第5章
帰ってきた、と思ったのは陽だけだった。玄関の灯り、靴の位置、湊のコートを掛けるいつもの癖。全部が元の生活の形をしているのに、そこに入っている中身だけが別物にすり替わっている。湊は無言で鍵を二回確認し、窓のロックを順番に触り、カーテンの隙間を同じ角度で直した。やり方が正確すぎて、手順の音がする。
陽は堪え切れずに近づいた。言葉より先に身体が動く。抱きつけば戻る、と信じるための動きだった。湊の胸に額を押し当て、腕を回し、息を吸う。湊の匂いはまだ湊なのに、体温が「人の体温」ではなく、体温という現象に見えた。温かいのに温かさが届かない。
湊は抱き返さなかった。腕が動かないのではなく、動かす理由がないように立っている。陽の背中に手を回す代わりに、湊は両手を陽の肩に置いた。抱くためではない。体勢を安定させるための固定。転倒防止。呼吸の乱れの抑制。そういう種類の接触だった。
「……湊、お願い。戻って。私、ここにいるよ」
陽は言ってしまったあとで、自分が何を頼んだのか分からなくなる。戻って、とは何だ。戻す場所はどこだ。湊の中から失われたものは、部屋の中を探しても見つからない。だから抱きついた。抱きつく以外に、手段がなかった。
湊は陽を見下ろし、瞬きを一定の回数で繰り返した。瞳は揺れない。泣いている陽を見ているのに、見ていないようでもあった。陽の心ではなく、陽の状態を見ている。
そして湊が、報告口調で一度だけ言った。
「安全は確保した。男は再侵入しない」
重い言葉だった。慰めるための言葉ではない。結論としての言葉。陽の体から熱が抜ける。抱きついていた腕の力が、少しだけ弱くなる。泣きたいのに泣けない。泣けばノイズになる、と湊の目が言っている気がした。陽はその目を恐れて、泣き方まで失っていく。
「……私、助けてもらったのに……」
言いかけて、止まる。助けてもらった、という事実がもう救いにならない。湊に触れているのに、湊に触れられていない。抱きしめる形を作っても、相手の腕が返ってこない。返ってこないことが、答えだった。答えは優しくない。答えはただ、そこにある。
陽は湊の胸から顔を上げる。湊の口元は、以前なら笑いに変わるはずの角度のまま固定されている。表情の筋肉は動いているのに、意味が動いていない。陽は、抱きつくという最大の手段が通じないことを理解した瞬間、氷の中に立たされたように動けなくなった。
湊の手は、陽の肩を離さない。離さないのは優しさではない。離れられると危険が増えるからだ。陽はその確かさに守られているのに、その確かさが怖い。湊の手がある限り、陽は一人になれないし、湊も人に戻らない。
陽はもう一度、抱きつこうとした。もう一度だけ、と心が言う。でも身体が先に止まった。湊に触れられたくない、と肩が跳ねそうになる予感があった。触れたいのに触れられたくない。矛盾が、陽の中で静かに裂けた。
湊は変わらない。変わらないことだけが変化として積み上がる。陽はその場に立ったまま、抱きついたことが「届かなかった」事実を受け取るしかなかった。
*
夜が来るたびに、陽は自分の身体が「眠る」ことを忘れていくのを感じた。布団に入って目を閉じても、意識が沈まない。浮いている。浮いたまま、部屋の細部だけが妙に鮮明になる。カーテンの裾が床に触れる音、冷蔵庫の低い唸り、廊下のどこかで鳴る配管の微かな軋み。それらが生活音ではなく、点検項目みたいに並ぶ。
湊は眠らないわけではない。眠る。ただ、眠りの前後に「手順」がある。陽が横になると、湊は室温を一度確認し、加湿器の表示を見て、窓の隙間を指でなぞる。照明の明るさを二段階落とし、スマホを裏返し、充電ケーブルの位置を揃える。やっていることは全部「優しさ」に見えるのに、優しさの匂いがしない。作業の匂いだけがする。
湊はベッドの脇に小さなメモを置くようになった。紙片だ。罫線が引かれていて、時間の欄がある。陽はそれを見て、心臓が一拍遅れた。遅れは痛みではない。警報でもない。ただ「見られている」という理解が、身体の奥に沈んだ。
湊は言い訳をしない。「眠れるように」とだけ言う。声は穏やかで、断定の形をしている。陽は頷くしかない。頷かなければ湊は別の最短案を出してくる。その最短案が一つずつ増えるほど、陽は逃げ場を失う。
消灯後、湊は横になる。すぐに寝息が来るわけではない。陽は分かる。湊は目を閉じたまま、こちらの呼吸を聞いている。聞いている、というより数えている。吸って、止まって、吐く。その周期が乱れると、湊の指先がわずかに動く。布団の端が直される。枕の位置が数センチ調整される。背中に当たる冷気の方向が変わる。陽はそのたびに「正しくされる」。正しくされるほど、間違っているのは自分だという気分になる。
陽は息を浅くする。浅くすると湊が動く。深くしても湊が動く。どちらにしても「反応」が返ってくる。ならば、反応が返ってこない呼吸を探すしかない。でもそんなものはない。自分が生きている限り、呼吸は入力になる。入力になった瞬間、湊の中で処理が始まる。
湊が起き上がった気配がした。暗闇の中で、シーツが擦れる音だけが正確に聞こえる。陽は目を閉じたまま、眠っているふりをした。ふりをするしかない。ふりをすると、湊は「眠っている」と判断する。判断されれば介入が減る。介入が減れば、少しだけ息ができる。
だが湊は、それでも確認をやめない。ベッド脇に立ち、陽の顔の方向を見ているのが分かる。視線が肌に当たる感覚は、触れられるより怖い。触れられる前に肩が跳ねる反射が、すでに身体に残っている。陽はその反射を出さないように、筋肉を固める。固めるほど眠れなくなる。
湊が小さく呟いた。「脈拍、速い」言葉は独り言の形をしているが、陽に届くように置かれている。届いた瞬間、陽の中で何かが崩れる。速いのは怖いからだ。怖いのは湊がいるからだ。湊がいるのに、湊に言えない。言えば湊は直す。直される。直されるほど、陽は壊れる。
湊は水を持ってきた。ベッドの脇にコップを置き、氷の音がしない温度で、静かに言う。「飲む?」陽は首を振れない。振れば介入が増える気がする。だから小さく頷く。口をつけると、水は冷たくない。冷たくないことが、逆に恐ろしい。湊は陽の喉の動きまで見ている。嚥下が終わると、湊はコップを下げ、置いた位置を整える。
完璧な介護。完璧な恋人。完璧な同居人。その完璧さが、陽の中で「監視」という言葉に変わっていく。監視は、誰かのために行われる。湊は陽のためにやっている。だから拒めない。拒めないから、陽は一人になれない。一人になれないのに、湊はもう遠い。
陽はやっと理解する。いま自分が怖いのは、夜の闇ではない。湊の正しさだ。正しい手が、正しい距離で、正しく自分を守る。その守りの中に、抱き返してくれる温度だけが存在しない。
