第6話『沈黙の海』
第6話「沈黙の海」
海が、静かすぎた。
あたしたちが北へ進むにつれ、波の音が消えていった。最初は風が弱まっただけかと思った。でも、違った。海そのものが、息を潜めているようだった。
「……気味が悪いな」
マルコが船首に立ち、腕を組んで海を見つめている。あたしも隣に立った。
「ここが、死海なのかな」
「多分な。親父さんの日記に書いてあった通りだ」
あたしは羅針盤を取り出した。針は、まっすぐ北を指している。ここまで来て、針が揺らいだことは一度もない。
「母さんも、ここを通ったんだよね」
「ああ。そして、心臓を手に入れた」
マルコは静かに言った。あたしは頷いた。
母さんの日記には、死海のことが書かれていた。音が消え、生命が消え、時間が止まったような海。そこを越えた先に、心臓がある。
「リディア、見てくれ」
マルコが指差した先を見ると、海の色が変わっていた。深い青から、灰色へ。まるで、色を失ったように。
「……あれが、死海か」
「間違いない」
船が、灰色の海へ入った瞬間、音が消えた。
波の音も、風の音も、仲間たちの声も。全てが、消えた。
あたしは思わず耳を塞いだ。でも、何も変わらない。音がないのではなく、音が吸い込まれているような感覚だった。
「……っ」
マルコが口を動かしている。でも、声が聞こえない。あたしも口を動かした。
「聞こえる?」
でも、自分の声すら聞こえない。
船の後ろを振り返ると、サラが驚いた顔でこちらを見ていた。トムは口を大きく開けて何かを叫んでいるが、音は一切届かない。リラは不安そうに海を見つめ、ケイトはベンの肩に手を置いて落ち着かせようとしている。
あたしは深呼吸をした。音は聞こえない。でも、心臓の鼓動は感じる。
ドクン、ドクン。
自分の心臓の音が、やけにはっきりと聞こえた。
そして、不思議なことに気づいた。
仲間たちの心臓の音も、聞こえる。
マルコの、力強く規則正しい鼓動。サラの、冷静で穏やかな鼓動。トムの、少し速く不安そうな鼓動。リラの、小さく繊細な鼓動。ケイトの、深く優しい鼓動。ベンの、緊張しながらも前を向く鼓動。
みんなの心臓の音が、波のように重なり合って、あたしの中に響いてくる。
「……これが、死海」
声は出ない。でも、心の中で呟いた。
音がない代わりに、心臓の鼓動で繋がっている。
あたしは羅針盤を見た。針は、まっすぐ前を指している。
船は、ゆっくりと進んでいく。
灰色の海は、どこまでも静かで、どこまでも深かった。まるで、底がないように。
時間の感覚が、おかしくなってきた。
どれくらい進んだのか、わからない。太陽も見えない。空は灰色で、海も灰色。全てが同じ色に染まっている。
あたしは、ふと母さんのことを考えた。
母さんも、この海を進んだんだよね。
一人で?
それとも、仲間がいたの?
母さんの日記には、仲間のことは書かれていなかった。でも、一人でここまで来れるとは思えない。
あたしは、マルコの背中を見た。
マルコが振り返り、あたしに頷いた。
言葉はいらなかった。
心臓の鼓動が、全てを語っている。
「大丈夫だ」と。
「一緒にいる」と。
あたしも頷いた。
船は、進み続ける。
どれくらい経ったのか、わからない。
でも、羅針盤の針が、少し揺れた。
あたしは目を凝らした。
前方に、何かが見える。
灰色の海の中に、黒い影。
それは、門だった。
巨大な門が、海の上に浮かんでいた。
石でできた門は、古く、苔に覆われている。でも、崩れることなく、しっかりと立っている。
門の上には、文字が刻まれていた。
『四つの門を越えし者に、心臓への道は開かれる』
あたしは、父の日記を思い出した。
父の日記には、四つの門のことが書かれていた。
白、赤、青、黒。
そして、心に従って門を選べ、と。
あたしは、門をじっと見た。
門は一つ。
でも、父の日記には「四つの門」と書いてあった。
……ということは。
あたしは船を止め、仲間たちを集めた。
音がないので、身振り手振りで伝える。
マルコが頷き、サラが羅針盤を覗き込む。トムが不安そうに門を見上げ、リラが小さく頷く。ケイトが優しく微笑み、ベンが緊張した顔で拳を握る。
あたしは、門に向かって歩き出した。
船が門に近づくと、門が光った。
白く、眩しい光。
そして、門が四つに分かれた。
白、赤、青、黒。
四つの門が、あたしたちの前に現れた。
「……心に従って、選べ」
声は出ないが、心の中で呟いた。
あたしは、青い門を見た。
