第8話「わたしのからだ」

「あか、た、な。は、まやらわ。いろっは、にへ、と、けほっ」


 うん、今日の発声練習はこんなものでいいか。だいぶ単語が繋がるようになってきたし、初日に比べたらかなりの進歩と言える。むせるのはどうしようもないけど、明日からは本の音読なんかに挑戦してみるのもいいかもな。

 担当の常盤ときわさんが毎日のように差し入れてくる雑誌や文庫本は高く積み上げられ、そろそろ消化していかないと崩れてきそうだし。興味の範囲外であるファッション誌から手を付けてみるか。毎回出題される流行ファッション用語や、懐かしトレンドアイテムクイズにも、そろそろ一矢報いてやりたいと思っていたところだ。


「よし……っ」


 気合を入れ、手のひらサイズのゴムボールを握る。そのまま水平になるまで腕を持ち上げ、手首から腕全体の力を使うように意識しながら、徐々に握る力を強めていく。次第にプルプルと痙攣し震えだす腕。頼りない細腕は、その数秒後にほとんど無抵抗なままだらりと垂れ下がった。

 たったこれだけの動作で、激しい運動でもしたあとのように息が切れる。4クォーターフルで走り回れた体力はどこにいったっていうんだよ。何をするにも、気持ちや気概に肉体が追いついてこない。男だった時との認識の誤差で何度も痛い目を見ているし、これからも繰り返すんだろうな。


 とめどなく出るため息は、日に日に深く長くなっているように思えた。


 引き戸をスライドさせるのにすら一苦労する握力は、とっくにボールを手放している。床に転がるボールを追う視界に、二つの山が映り込む。


「……ちっ」


 思わず舌打ち。そう、女になって目に見えて大きく変化した部分だ。性器の喪失感は、服を着ている限り直接目にすることはないから忘れられる。あと嫌でも慣れた。でも、こいつは常に視界の端々で存在を主張してくるのがたまらなく鬱陶しく、重心が偏って歩行もままならない。少なからずリハビリのパフォーマンスに悪影響を及ぼしているのは間違いなかった。

 てか、足元見えないのは普通に危ないだろ。腕の可動域を大きく制限しているのもストレスだ。

 そりゃ柔らかいっちゃ柔らかいけど、寝返りが打ちにくく、重みで横に引っ張られると結構痛い。常日頃から首や肩に余計な負担がかかっているのも、こいつが原因だろう。


 重たくて不自由。それが率直な感想だった。


 そんなやるせない気持ちを抱いていると、控えめなノックの音が数回鳴った。入ってきたのは母さんだ。


「星也、おはよう。ちょっと早かったかしら」


 そっか、今日は面会の日だっけ。リハビリの最中に来るのは初めてだな。正直、あんまり見られたくない場面だ。

 乱れた髪。上気した顔をパタパタと手で仰いでいる。見慣れたパンツスーツ姿ということは、仕事を抜けてきたのか。そこまでしなくてもいいのに。

 母さんは慌ただしそうに居住まいを正すと、手鏡で身なりを整え始めた。


「ごめんね、忙しなくて。この後大事な会議があるの。でも今日を逃すと日が空いちゃうし、無理言って抜けてきちゃった」


「なに、か、あった?」


 どうしたんだろう。母さんの様子から暗い話ではなさそうだけど、


「ねえ、星也。今のあなたはね、日常生活を送れるギリギリのラインにいる状態なの。先生が言ってたわ」


 は? なんだよ、それ。知ってるよ。ひとりじゃなにもできないってことくらい。


「もう、そんな悲しい顔しない。言い換えれば、日常的に支障を来すレベルじゃないってこと。周囲のサポートが前提だけど、あなたが望めば来週には退院できるわ」


「え、うそっ、げほ」


 願ってもいない展開に、思わず声が上擦った。そんな話、おれは聞かされていない。どうして母さんが知ってるの?


「ちょっと大人こっちのお話になっちゃうんだけど」


 母さんはどこか神妙な面持ちで、声を落として話し始めた。

 どうやらおれに投与された『再生酵素薬』なる代物は日本で未承認薬に指定されているらしく、保険が適用外なのはもちろん、入院費含むすべての治療費を自身で負担しなければならないらしい。

 話を聞いているうちに血の気が引いたが、その高額な治療費のほとんどを浅間さん個人が負担してくれているという。とんでもない話にヒュッと喉が鳴った。


「とんでもない話よね。その代わりに条件があって。5年間の経過観察期間を設けること。月に一度、尿や血液の採取。検査結果の学会への提出を認める、という条件はあるわ」


 治療費のことを考えると受けざるを得ないんだろう。でも、それくらいだったら全然マシじゃないか。拘束されて、人体実験じみたことをされるなんてなったらたまったもんじゃないし。

 こちらとしては願ったりな展開に、おれは小さく頷いた。


「それで退院の話なんだけど、もちろんこのまま入院生活をもう少しだけ続けたっていいのよ。在宅療養っていうのもあるみたい。家族もあなたに会いたがってるし、そっちを選んでくれた方がお母さんとしてはありがたいわ」


「ど、いうこ、と?」


「星也、勉強は家でもできる。必ずしも学校に行かなきゃいけないってことはないの」


 母さんの両手がおれの手を包む。その眼差しは微かに震え、指先はじっとりとした熱を帯びている。母さんがなにを伝えたいのか、分かった。


「きっと、辛い目にたくさん遭う。世間があなたを見つけたらどこまでも付きまとってくる。いつか取り返しのつかない事態を招くかも。それでも、あなたは外に出たい?」


 中身は赤ん坊なようなもの。前にそんなことを言われた。常人ならいくつもある選択肢も、おれには限られた一本道しかないと。

 女の体になったのはどうしようもなくて、諦めもついた。でも、健康な体すら許されなかったのはどうしてだろう。そんな思いは頭の片隅でずっと燻っていた。不安や後悔をずっと抱えて生きていくなら、狭い世界に閉じこもっていたほうが幸せなのか。

 俯き、唇を噛み締める。


「……こんなこと言ったらあなたは怒るかもしれないけど。私は新しい娘ができたって思ったわ。それも、こんなとびっきりにかわいい子が。だからお願い。そんなに自分を卑下しないで」


 母さんの手が、今度は頬に触れた。ゆっくりと頭を上げられる。懐かしくて、温かい。そんな抱擁がおれを迎えた。


「あなたはあなた。姿が変わっても中身は変わらない。いつまでも私の大切な子供なの。だから、どうか悔いのない選択を。私はあなたの意思を尊重するわ」


 熱いものが流れた。体や心まで冷えるような涙じゃない。全身を解きほぐすような、優しい涙。誰かに愛される、必要とされるのが嬉しかった。


「っ、うぇぐ、ひぐ」


「ふふ。泣き虫になったわね。幼い頃のあなたに戻ったみたい」


 友達と会えなくなるなんて絶対に嫌だ。やりたいことだってたくさんある。早く退院したいと、おれは泣きじゃくりながらもなんとか伝えた。

 まるでそう答えるのを待っていたかのように、母さんは抱きしめていた腕を解くと、


一透かずくんと更紗さらちゃんに、そろそろ会ってみたくない?」


 眩しいくらいの笑顔で、そんなことをぶっ込んできた。

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とらんすせくしゃるせくしゃりてぃ 黒梅 @OHN_Kuroume

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