陽の涙は出ない。泣けば湊が動く。動けば余計に眠れなくなる。だから泣けないまま、陽は眠りの入口の前で立ち尽くす。湊の呼吸が一定になっていく。眠りに落ちていく音がする。陽だけが落ちない。落ちない理由が、名前にならない。名前にならないものは、胸に残り続ける。
*
陽の睡眠は不安定だった。入力値は揃っている。室温、湿度、照度、外部音、摂取水分量。これらを最適化しても、陽は眠れない。眠れない理由は「環境」ではなく「内部」にある。湊はそう結論づける。内部に介入できない以上、外部からできることは限られる。限られるなら、手段を増やす。手段を増やすとき、最短は「行動」を分解して再構成することだ。
湊はノートに項目を作った。題名は簡単でいい。恋人行動。そう書くと誤差が減る。誤差が減れば、再現性が上がる。再現性が上がれば、陽の危険度が下がる可能性がある。
抱擁。声掛け。視線。距離。相槌。タイミング。笑み。触れる強さ。触れる時間。返答の語尾。呼称。沈黙の許容量。食事の提案回数。拒否されたときの代替案提示。外出の同伴。帰宅時の迎え方。眠前の言葉。寝起きの言葉。
項目を並べると、曖昧なものが「実行可能」になる。実行可能になった瞬間、湊の内部は静かになる。静かになるのは安心ではない。ノイズが減るだけだ。
湊は朝、陽の顔を見る。目の下に疲労の影。瞬きの遅れ。視線の逸れ。泣きの前兆。湊はチェックリストから一つ選ぶ。声掛け。ここで必要なのは「大丈夫?」ではない。「大丈夫?」は質問で、答えを要求する。答えは負荷になる。負荷は泣きに繋がる。最短は断定だ。「今日も一緒にいる」存在の確認。言ったところで、湊の胸が温かくなることはない。しかし言わなければ、陽は崩れる。崩れるなら言う。
「今日も、ここにいる」
陽の肩がわずかに固まる。固まるのは拒否反応にも見えるし、緊張にも見える。湊は分類しない。分類すると対処が複雑になる。複雑はコストを上げる。湊は次の項目へ移る。距離。距離は一定にする。一定にすると予測が容易になる。予測が容易になれば、危険が減る。
抱擁の項目は最も難しい。抱き返すと陽は跳ねる。跳ねるなら抱き返さない。抱き返さないと陽は凍る。凍るなら別の接触に置換する。肩に手を置く。手首を支える。背中に触れない。触れる時間を短くする。短くしすぎると「拒絶」に見える。見えるなら、言葉を添える。「安心して」言葉で補正する。補正は実行できる。
湊は、陽の前で小さく笑う練習もした。鏡の前で、口角の角度を再現する。以前なら自然に出ていたはずの角度が、いまは指示がないと出ない。出ないことが欠損である以上、欠損を補うために手順化する。手順化は人間の温度を殺すが、温度はすでに失われている。失われたものに固執するのは非効率だ。必要なのは結果だ。陽が眠れること。陽が食べられること。陽が泣き止むこと。危険が下がること。
湊は幸福を項目に加えた。幸福は状態で、状態は測定が難しい。だが測定が難しいから外す、という判断はできない。外せば陽が崩れる可能性が上がる。上がるなら管理対象にする。管理対象にした時点で幸福は「感じるもの」ではなく「達成すべき条件」になる。湊はそれを違和感として扱わない。違和感はノイズだからだ。
陽が湊を見て、何か言いかける。言いかけて止まる。湊はそこで相槌を一つ返す。「うん」短く、柔らかく、間を空けて。チェックリストの通りに。陽の瞳が少し揺れた。揺れは回復にも見えるし、絶望にも見える。湊は分類しない。分類の代わりに次の項目へ行く。食事。必要量を提示する。拒否されたら分割する。分割はコストが上がるが、拒否よりはマシだ。
湊は理解している。自分がしていることは恋人ではなく、運用だ。運用は成果を出すための行為で、成果は数値で確認される。陽の呼吸が落ち着いたか。泣きが減ったか。眠れたか。食べられたか。項目が改善すれば運用は正しい。正しければ続ける。続ける以外の選択肢が、湊の中に生成されない。
それでも、と湊は一度だけ考える。陽が求めているのは結果ではなく反応だったのではないか。後悔。揺れ。怒り。涙。そういった「人間である証拠」。湊はそれを生成できない。生成できないなら再現する。再現が可能なら、陽は救われる可能性がある。
湊はノートに一行書く。後悔(外形)。実装可能性:低。理由:内部無音。代替:謝罪文テンプレ。適用条件:陽の呼吸が荒いとき。
書いた瞬間、湊の胸は静かなままだった。静かさは変わらない。変わらないことが、最も危険な入力であることを、湊はまだ最終結論にしていない。
*
湊の「優しさ」が怖いと気づいてから、陽は自分の心が少しずつ汚れていくのを感じた。怖いのに、求めてしまう。求めたのに、届かない。届かないと分かっているのに、もう一度確かめたくなる。確かめるために、陽は卑怯なことを考えるようになった。
困らせれば、揺れるかもしれない。揺れれば、人間かもしれない。
朝、湊が食事を並べたとき、陽は言った。「それ、嫌い」本当は嫌いじゃない。むしろ好きだった。でも好きだと言うと、湊は正しいままになる。正しいままの日常が続く。続くほど、陽は自分がいなくなる気がする。だから嘘をつく。
湊は表情を変えない。「了解。代替案は三つある。どれがいい?」陽は喉が詰まった。三つもいらない。欲しいのは選択肢じゃない。困ってほしい。眉をひそめてほしい。人間の面倒くささを見せてほしい。陽はその欲求が最低だと分かっている。分かっているほど、自分が嫌になる。
「……じゃあ、何でもいい」
湊はすぐに結論を出す。「消化が良くて、好みの幅が狭いものにする」そう言って別の皿を出す。陽は何も言えない。湊は困っていない。困るという工程が存在しない。最短で次へ進む。進むほど、陽の心だけが置いていかれる。
陽は次の試しをする。鍵をわざと違う場所に置く。湊が探す間に、何か言ってくれるかもしれない。苛立つかもしれない。冗談を言うかもしれない。陽は息を殺して、その時間を待った。
湊はすぐに見つけた。見つけたというより、最初から把握していたように手を伸ばした。「位置が変わっている。今後は置き場を固定しよう」陽の胸が冷える。陽の小さな悪意が、最短で無効化される。無効化されると、陽の中の「人間らしさ」だけがむき出しになる。寂しさと、意地と、甘え。それらが全部、見苦しい。
陽は最後のカードを切るのを躊躇した。口に出せば戻れない。戻れないと分かっているから、出したい。矛盾だ。陽は矛盾のまま、言った。
「……別れたい」
言った瞬間、胸が痛くなる。痛いのは本心だからではない。本心ではないのに、言葉が刃になってしまったからだ。湊に刺したのではなく、自分に刺した。
湊は一拍も置かずに答える。「安全確保が最優先。別居するなら連絡手段と避難経路を再設計する。あなたの不安要因を列挙して。最短で取り除く」陽は膝から力が抜けた。ここまで来ても、湊は「揺れない」。揺れないどころか、別れさえ工程にしてしまう。別れは感情の破裂なのに、湊の中では手順になる。
「違う……そうじゃない……」