母さんは、海の民だった。
そして、あたしも海の民の血を引いている。
なら、青い門が正しいのかもしれない。
でも、心が別のことを言っていた。
白い門。
なぜか、白い門に引かれる。
あたしは、白い門を指差した。
マルコが頷く。サラも頷く。
仲間たちも、全員が頷いた。
船は、白い門へ向かう。
門をくぐると、世界が変わった。
音が戻ってきた。
波の音、風の音、仲間たちの声。
全てが、一気に押し寄せてきた。
「っ、聞こえる!」
トムが叫んだ。
「音が戻った!」
リラも嬉しそうに笑った。
あたしは、深く息を吸った。
音がある世界は、こんなにも賑やかだったんだ。
「リディア、前を見ろ」
マルコの声に、あたしは前を向いた。
そこには、島があった。
小さな島。
でも、島全体が青く光っている。
「……水の島」
あたしは呟いた。
父の日記に書いてあった、三つの試練の一つ。
水の試練。
母さんの日記には、こう書かれていた。
『水の試練は、勇気を試す。恐れを捨て、記憶と向き合え』
あたしは、島を見つめた。
「行こう」
あたしの声に、仲間たちが頷いた。
船は、島へ向かう。
青く光る島は、近づくほどに大きく見えた。
島の中央には、泉がある。
水が湧き出ていて、透明で美しい。
でも、不思議なことに、泉の水面には何も映っていなかった。
あたしたちは、船を降りて島に上陸した。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
冷たく、でも優しい。
水の匂いがする。
「……記憶の泉」
サラが呟いた。
「母さんの日記に、書いてあったよね」
「ああ。記憶と向き合う試練だ」
あたしは、泉に近づいた。
泉の水面を覗き込むと、自分の顔が映った。
でも、それだけじゃない。
水面が揺れ、映像が浮かんだ。
小さな女の子が、浜辺で笑っている。
その隣には、優しい顔の女性。
「……母さん」
あたしの声が震えた。
映像の中の母さんは、若かった。
あたしくらいの年齢だろうか。
母さんは、小さな女の子——あたし——を抱きしめて、笑っていた。
「大きくなったら、一緒に海へ行こうね」
母さんの声が聞こえた。
「海は広くて、自由で、美しいの。あなたも、きっと好きになるわ」
幼いあたしは、嬉しそうに頷いた。
「母さんと一緒なら、どこへでも行くよ!」
母さんは、優しく笑った。
「ありがとう、リディア」
映像が消えた。
あたしは、泉の前で膝をついた。
涙が溢れてきた。
「……母さん」
母さんは、あたしを愛してくれていた。
でも、母さんは死んだ。
心臓の代償で。
あたしを産んで、三日後に。
「……母さん、ごめん」
あたしは呟いた。
「あたしが生まれたから、母さんは死んだんだよね」
「違う」
マルコの声が聞こえた。
「お前のせいじゃない。母さんは、お前を愛していた。そして、お前のために生きた」
「でも……」
「リディア、泉をもう一度見ろ」
マルコの言葉に、あたしは泉を見た。
水面が再び揺れ、映像が浮かんだ。
今度は、母さんが一人で海を見ている映像だった。
母さんは、右手を見つめていた。
右手には、青白い印があった。
心臓の印だ。
「……代償は、もう限界」
母さんが呟いた。
「でも、リディアを産みたい。この子に、会いたい」
母さんは、海に向かって叫んだ。
「お願い、もう少しだけ時間をちょうだい!」
映像が消えた。
あたしは、涙を拭った。
母さんは、あたしを産むために、代償を受け入れた。
それは、母さんの選択だった。
「……ありがとう、母さん」
あたしは立ち上がった。
泉の水が光り、中から何かが浮かび上がってきた。
小さな、青い石。
いや、石じゃない。
欠片だ。
心臓の欠片。
あたしは、欠片を手に取った。
欠片は温かく、脈打っていた。
「……これが、水の欠片」
マルコが頷いた。
「ああ。三つの欠片の一つ目だ」
あたしは欠片を握りしめた。
母さんの想いを、しっかりと受け取った。
「次は、火の島だ」
あたしの言葉に、仲間たちが頷いた。
船に戻り、あたしたちは再び海へ出た。
羅針盤の針が、次の島を指している。
死海は、まだ続く。
でも、もう怖くない。
母さんが、見守ってくれている。
仲間たちが、一緒にいる。
あたしは、前を向いた。
心臓への道は、まだ遠い。
でも、一歩ずつ進んでいる。
あたしたちは、止まらない。
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