第7話観点:浅間森人

 出ていけか。

 半ば追い出されるような形で病室を後にし、薄暗い廊下に消えていく後ろ姿はさぞ滑稽に映ったことだろう。らしくもない緊張や焦り、感情の先走りがあったことは否定できない。不躾な言動で怒らせただけにみえるが、ここからは多少の荒療治も辞さないつもりだ。


 聖奈月星也。今日こんにちに至るまでの彼の姿はとても見ていられるものではなかった。口数は少なく、常に深い影が落ちている表情からは感情の起こりがまるで見受けられない。心と体の性別のなズレによる自己認識の乖離。それがもたらす自己不一致。もしこの先自我を見失うような状態が続けば、離人症や解離性障害などの精神疾患を発病する可能性が極めて高い。元来、人間は適応能力に長けた種ではあるが、極端な変化には相応のストレスを伴う。早急なアイデンティティの確立が必須であった。


「……」


 先の反応を見るに、一定の成果は得られたといっていいだろう。強い怒りや憎しみの感情は、間違いなく彼自身の意思が尊重されたもの。これは大きな進歩だ。人との対話によって生じる相互作用がより強固な自我の確立につながっていく。今後は医師と患者という枠組みを超えた対等な立場でのコミュニケーションを重視し、家族だけでなく同年代の友人、複数人で対話するなどの機会を設けることによって、一刻も早い日常生活への復帰を目指す。

 リスクはあるが、彼のためにもやらない理由はない。戻って計画書を見直さなければ。


「お疲れ様です、浅間准教授。考え事ですか? 前見ないと危ないですよ」


 思考が引き戻される。気が付けば、目と鼻の先に見慣れた顔があった。


「常盤主任。すみません、不注意でした」


 仰け反った反動に腰が悲鳴を上げる。連日のデスクワークが祟ったか。


「いえいえ。それより、そちらの方向……聖奈月さんですか?」


 彼女は顔を横にずらすと、わざとらしく目を細めた。

 常盤汐梨ときわしおり。まだ30代半ばながら海外での長期勤務実績を持ち、病院ここでは父に次いで信頼のおける優秀な人間だ。

 彼女には聖奈月星也に対する診療業務を一任しているため、接する機会は他の者よりも多いだろう。


「ええ。少し話を、と」


「そうですか。怒鳴り声のようなものが聞こえたので何事かと思いましたよ。スポーツ観戦でも? 随分と白熱していたようで」


 しまった、聞かれていたか。猜疑的な視線が身を射抜く。彼女には事前に相談するべきだったと、要領の悪さに歯噛みしながらも事の次第を弁明する。

 彼女は聡い。簡潔な説明でもその意図は十分に伝わったようだ。


「確かに危うい感じはしていましたけど、思っていたよりもリスキーな手を打つんですね。やっぱり身体的な苦痛はともかく、精神となると一筋縄じゃいきませんか」


「難しいですよ。本人の感覚としては、現実感のない矛盾を抱えているようなものですから」


「というと?」


「手術の過程で性転換するなんて誰が予想できたでしょうか。私たちはもちろん、彼にとっても今の状況はあまりにも非日常で非常識。ですが、実際に対処すべき問題として目の前に立ち塞がっている。これは彼の存在自体が非現実的でありながら、確かな事実としてそこに存在している奇妙奇天烈な不合理に他ならない」


「なるほど、空を飛ぶ魚! でもあの子は自分がトビウオだとは知らない、または思いたくないってことですね。そういう話なら、私としては矛盾よりも逆説と言われたほうがしっくりきます」


「捉え方は人それぞれですよ。なんにせよ、今日彼に会うのは控えてください」


 まったく。どの口が言うのか。自分の勝手な言い分に笑ってしまいそうになる。ごまかすための咳払いがなんとも間抜けに響いた。


「……大人しく回れ右したほうがよさそうですねぇ。ざんねん」


 彼女は腕に抱えている雑誌を名残惜しそうに見つめると、大きく息を吐いた。見たところ女性向けのファッション誌であろうその特大の地雷が、近いうちに彼の手に渡る未来を想像する。

 いくつか有名どころの少年漫画でもチェックしておいたほうがよさそうだ。


「あの、ずっと聞きたかったんですけど。再生酵素薬、あれってこの国じゃに指定されていましたよね。使用に踏み切ったのは院長のご決断ですか?」


 すれ違いざまに声がかかる。どうやらまだ帰してはくれないらしい。


「あれは研究の為に私が個人で所有していたものです。あの場では薬を投与する以外に助かる術はなかったというのが、我々医療チームの総意だったはず」


「そうですか。資料見させてもらいました。結果だけ見れば魔法みたいな薬ですけど、そんな都合よくないですよね。あの子と同じように瀕死の状態から生還した患者は、誰も彼も数年後に亡くなっているそうじゃないですか」


 淡白な返事。さほど興味はないようだ。どうやら、後者の内容が本命か。


「……断定はできません。彼の場合はあまりにも異例なケースですから、同列には扱えませんよ」


「そこなんですよねぇ。ちょっと異例すぎると思いません? あそこまでの変わりようはちょっと信じられないというか。性転換というより、もはや生まれ変わりですよね」


 ……生まれ変わり。

 確かに、言い得て妙か。実際、あそこまで完璧なDNAの配列変化は見たことがない。薬を投与してから僅か半日の間で、精巣の維持に必要な遺伝子活動を停止させ、卵巣形成を促進させる新しい遺伝回路を生み出した。これはすべての細胞が同じ目的を持って、外的変化に適応した結果と言える。

 その悍ましくも神秘的な光景を、生涯忘れることはないだろう。


「どうしてあの子だけにあんな副作用が出たのかは、本当にまだ分かっていないんですか?」


「……」


 術後の経過観察で結果以上のものが出るとは思えない。彼を特別たらしめた要因が他にあると断定できれば、多少は気も楽になるのだが。

 そう、例えば事件が起きた現場の環境。要因の一端があるとすればそこではないか。『再生酵素薬』はまだまだ発展途上の代物。当時の現場で発生した何かの影響が、今回の結果を招いたとする。それを解き明かすことができれば、半ばブラックボックスと化している重篤者がに至るというプロセスを確立できるかもしれない。


「あの、長々と立ち話に付き合ってもらってすみません。出過ぎた真似をしました。失礼します」


 そう言うと、彼女はこちらの返事も待たずに踵を返して行ってしまった。彼女に限ってその心配はないのだろうが、過度な感情移入は互いを不幸にするだけだ。しかし。


「……耳の痛い話だな」


 この沈黙をどう捉えられたのかは想像に難くない。話の流れで隅に追いやられたとはいえ、彼女の挙げた前例を鵜呑みにするのなら、聖奈月星也の命は持ってあと数年と言うことになる。それを余命とするなど死刑宣告にも等しいが、完全に否定することもできなかった。

 実際問題として短期間で異常なほど活発に行われた細胞分裂や遺伝子組み替えの代償は無視できない。ある時期を境に細胞は急速に劣化を始め、臓器や身体機能を緩やかに衰弱させていくだろう。やがては生命活動そのものを停止させかねない。

 個人差は大きいが、所謂老衰という形での最期を彼らが迎えていることからも、同じ末路を辿る可能性は高い。


 ふと、考えてしまう。

 本来、あの時に尽きるはずだった命を無理やり延命させてしまった結果、より残酷な運命を彼に背負わせてしまったのではないかと。幸か不幸か、それを決めるのは自分たちではないとしても。それでも、まだ世間を知らない小さな少年にとって、あの日は間違いなく人生最良の日だったはずだ。


 そう、願わずにはいられなかった。

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