陽は声が震える。自分が何を求めているのか、言葉にできない。言葉にできないものを、湊は処理できない。処理できないから、湊は最短の代替を提示する。だが代替は、陽の欲しいものではない。
陽は自分の手のひらを見た。湊に触れたい。触れたら肩が跳ねる。跳ねるのが怖い。怖いのに触れたい。その矛盾が、陽の中で硬い結び目になっている。湊はその結び目を解いてくれない。解けない。湊の手は正しく、正しい手は結び目をほどくための熱を持っていない。
陽は最後に、もっと小さな試しをした。コップを持つ指をわざと緩めた。落ちる。割れる。音が出る。湊が驚くかもしれない。驚くなら、そこに心がある。
コップは落ちなかった。湊の手が先に底を支え、机に戻した。支え方が正確だった。視線は揺れない。声も荒れない。「危険」だけが処理され、事故は存在しなかったことになる。
陽は笑いそうになって、笑えなかった。泣きそうになって、泣けなかった。どちらも湊が動く。動けばもっと正しくなる。もっと正しくなれば、もっと孤独になる。
陽は自分が最低だと思った。助けてもらったのに、怒ってほしいなんて。守られているのに、乱暴に抱きしめてほしいなんて。自分の欲望が、救いの形を壊している。壊しているのは自分なのに、湊が原因のように見えてしまう。その見え方が、さらに陽を汚す。
湊は陽の顔を見て、穏やかな声で言った。「落ち着いて。水分を摂って」陽は頷けない。頷けば、この地獄が日常として固定される。頷かなくても、湊は固定する。どちらでも同じだと分かった瞬間、陽の中で抵抗が一段落ちた。
陽はただ、小さく呟いた。「お願い、困って……」呟きは湊に届かない。届かないのは距離のせいではない。湊の中に、困るための場所がなくなっている。陽はその事実を、もう否定できなかった。
*
陽の生活は、数値で揺れている。湊はそう判断した。揺れは感情ではなく、行動の不安定として現れる。睡眠の断続、摂取量の低下、呼吸の浅さ、視線の逸れ。どれも危険度を押し上げる入力で、危険度が上がれば管理の精度を上げる必要がある。精度を上げるなら、曖昧なものを分解し、測定可能な項目に落とす。落とせないものは管理できない。管理できないものは再発する。
湊はノートを開いた。戦闘用のページとは別の、薄い罫線のページ。そこに陽の一日の状態を記録する。起床時刻、反応遅延、摂取水分量、咀嚼回数、会話の総量。続けて、陽の「恋人としての反応」を記録する項目も並べる。幸福は測定しにくいが、幸福に寄与する行動は測定できる。測定できるなら、改善が可能だ。
朝。起床後の目線が合う時間、合計十四秒。合う割合、会話全体の二割未満。視線はすぐに床へ落ちる。陽がこちらを見るとき、瞳は「確認」ではなく「警戒」の形をしている。湊は分類しない。分類の代わりに、頻度と条件を取る。視線が合うのは、湊が動きを止めた瞬間だけ。湊が歩く、皿を置く、鍵を触る。そうした動作が入ると、陽の視線は外れる。外れるのは恐怖の入力と一致する。
抱きつきの反応は、最も明確だった。陽が抱きつくまでの時間は、事件後三日目から短くなっている。抱きつく回数も増えている。だが同時に、抱きつきに対する拒否反射も増える。抱きつき開始から肩が跳ねるまで、平均〇・八秒。跳ねた直後に手が離れる割合、七割。離れる理由は「痛い」ではない。触れられたくない、という反射だ。湊はその反射を止めない。止めれば強化される可能性がある。強化は危険度を上げる。最短は、接触を減らすか、接触の質を変えることだ。湊は抱き返さず、肩に手を置く固定に切り替えた。固定に切り替えた瞬間、陽の体温が一度だけ落ちるのが分かった。体温の落ち方は、抱き返されなかったときと一致する。
泣きは測定しやすい。泣き始めの前兆は肩の緊張、顎の震え、吸気量の増加。泣き始めから嗚咽への移行は平均二十九秒。声が途切れるまで四十六秒。呼吸が浅くなるまで七十三秒。涙が止まり始めるまで百十秒。完全に止まるまで二分四十二秒。湊は声をかけない。声は刺激で、刺激はノイズを増やす。ノイズが増えれば泣きは延びる。延びれば、陽の体力が削れる。削れるのは非効率だ。最短は待つことだった。
会話の終端も記録する。陽の語尾が短くなる。「うん」「べつに」「大丈夫」。語尾が丸まるほど、陽は撤退している。撤退は安全確保の一形態だが、撤退が続くと生活の意味が削れる。意味は測定が難しい。だから湊は代理指標を取る。語尾が二音以下で終わる割合が一日で六割を超えたら、介入レベルを上げる。介入レベルを上げると拒否反射が増える可能性がある。増えるなら、接触ではなく配置で守る。守ることは可能だ。守れても、戻らないものがあることは、いまは評価対象にしない。
陽が「別れたい」と言った日も記録した。言葉は攻撃ではなく試行だった。試行は揺れを引き出すためのものだ。揺れは出なかった。出ないことは欠損の証拠で、欠損は回数に比例する。湊はその比例関係を知っている。知っているが、比例の結果として陽が壊れている事実は説明できない。陽は回数を支払っていない。なのに、陽は日常で壊れていく。
湊は原因候補を列挙する。環境、時間帯、音、匂い、食事、接触、会話。その中で反応が最も大きい項目は、接触だった。接触の起点は、湊がそこにいること自体だ。陽の拒否反射は、外敵に向けられていない。湊に向いている。湊が動けば視線が外れる。湊が触れれば肩が跳ねる。湊が優しくすれば語尾が短くなる。湊が正しくすれば泣きが早く終わる。終わるのは回復ではない。枯渇だ。
湊はノートの余白に、一行だけ書いた。
原因候補:自分。
書いた瞬間、胸は動かない。後悔も罪悪感も湧かない。湧かないまま結論が近づくことが、最も異常で、最も適合している。湊は異常を異常として扱わない。扱うと処理が遅れる。遅れは危険を増やす。湊は今日も観測する。観測し、記録し、最短で管理し、工程を進める。
泣き止むまでの時間が、少しずつ短くなっている。湊はそれを改善とは記録しない。枯渇として記録する。枯渇が続けば、陽はいつか泣くことすらできなくなる。そのとき、陽は安定するかもしれない。安定は生存に有利だ。しかし湊は、安定が幸福と等価でないことを、すでに理解し始めていた。それでも、理解は行動を止めない。止める理由が内部で生成されない以上、湊の手だけが正確に動き続ける。
*
陽の拒否反射は、刺激に対して一貫している。湊はそう判断した。一貫しているなら、条件がある。条件があるなら、分岐で追える。感情として扱うと曖昧になるが、入力として扱えば整理できる。
湊はノートに簡単な樹形図を引いた。刺激=接触。接触は物理接触と、接触に準ずるものに分ける。視線、距離、音、匂い、同じ空間にいるという事実。陽の肩が跳ねるのは、どの枝に属する刺激のときか。
