Epilogue
〈陽〉(未投函)
これを書いている今、あなたはまだ、この部屋にいる。台所の方で、皿が触れ合う乾いた音がする。蛇口をひねる音。水の音。生活が続いている音。続いているはずの音。
それが、どうしてこんなに怖いのか、説明できない。
私はあなたのノートを見た。見てはいけないものだと分かっていたのに、指が勝手に開いた。紙の上に並んでいたのは、私の泣き方だった。泣き止む秒数、瞬きの回数、視線が合う割合。抱きついたとき、あなたの肩がどれくらい遅れて動くか。会話の語尾が上がったか下がったか。
私の全部が、あなたの中で「測れるもの」になっていた。測れるものにされた瞬間、私の中から温度が一枚はがれた。泣くのとは違う。泣く前に冷えていく、変な感覚だった。
怒りたいのに、怒れなかった。あなたが、私を傷つけたいから書いたわけじゃないと分かってしまったから。
書くことが、あなたの「生き残る」になっている。あなたの手が震えない理由が、そこにあった。震えないことが優しさの代わりになっていて、その代わりが、私の息を細くした。
それでも私は、あなたのことを知っていると思っていた。映画で笑う癖。寝起きに目を擦る指。私の料理を「うまい」と言う時の、少しだけ照れた顔。
なのに、その記憶が、私の中で先に薄くなる。薄くなるのはあなたじゃない。私のほうだ。あなたを見ているのに、私の側の受け取り方が壊れていく。壊れたことを、壊れたと呼べないまま。
ノートを閉じたあと、私は自分が何をしているのか分からないまま、あなたの机の引き出しを開けた。探していたわけじゃない。探したくなかった。けれど手が勝手に動いた。
布に包まれた小さな塊。鈍い真鍮の光。蓋の唐草模様。あなたが「なんとなく」と言って持ち歩いていた、懐中時計。
私はそれに触れるべきじゃなかった。触れたら終わる、と身体が先に知っていた。
でも、終わっているのはもう私たちなのかもしれない、と思った。終わっているのに、形だけ続いているのが、いちばん残酷だから。
蓋を開けた。白い文字盤。止まった針。止まったままなのに、触れた指の腹に、微かな脈みたいなものが伝わってきた。温い。冷たいはずなのに、温い。
竜頭に親指と人差し指をかけたとき、私はやっと理解した。あなたが怖がっていたのは「死」じゃない。「続くこと」だ。繰り返すこと。戻ること。戻っても救えないこと。
回したのは、ほんの少しだった。ほんの少しのはずだったのに。
次の瞬間、私の頭の中に、知らない朝が流れ込んできた。
知らないのに、知っている。
トーストが焦げる匂い。洗剤の残り香。私の鼻歌。窓の光の角度。あなたが「笑う練習」をしている顔。
そしてその上に、夜が重なる。街灯の下で私が崩れる映像。叫び。血の匂い。あなたの喉が切断される瞬間の「音」。音が薄くなる順番。世界が切れる手触り。
私は椅子を掴んだ。立っていられなかった。
怖いのは、私が死ぬ映像じゃない。私が死ぬ映像を、あなたが何度も見ていることだ。何度も見て、何度も戻って、何度も同じ朝に座っていることだ。私の笑顔の上に、毎回の終わりが薄く貼りついていることだ。
記憶は「物語」みたいに繋がって入ってきたわけじゃなかった。破片だ。手順だけが先に入ってくる。あなたが数える回転数。あなたが怖さを「未来を細くする」と言い換える瞬間。あなたが私の涙を塩分濃度として見ようとする瞬間。
そのたびに、私の中で何かが削れる。削れているのに、痛みの場所が特定できない。涙が出そうになるのに、理由がない。理由がないから、声も出ない。
そして一番怖かったのは、あなたの優しさが残っていたことだ。
あなたは壊れていく途中でも、私を守ろうとしていた。守る方法だけが、変わっていった。抱き返す温度の代わりに、最短の角度で私を倒れない位置に置く。最短の言葉で私を黙らせる。最短の手順で夜を潰す。
その最短が、私の中の「あなた」を削っていくのに。
私は、あなたに言えない。
「知ってしまった」と言えば、あなたは直す。直せる形に落とし込む。直そうとする。その直し方が、きっともっと正確になる。もっと正確になったあなたは、もっと遠くなる。
だから私は、黙ってしまう。黙ることでしか、あなたの手を止められない気がする。止めたいのに、止め方が分からない。
今、あなたは隣の部屋にいる。皿を拭く音がする。私が好きだった生活の音。
なのに私は、それを「終わる前の音」だと思って聞いている。あなたの記憶が流れ込んだせいで、私は知ってしまった。あなたの中で、もう結論が固まりつつあることを。
最大阻害要因は自分だ、とあなたが静かに決めていく過程を。
あなたはたぶん、私を守るために、あなたを消す。
「消える」という言葉すら、あなたは使わないだろう。編み直す。最小コスト。盤面。条件。
私の涙は、あなたの中で「入力」になってしまった。私の願いは、あなたの中で「ノイズ」になってしまった。
それでも私は、あなたに言いたい。後悔して、とは違う。人間でいて、とも違う。
ただ、私の名前を呼んでほしい。意味のある声で。温度のある声で。
でも、それを言う前に、あなたがいなくなる気がする。
あなたが消えた後、私は私でいられる自信がない。私の中の「あなた」が剥がれていくのを、さっき一瞬で体験したから。あれが最後まで進んだら、私はあなたを忘れる。忘れた自分が笑う。笑う癖だけが残る。
その未来が、いちばん怖い。
だからこれを書いている。あなたに渡せない手紙を、あなたがまだいる間に書いている。
書いても残らないかもしれない。残らない匂いみたいに、残らない温度みたいに、消えるかもしれない。あなたが選ぶ最小コストの中に、これも含まれてしまうかもしれない。
それでも私は、今の私のまま、あなたに言う。
湊。私を守るために、私からあなたを奪わないで。
……そう書いた瞬間、私は気づく。これも、あなたにとっては「私が壊れる条件」になるのかもしれない。だから私は、最後の一行だけ、違う形にする。
あなたがどこへ行っても、私は今日の朝の匂いを、忘れたくない。
忘れるなら、せめて、忘れたことに気づけないまま、少しだけ失敗した朝を生きていくんだと思う。トーストを焦がして、理由のない涙を一瞬だけこぼして、それでも「まあいいか」と笑う。
その笑いが、あなたのいない世界の正しさになってしまう前に――私は、あなたの温度を、ここに置いておく。
最も冷たい優しさのカタチ 桃馬 穂 @kenkix
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