは、祭壇へ近づいた。
欠片は、脈打っていた。まるで、生きているように。ドクン、ドクンと、心臓のように。
あたしは、欠片を手に取った。
欠片は熱く、でも心地よかった。
手のひらの中で、欠片が光った。
「……ありがとう、父さん」
あたしは呟いた。
「父さんの選択も、間違いじゃなかった」
「父さんは、父さんの道を選んだ」
「でも、あたしは違う道を選ぶ」
「あたしは、逃げない」
「あたしは、仲間と一緒に、最後まで進む」
欠片が、優しく光った。
まるで、父さんが応えてくれたように。
あたしは欠片を握りしめ、島を出た。
炎の壁は、もう消えていた。
道は、まっすぐ船へ続いている。
空は、赤から青へ変わっていた。
あたしは、走った。
仲間たちが、あたしを待っている。
船に戻ると、仲間たちがあたしを迎えてくれた。
「リディア!」
マルコが駆け寄ってきた。
「大丈夫か? 怪我は?」
「うん、大丈夫」
あたしは笑った。
涙の跡が、まだ頬に残っているかもしれない。
でも、あたしは笑った。
「火の欠片、手に入れたよ」
あたしは欠片を見せた。
赤い欠片が、手のひらの中で光っている。
仲間たちが、安堵の表情を浮かべた。
「よくやったな」
マルコが、あたしの頭を撫でた。
サラも微笑んだ。
「次は、風の島だね」
「ああ。最後の試練だ」
あたしは頷いた。
トムが、明るく言った。
「もう少しだな! 頑張ろうぜ!」
リラも嬉しそうに笑った。
「リディア、よく頑張ったね」
ケイトが、あたしの手を握った。
「よく頑張ったわ。でも、無理はしないでね」
「……ありがとう、みんな」
あたしは、仲間たちを見渡した。
みんなが、ここにいる。
あたしは、一人じゃない。
ベンが、拳を突き出した。
「次も、頼むぜ」
あたしは、ベンの拳に自分の拳を合わせた。
「うん。最後まで、一緒に行こう」
船に戻り、あたしたちは再び海へ出た。
羅針盤の針が、次の島を指している。
死海は、まだ続く。
でも、あたしはもう迷わない。
母さんの想いも、父さんの想いも、しっかりと受け取った。
怒りも、悲しみも、全て受け入れた。
そして、前を向いた。
心臓への道は、もうすぐだ。
あたしたちは、止まらない。
海が、あたしたちを待っている。
そして、最後の試練が、あたしを待っている。
風の島へ。
次の更新予定
『海賊王の娘 ~紅き潮風の継承者~』 山太郎 @125803
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