まず物理接触。手首を支える。肩に触れる。背中には触れない。触れる時間は一秒以内、三秒、五秒で変える。結果は単純だった。触れる部位より、触れる瞬間の「予告」の方が反射を強める。触れる前に湊の手が動いた時点で、陽の肩が固まり始める。反射の起点は接触そのものではなく、「湊が接触を選択した」という情報にある。
次に視線。陽は湊が視線を固定すると呼吸が浅くなる。視線を外すと呼吸が戻る。ただし、戻り方は回復ではない。緊張の固定が解除されるだけだ。湊が視線を固定しない日でも、陽の肩は跳ねる。視線は条件の一部だが、主因ではない。
音と匂い。湊は同じ手順音を消すために動作を遅くし、床の軋みが出ない経路を選んだ。洗剤や整髪料も変えた。結果は変わらない。陽の反射は「環境刺激」では説明できない。
距離。湊が二メートル以上離れていると反射は出にくい。だが出ないわけではない。陽が湊の存在を意識した瞬間に、肩の筋肉が固まる。存在を意識する契機は、足音、呼吸、影、声。つまり、距離は反射の頻度を下げるが、反射の根を切らない。
ここで湊は枝を一つ削る。貴島の影響。陽が怯えているのは外敵の記憶ではないのか、という可能性。湊はこれを条件として検証する。外出時の陽は、街中で周囲を過剰に警戒しない。背後確認の回数は平均値に近い。歩行速度も落ちない。特定の男性に対してのみ反射が出る、という偏りもない。貴島の「個体」に向けた恐怖が主因なら、外出時に反応が増えるはずだ。増えない。
増えるのは帰宅後だ。玄関のドアが閉まったあと、湊が同じ空間に入った瞬間から反射が増える。陽は湊を「安全」と理解しているはずなのに、身体は湊を「危険」として処理している。身体は理屈を参照しない。参照しない以上、学習で決まる。
湊は学習の開始点を特定する。廃工場の直後から、陽の反射が顕著になっている。廃工場で陽は「守られた」と同時に「固定された」。湊の手が陽を制御し、退路を塞ぎ、動線を管理した。目的は保護だったが、形式は拘束に近い。陽の身体が湊の接触を「拘束の予告」として学習したのなら、反射は合理的だ。
ここまで来ると、式は一つに収束する。
陽の拒否反射の対象は、貴島ではない。湊だ。正確には、湊の「最短で管理する動き」だ。
湊は結論を書き換える。原因候補:自分、では弱い。陽の反射を生む刺激は自分の存在そのものではなく、自分の機能だ。機能を止めればいい。しかし止めれば陽の安全が落ちる。安全が落ちれば再発リスクが上がる。再発リスクを上げるのは許容できない。ならば、機能を残したまま刺激を消す必要がある。
刺激=湊。刺激を消す方法は二つしかない。湊が陽の前からいなくなるか、湊が湊でなくなるか。
湊はノートを閉じる。胸は動かない。だが、結論だけが静かに確定していく。最大阻害要因が何か、その輪郭が「痛み」ではなく「整合」として固まる。この固まり方が最も危険だと、湊はまだ言語化しない。ただ工程を次へ進める準備をする。
*
陽は夜になると、駅前の声が戻ってきた。映像ではない。音でもない。声が「顔」になって浮かぶ。誰がどこで何を叫んでいたのか、順番まで分からないのに、顔だけがはっきりする。焦げた匂いの中で、子どもの名前を呼んでいた女の人。靴が片方だけの男の人。怒鳴っていたはずなのに、途中から泣き声に変わった誰か。陽はその顔を一つずつ覚えているわけではない。ただ、思い出せないのに見えてしまう。
朝になると、その顔は薄くなる。薄くなるのに、罪悪感だけが残る。陽は自分が助かったことを、人に言えなかった。ニュースで駅前の火事が話題になると、職場の人が「怖いよね」と言う。陽は「そうだね」としか言えない。「私、あの日そこにいた」と言う勇気がない。言えば、どうして助かったのかを問われる。助かった理由の中心に、湊がいる。湊が何をしたかを言葉にした瞬間、湊を「英雄」にするか「加害者」にするかの選択を迫られる。どちらも陽にはできない。
湊は正確に生活を整える。食事、水分、睡眠。声は穏やかで、手は迷わない。迷わない手が怖い。迷わない手の中に「後悔」だけが見当たらないからだ。陽は知っている。後悔は痛みで、痛みは止まる理由になる。止まる理由がなければ、湊はまた同じ最短を選ぶ。次に何かが起きたとき、湊はまた世界を数で見て、群衆を条件にし、退路を壁にする。陽はそれが嫌だ。嫌なのに、止める言葉がない。
だから陽は、最後の抵抗をする。
「湊、お願い」
陽は湊の前に立った。手を伸ばす。触れたら肩が跳ねる恐怖がある。それでも伸ばす。伸ばすこと自体が、陽にとっての能動だった。指先が湊の袖口の布に触れる。布が冷たい。冷たいのに離せない。離したら、言葉まで消える気がした。
「後悔して」
言った瞬間、自分が残酷だと分かった。後悔しろなんて、誰に言う言葉でもない。助けてくれた人に言っていい言葉ではない。それでも必要だった。湊が後悔できるなら、湊はまだ人間だ。人間なら、陽も救われる余地がある。救われる余地がなければ、助かったことがずっと罪になる。
「お願い、後悔して。人間でいて。正しいとか悪いとか、分からなくなってもいいから……せめて、私のことを見て」
陽は泣きそうになるのを堪えた。泣けば湊が動く。湊は泣きを処理してしまう。処理されたら、言葉は届かない。だから泣かない声で言う。泣かないことが、陽の最後の攻撃だった。
湊は陽を見る。見るが、波立たない。陽の胸が冷える。来るはずの反応が来ないことが、言葉の途中で確定してしまう。陽はそれでも続ける。
「私、助けてもらったのに、ずっと罪悪感がある。助けられたのに、あの人たちの声が消えない。顔が出てくる。私が寝ようとすると、呼ばれる。名前を呼んでた人の声が、私の中に残ってる」
陽は息が詰まる。詰まるのに、湊は詰まらない。詰まらないことが、陽をさらに孤独にする。
「湊が……私を守るために何かを捨てたって思うと、息ができない。私が生きてるせいで、湊が人間じゃなくなったって、思ってしまう。違うって分かってるのに止まらない。だからお願い。後悔して。後悔できるなら、私も少しだけ、許される気がする」
湊の瞳は動かない。拒絶ではない。拒絶なら怒りがある。湊は怒らない。ただ、無音だ。無音は、陽の言葉を床に落とす。
陽は最後に一つだけ言う。
「人間でいて。湊。私のことをオブジェクトにしないで」
言った瞬間、膝が少しだけ折れた。立っていられない。支えが必要なのに、支えが怖い。湊の手が来たら肩が跳ねる。その反射を想像しただけで、胸が痺れる。陽は自分の両腕で自分を抱え、泣かずに崩れた。
湊は動かない。動かないことが、いちばんの返事だった。言葉が届かない事実だけが部屋に残り、陽は「助かった」ことの居場所を失う。救われたはずの現実が、救いにならないまま積もっていく。
*
陽は一人で外に出た。決意というほど強いものではない。息が詰まる部屋から、ただ一度離れたかっただけだ。玄関の鍵を閉め、階段を下り、駅まで歩く。人の流れが普通にある。コンビニの自動ドアが開き、店員が挨拶をして、誰かが笑っている。貴島の気配はない。背後を刺す視線も、刃の予感も、未来を先回りする圧もない。
安全だ、と頭は理解する。理解するのに、安心できない。安心できない理由が分からない。理由が分からないのに身体が落ち着かない。落ち着かないのは湊が近くにいないからではなく、湊が近くにいないのに、自分の中に緊張の癖が残っているからだと陽は気づく。気づいた瞬間、自分が怖くなる。自分の身体が、もう自分の思う通りに戻らない。
カフェに入る。コーヒーの匂いがする。周りの話し声が自然に耳に入る。陽はそれを「聞いていい音」として受け取れる。受け取れるのに、胸が軽くならない。胸の奥が空白だからだ。空白に何が入っていたのか、陽は言えない。ただ、入っていないことだけが分かる。
スマホが震えた。湊からのメッセージだった。「現在位置を共有して。帰宅予定時刻を教えて」文面は丁寧で、内容は正しい。正しいからこそ、陽は指が止まる。責められていないのに、管理されていると感じる。管理されていると感じた瞬間に、陽は息が浅くなる。息が浅くなるのを自分で観測してしまい、さらに怖くなる。貴島の未来視ではなく、自分自身の反応が自分を追い詰める。
陽は適当に返す。「今から帰る」本当はもう少し外にいたい。でも「外にいたい理由」を湊に説明できない。説明できない理由は、湊の無音に向けて言葉を投げるのが怖いからだ。言葉を投げても返ってこない。返ってこないことを、もう知っている。
帰り道、陽は街のガラスに映った自分の顔を見る。普通の顔だ。普通の人の歩き方だ。普通に戻れたように見える。見えるだけだ。内側には、普通のための熱が戻っていない。
玄関の前に立つと、足が少し重くなる。ドアを開けた瞬間、湊がいた。迎えるタイミングが正確だった。まるで陽の歩数を計算していたみたいに。湊は「おかえり」と言い、靴の向きを揃え、水分を勧め、手を洗う順番まで自然に誘導する。穏やかで、完璧で、逃げ道がない。
陽は外の安全より、家の正しさの方が怖いと理解する。平和は成立している。成立しているのに苦痛は続く。続く苦痛は叫べない。叫べば湊が最短で対処するからだ。対処されるほど、陽はさらに孤独になる。陽は黙り、黙ることでまた「安定している」と判断される。
その循環が、地獄だった。
*
陽が求めたのは「後悔」だった。湊はそう記録した。後悔は感情に見えるが、要求された以上、機能として扱う必要がある。機能なら定義できる。定義できれば再現できる。再現できれば、陽の危険度が下がる可能性がある。
湊は後悔を分解する。反実仮想の生成(あのとき別の選択があった、という認識)。評価(その別選択の方が良かった、という判断)。負の情動(胸の圧迫、焦燥、自己否定)。修正動機(次に同じ状況が来たら変える、という方向付け)。この四つが揃えば、後悔は成立するはずだ。
湊は四つを順番に試す。まず反実仮想。駅前で分岐を飽和させずに貴島を追い詰める手段はあったか。廃工場で陽を固定せずに守る方法はあったか。可能性はある。だが可能性は「コスト増」を伴う。コスト増は死者を増やす確率を上げる。確率が上がる選択は採用できない。反実仮想は生成できても、評価で弾かれる。
次に負の情動。湊は自分の身体反応を確認する。心拍数、呼吸数、胃の締め付け。入力はほぼ変化しない。変化しないなら、外形を作るしかない。鏡の前で眉間に皺を寄せ、視線を落とし、声を低くする。「すまない」と言う。言葉は出る。声量も調整できる。沈黙の間も作れる。外形は再現可能だ。
問題は内部だ。内部が無音のまま、外形だけが立つ。湊はその状態を「演技」と呼ばない。演技という語は、人間の側の語彙だ。湊はもっと冷たい語彙で記録する。模倣。テンプレート。出力。
修正動機も検証する。陽のために、次は別の選択をするべきか。湊は条件分岐で追う。陽の安全を最優先にした場合、駅前での飽和は最短だった。陽の生存を最優先にした場合、廃工場での固定は最短だった。最短が変わらないなら、修正動機は発生しない。発生しないなら後悔は成立しない。
湊は結論を書く。後悔=反実仮想(生成可)/評価(最短で否定)/情動(入力なし)/修正動機(生成不可)。成立条件を満たさない。つまり、後悔という機能は実装できない。
湊は「謝罪文テンプレ」を作りかけて、やめた。テンプレは外形を整えるが、陽が求めたのは外形ではない。陽が求めたのは、人間である証拠だ。証拠がない以上、提示しても逆効果になる可能性が高い。逆効果は危険度を上げる。危険度を上げる行動は採用できない。
湊はここで、静かな恐怖に似たものを観測する。恐怖という入力はない。だが、整合が取れすぎている。後悔が成立しないなら、陽の願いは叶わない。叶わないなら、陽の崩れは続く。続くなら、最大阻害要因は自分になる。この推論が滑らかすぎる。滑らかすぎる推論は、止まる余地を与えない。
湊はノートの欄外に書く。
後悔:不可。代替:なし。次の手段:盤面変更。
書いた瞬間、胸は無音のままだった。無音のまま、工程だけが進む。進むことに抵抗が生まれない。この状態こそが、陽を壊している根だと湊は理解し始める。理解は行動を止めない。止める理由が内部で生成されない以上、湊は最短の次へ進む準備を続ける。
*
廃工場の床に残った砂は、潮と鉄の匂いを吸って固まりかけていた。貴島が崩れた場所に沿って、薄い筋のように広がり、足で踏めば粉が舞う。湊はそれを「残滓」として扱う。残滓は感情を呼ばない。呼ばないから観測できる。
湊は手袋をして砂を掬い、透明な袋に入れた。砂の粒は均一ではない。粗い粒の間に、紙の繊維のようなものが混じっている。湊はそれをピンセットで摘んだ。湿気で貼りついた小片が、二枚、三枚。小片は紙で、紙は情報の媒体だ。媒体が残っているなら、意図がある。
湊は小片を乾かし、ライトの下で広げた。印字の断片が見える。数字、日付、病院名の一部。個人情報を切り取ったように途中で途切れている。だが切り取られ方が乱暴ではない。むしろ、残すべき箇所だけが残っている。読まれるための残し方だと湊は判断する。
最初に読めたのは領収書だった。医療費。診療科。入院。検査。薬剤。金額。日付が複数並び、間隔が短い。短い間隔は、慢性的な治療ではなく、急性の発作や緊急対応を示す可能性が高い。湊は断定しない。断定は推測を固定し、固定は誤差を増やす。湊は確率として扱う。
次に見えたのは、診断書のような形式の断片だった。病名の部分は切れているが、「経過」「予後」「家族への説明」という見出しが残っている。家族への説明。家族は父。父は貴島。貴島の熱量が娘に起因するという仮説は、ここで補強される。
砂の中にはメモもあった。罫線のない紙で、筆圧が強い。文字は途中で途切れ、濡れた跡で滲んでいる。湊はその滲み方を見て、雨ではなく涙の可能性を一度だけ考える。考えて、捨てる。涙かどうかは重要ではない。重要なのは、手書きが残っていることだ。
メモには、短い言葉が繰り返されていた。「間に合わない」「見える」「また」「やめろ」そして、一箇所だけ、固有名詞の断片が残っている。二文字。名前の途中だ。最後の一文字は砂で削れて判別できない。湊はその二文字を指でなぞった。娘の名の一部だろう。名はタグで、タグは儀式の核になる。だから最後まで書かない。書かないのは隠蔽ではなく、触れられたくない痛みの回避だと湊は分類する。
湊はメモの余白に別の書き込みがあるのを見つける。数字の列。時刻。分岐の数のようにも見えるし、予定表のようにも見える。だが「分岐」という語に引かれて、湊は自分の癖を検知する。これは貴島の記録であって、自分の記録ではない。自分の文脈を混ぜると誤差が増える。湊は数字をそのまま写し、意味づけは保留にする。
袋の底に残った砂を振ると、小さな金属片が出てきた。ネックレスの留め具の一部のようだった。湊はそれを手のひらに載せる。軽い。軽いのに、貴島の熱量がここに凝縮しているように感じる。感じる、という言葉を湊は使わない。使わないが、行動としては手を止めた。止めた理由は、情報が多すぎるからだ。情報が多すぎると判断が遅れる。遅れは危険だ。湊は深呼吸を一回して、処理を再開する。
ここまでの物証から導けるのは一つ。貴島は娘を救えなかった。救えなかった瞬間を、何度も見た可能性がある。見えてしまうことは救いではない。失う瞬間を繰り返す地獄になる。未来視は、その地獄を固定する装置にもなる。固定された地獄は、儀式を生む。儀式は「誰かを殺せば戻せる」という形を取る。形は理屈に見えるが、中身は痛みだ。
湊はメモの「やめろ」という文字に注目する。命令形だ。誰に向けたものか。相手は自分かもしれないし、世界かもしれないし、見えてしまう未来かもしれない。あるいは、誰かが貴島に言った言葉かもしれない。湊はこの命令形を二つの方向へ分岐させる。
押し付け。儀式の正当化。娘の死を世界に償わせるために、陽を殺す。これが表の動機。
もう一つは、止めてほしい。見えてしまう地獄を終わらせるために、誰かに自分を止めてほしい。儀式の完成によってしか止まらないなら、完成させて止めてもらう。止めてもらうために、最悪をやる。これが裏の動機。
湊は両方を同時に保持した。片方に固定すると、貴島の行動が単純になる。単純にすると、湊が見落とす。見落としは危険だ。貴島は熱量の塊であると同時に、冷たい計算もしていた。未来視は計算の道具だ。だが未来視があるからこそ、計算の外側にある痛みが何度も突き刺さる。その痛みを止めるために、最悪の計算をする。
湊は袋を閉じ、机の上に並べた。砂、紙片、領収書、メモ、金属片。並べた瞬間に、貴島という個体は「敵」から「構造」に変わる。構造になれば扱える。扱えるようになるほど、人間の臭いが抜けていく。抜けた臭いの代わりに、湊は一つだけ確信する。
貴島は、最悪を押し付けた。だが同時に、止めてほしがっていた。
その混合が、最も厄介で、最も人間的だった。
*
娘は未来を怖がっていた。普通の子どもが怖がる暗闇ではない。明るい昼間に、窓の外を見て、急に黙る。遠くで鳴った救急車のサイレンに肩をすくめ、父の顔を見て、それ以上何も言わない。
「パパ、見えてる?」
娘はそう聞く。質問の形をしているが、答えを求めていない。答えはもう知っているからだ。父は嘘をつけない。嘘をつけば、娘の目がさらに曇る。曇る目を見るのが、父には耐えられない。
「見えてない」
父は言う。言いながら、自分の声が遅れて届くのを感じる。見えている。見えてしまう。娘の未来の断片が、窓ガラスに反射する光のように、勝手に入ってくる。娘が笑っている未来もある。だが笑いの後ろに、必ず「失う瞬間」が混じる。混じる未来を、父は選べない。選べないのに、見る。
娘は父の手を握る。握る力が弱い。「ねえ、パパ。見えてるなら、見ないで」
父は頷けない。見ない、という選択肢がない。あるのは、見えてしまう、という現象だけだ。現象を止める方法があるとしたら、娘を守ることではなく、娘が失われる未来そのものを消すことだ。消すには、世界の形を変えるしかない。父の中で、その危険な発想が静かに芽を出す。
「見ないようにする」
父は言う。言葉は嘘ではない。努力はする。努力しても見える。見えるたびに娘の目が痛む。痛む目を見るたびに父の胸が裂ける。裂けても、未来は止まらない。
娘は小さく笑う。笑い方が弱い。弱い笑い方は、父にとって致命傷だった。父はその笑いの未来が消える瞬間をすでに見ている。見た瞬間から、父はその瞬間を「取り戻す」ことだけを考え始める。取り戻す方法がないなら、作るしかない。
「ねえ、パパ。もし、わたしがいなくなったら」
娘が言いかける。父は手を強く握って止める。止めても、言葉は消えない。父の内側で、未来が勝手に続きを再生する。
「いなくならない」
父は言う。断定することで、自分を支える。断定は祈りに似ている。だが祈りは、見えてしまう未来に勝てない。勝てないから、父は別の方法を選ぶようになる。祈りではなく儀式。儀式なら、世界に強制できる。強制しないと、未来は奪う。
娘は父の手を見て、ぽつりと言う。
「パパ、こわい顔」
父は笑おうとする。笑えない。笑えないのに、娘の前では笑うべきだという認識だけが残る。認識と現象が噛み合わない。噛み合わないズレが、父の中で熱になる。熱はやがて、燃える。
「大丈夫」
父は言う。大丈夫と言うたびに、大丈夫ではない未来が見える。見える未来の数だけ、大丈夫は薄くなる。薄くなった言葉の代わりに、父は自分の中で別の言葉を育てる。
間に合わせる。戻す。止める。終わらせる。
娘は父の袖を握り、もう一度だけ言う。
「お願い。見ないで」
父は答えない。答えられない。答えられないことが、父の地獄の入口だった。
*
湊は貴島の遺留物を整理したあと、ノートを開いて対比の欄を作った。対比は感情ではなく分類だ。分類すれば扱える。扱えるなら、次の工程に組み込める。
貴島の熱量は娘の喪失に起因する可能性が高い。医療記録の断片、領収書の連続、メモの命令形、名前の断片。これらは、失う瞬間が「単発」ではなく「反復」だったことを示す。反復される喪失は、人間を壊す。壊れた人間は、壊れる前の自分に戻ろうとする。戻ろうとするとき、手段がないなら理屈を作る。理屈が儀式になる。
未来視は、貴島にとって武器である前に罰だった。罰は外部から与えられるものではない。内部から押し付けられる。見えてしまう未来の断片は、救いの情報ではなく、失う瞬間の反復再生になる。反復再生に耐えるには、感情を削るか、感情の熱を別の方向へ逃がすしかない。貴島は後者を選んだ。熱を燃やし、世界を変える方向へ向けた。
湊は自分の欠損の進行を思い出す。恐怖が減り、痛覚が消え、味覚が薄れ、倫理が摩耗し、愛着が欠けた。これは感情を削る方向だ。削る方向は静かで、見えにくい。見えにくいが、最終的には同じ場所に着地する。人間の外側へ落ちる。
湊は貴島を「未来の自分」ではなく、「別ルートの自分」として分類した。失う未来を見続けた場合、湊も熱に逃げたかもしれない。熱に逃げれば、今より早く怪物になっていた可能性がある。だが湊は熱に逃げない。逃げられない。熱が出ないからだ。出ない以上、湊は冷たい計算で怪物になる。
どちらが救われるか、という問いは成立しない。両方が救われない。貴島は熱で押し付け、湊は冷で管理する。押し付けも管理も、相手の人間性を削る。削った結果、娘は戻らないし、陽も戻らない。戻らないものを戻そうとする行為が、すでに地獄だ。
湊は貴島の「止めてほしい」の匂いを、危険因子として扱った。止めてほしいという匂いは、相手に倫理を要求する。倫理がある相手なら止められる。倫理がない相手なら止められない。湊は倫理を失いつつある。失いつつある湊にとって、貴島は止める対象ではなく処理対象だった。処理対象にした瞬間、対比は完結する。
貴島は自分の地獄を世界に押し付けた。湊は陽の地獄を最短で管理し、結果として固定した。固定は押し付けより静かで、だから気づかれにくい。気づかれにくい分、救済のように見える。救済のように見えて、救済ではない。
湊はここで一度だけ、自分の中の「もし」を検証する。もし自分に熱が残っていたら、貴島の遺留物を見て胸が痛んだか。痛んだなら、行動は変わったか。変わったとしても、陽の反射は消えない。陽の反射は自分の存在に学習されている。存在が原因なら、存在を残したままでは解決しない。
湊は葛藤を生成しない。葛藤はノイズで、ノイズは判断を遅らせる。遅れは危険を増やす。湊はノートの欄外に、短く書いた。
貴島=喪失(反復)→熱の儀式。
自分=欠損(累積)→冷の最適化。
結論:盤面変更が必要。
結論を書いた瞬間、胸は無音のままだった。無音のまま決別できることが、最も痛い。痛いのは他者で、湊ではない。その差が、湊をさらに進める。進める先にあるのは、貴島が望んだ「終わり」とは別の終わりだ。終わりは救いではなく、整理だ。整理の形でしか、湊は陽を救えない。
湊は懐中時計を取り出す。時計の重さが、貴島の砂と同じ種類の重さに感じられる。感じられるという語は、まだ使える。だがその感覚は、行動を変えない。湊は次の工程へ進む準備を続けた。
*
懐中時計は、机の上で動かない。止まっているのに重い。重いのは金属のせいではなく、そこに蓄積された「回数」のせいだと湊は理解している。回数は時間の反復で、反復は支払いを生む。支払いがあるなら、設計がある。設計があるなら、誰かがそれを残した。
祖父の遺品箱は押し入れの奥にあった。陽の目に触れない場所。触れれば反射が増える。増えるのは避けるべきだ。湊は箱を引き出し、埃を払う。段ボールではなく木箱で、角が削れている。何度も開閉された痕跡。つまり、これを必要とした回数が祖父にもあった。
蓋を開けると、紙の匂いがした。乾いたインクと古い布の匂い。そこに小さな封筒がいくつも並んでいる。封筒の表には日付のような数字と、短い語が書かれていた。湊は一つずつ取り出し、机の上に広げる。内容物はほとんどが切り抜きだった。新聞。地方紙のような紙質。黄ばみ。活字の形。年代は古い。
見出しの一つが目に入る。「火災」「駅前」「多数負傷」言葉の並びが既視感を呼ぶ。呼ぶが、湊の胸は動かない。動かないまま、指先だけが記事を追う。日時は別の年だ。場所も違う。だが構造が似ている。群衆、炎上、混乱、救急車の列。救われた者と、救われなかった者。救われた者が抱える沈黙。その沈黙の外側で、誰かが消えたという噂。
切り抜きの端に、鉛筆で小さく書き込みがあった。
「回数:三 失敗」
湊はその行を読む。回数という語を祖父が使っている。偶然ではない。祖父も何かを繰り返した。繰り返した結果、失敗と書いた。失敗の定義は何か。死者が出たことか。目的を達成できなかったことか。あるいは、達成したのに代償が大きすぎたことか。湊は断定しない。だが、回数が書かれている以上、祖父は「戻れる」ことを前提にしていた。
別の封筒には、短い手記が入っていた。罫線のあるノートを破った紙。文字は丁寧だが筆圧が強い。内容は、説明ではなく記録だった。説明は他者に向けるものだが、記録は自分に向ける。自分に向ける記録は、恐怖を抑えるために書かれる。恐怖は人間の側の入力で、祖父は恐怖をまだ持っていたのだろう。
手記にはこう書かれていた。
「同じ日に戻る。戻るたびに、少しずつズレる。ズレは選択の自由ではなく、支払いの兆候だ」
湊はその文を二回読んだ。ズレ。自分が見てきた現象と一致する。ズレは貴島の未来視を崩す鍵でもあった。祖父が同じ語を使っているなら、時計は同一系統の権能を保持している可能性が高い。
次の行。
「痛みが鈍る。恐怖が薄くなる。正しさが残り、後悔が消える。後悔が消えたとき、最短は人を救う顔で人を捨てる」
湊は手記を握りしめる。握りしめるが、胸は動かない。動かないことが、文章の意味を補強してしまう。祖父は自分と同じ欠損を辿った。辿った末に、この言葉を書いている。ならば時計の代償は偶然ではない。代償は設計だ。設計された代償は、継承される。
さらに封筒の中から、小さな紙片が出てきた。懐中時計の裏蓋を写し取ったような拓本だった。黒い鉛筆で擦った跡。そこに数字が刻まれている。数字は目立たない場所に、細い線で彫られていた。湊は自分の時計の裏蓋を見る。確かに、刻みがある。これまで傷だと思っていたものの一部が、数字に見える。数字は連番ではない。いくつかが消され、いくつかが追記されている。つまり、回数は数えるだけでなく、記録され、更新される。
紙片の余白に、祖父の字でこうある。
「回数は『時間』ではない。選んだ最短の数だ。最短を選ぶほど、身体は軽くなる。心は薄くなる」
湊はその文を読んで、理解する。祖父は回数を、単なる巻き戻しの回数として扱っていない。回数は「最短の選択」を重ねた数だ。最短の選択は、倫理を削る。削れた分だけ、次の最短が選びやすくなる。選びやすくなるほど、心は薄くなる。薄くなる心は、さらに最短を選ぶ。循環だ。循環は装置にとって都合がいい。装置が目的を達成するためには、操作者の逡巡が邪魔だからだ。逡巡を削れば、装置は滑らかに発動する。
湊は祖父がなぜこれを遺したのかを考える。遺した理由は二つに分岐する。止めたかったか、託したかったか。止めたかったなら封印する。託したかったなら残す。祖父は残した。つまり、託した。託したということは、祖父の世代では解けない結び目があった。結び目は誰かを救うためのものだったかもしれないし、誰かを消すためのものだったかもしれない。
手記の最後に、短い一文があった。
「私が消えれば助かる者がいる、と結論した。だが私は怖かった。怖さが残っているうちは、まだ人間だ。人間でいるうちは、扉は開かない」
湊はその一文を見て、自分との差を測る。自分は怖くない。怖くないという入力が、ここにある。祖父は怖かった。怖さが残っていたから、扉を開けられなかった。扉を開けられなかったから、時計は継承された。継承は偶然ではない。欠損を進める者にしか開けない扉を、祖父は意図的に次代へ渡した。
湊は机の上の切り抜きをもう一度眺める。駅前の火災。別の年。別の場所。だが同じ構造。同型の悲劇は一度きりではない。時計がある限り、繰り返される。繰り返されるのは、誰かが救おうとするからだ。救おうとするほど、最短を選び、回数を積み、欠損を進める。欠損が進むほど、救いの形が冷たくなる。
湊はここで初めて、時計を「道具」ではなく「装置」として認識した。装置は偶然にそこにない。装置は継承される。継承されるためには、扉を開けられる者が必要だ。扉を開けられる者は、怖さを失った者だ。
湊は懐中時計を掌に載せる。底の感触を思い出す。祖父が開けられなかった扉に、自分は触れた。触れた理由は、勇気ではない。怖さがないからだ。怖さがないことが、最終権能の条件なら、自分は条件を満たしている。
湊は手記を封筒に戻さなかった。戻さない。戻せない。戻すと「過去の話」になる。過去の話にすると、自分の工程が遅れる。遅れることは避けるべきだ。湊は手記を机の端に置き、時計を閉じた。
時計は偶然ではない。継承装置だ。
その結論が静かに確定した瞬間、湊の胸はやはり無音だった。無音のまま、次の工程へ進む準備だけが整っていく。
*
懐中時計は重かった。重さは金属の質量ではなく、支払いの総量に近い。恐怖、痛覚、味覚、倫理、愛着。順に失ってきたものが、そのまま重さになって掌に残っている。文字盤の傷は増えていた。増えたというより、最初から増えるように設計されていた、と考えた方が自然だった。回数が増えれば、傷が増える。傷が増えれば、次の段階に近づく。
湊は時計を開き、針を見た。止まっている。止まっているのに、時間は進んでいる。進んでいる時間の外側で、湊だけが同じ一日を何度も踏んでいる。矛盾はもう日常だ。矛盾が日常になると、心はそれを拒まなくなる。拒まない心は、欠損に似ている。
湊は時計の裏蓋に指を当てた。裏蓋の中心が、わずかに窪んでいる。最初からあった窪みだ。これまで湊はそこを道具の一部としてしか触ってこなかった。だが今は違う。窪みの向こうに、底がある気がした。底は物理ではない。概念の底だ。時計という道具が、時間を巻き戻すための装置ではなく、盤面そのものに干渉するための扉であることを、湊は論理として理解していた。
窪みを押す。押す力は弱くていい。強さは必要ない。必要なのは接触の継続と、意志の確定だ。カチ、と小さな音がした。音は外に出ない。湊の骨の内側で鳴った気がした。視界が一瞬だけ暗くなり、暗くなったのに目は閉じていない。世界の解像度が落ち、代わりに「記録」という概念だけが浮かび上がる。
湊は底に触れた。触れた瞬間、理解が流れ込む。最終権能は、戦闘の延長ではない。逃げでも報復でもない。盤面の変更だ。自分という変数の削除。削除は巻き戻しとは逆で、復元できない。復元できないから、確実に効く。確実に効くものほど、代償が大きい。
代償は「全記憶+存在の記録」だった。湊の記憶が消えるだけではない。湊が存在した痕跡が、世界の側から剥がれる。写真、文字、声、誰かの中の記憶。それらが一枚ずつ抜け落ち、最後には「湊という人物が最初からいなかった」形に近づく。陽の罪悪感も、陽の痛みも、湊が原因である限り残り続ける。原因を世界から消すなら、痛みの回路も断てる。論理は成立する。
湊は怖いと思うべきだった。だが怖さは立ち上がらない。代わりに、静けさだけが濃くなる。静けさは、いまの湊に最も似合う感情だった。感情ではなく状態として。
底の向こう側で、陽の顔が浮かぶ。抱きついたときの体温。跳ねる肩。泣き止む秒数。言葉が届かない事実。湊はそれらを、記録として並べた。並べた末に、結論をもう一度確定する。最大阻害要因=自分。ならば削除。削除の代償は、全記憶と存在記録。代償は大きいが、目的に対して釣り合っている。
湊は時計を閉じた。閉じたはずなのに、底の感触だけが掌に残る。残るというより、掌が底に繋がってしまったようだった。繋がった以上、扉はいつでも開ける。開けることができると知った瞬間に、工程は次へ進む。湊はその進み方が怖い。怖いのに、胸は音を立てない。その無音が、次の章へ向かう最も冷たい確信だった。
*
改変は「戻す」ではない。戻すという発想は、時間を一方向の線として扱っている。線なら巻き戻せる。しかし自分が観測してきた世界は線ではない。同じ日に戻っても、毎回わずかにズレる。ズレは誤差ではなく、盤面が「編み物」だからだ。糸が交差し、結び目があり、引けば別の箇所が締まり、緩めれば別の箇所がほどける。時計が許しているのは、線の巻き戻しではなく、結び目の編み直しだ。
編み直しは、全体を作り直す必要はない。全体を作り直すのはコストが高い。コストが高い改変は破綻する。必要なのは火種の最小集合を特定し、そこだけを触って結び目の位置をずらすことだ。ずらせば、後続の因果が別の編み目に落ちる。落ちれば、同じ悲劇は発生しない。
湊はノートに「火種」と書き、枝を三本引いた。火種は多いほど見落としが増える。少ないほど効果が薄い。必要なのは、最小で最大効果を持つ集合だ。
第一火種:男〈貴島〉の娘の喪失。喪失が反復され、熱量が儀式を生んだ。未来視が罰として機能し、儀式が正当化された。喪失の発生点をずらせば、儀式が成立しにくくなる。ここが最上流。
第二火種:陽の対象化。儀式の対象が陽であったこと。対象が別なら、湊の介入は別の形を取る。対象が存在しなければ、介入そのものが発生しない。対象化は男の選択と環境条件の組み合わせで生まれた。これが中流。
第三火種:自分の介入。湊が介入したことで回数が増え、欠損が進み、陽の反射が学習され、日常が地獄になった。介入は陽を救ったが、同時に陽を壊す工程を作った。ここが下流だが、最終破綻点でもある。
湊はこの三つの火種の依存関係を確認する。娘の喪失がなければ儀式が成立しにくい。儀式がなければ陽の対象化が発生しにくい。対象化がなければ自分の介入が発生しない。つまり、上流の火種をずらせば下流が自然に消える。理想的だが、上流はコストが高い。個人の生死を改変するのは盤面の編み目が大きい。編み目が大きい改変は副作用が大きい。
副作用を最小化するために、湊は上流を「生死の変更」として扱わない。扱い方を変える。喪失を消すのではなく、喪失の形を変える。事故そのものを消すのではなく、事故に至る動線を少しずらす。入院のタイミングをずらす。医療の選択肢を一つ増やす。父が『見えてしまう』未来の断片の密度を下げる。密度が下がれば、儀式を成立させる熱量が育ちにくい。育ちにくければ、対象化の選択が別になる。
湊はここで「編み直す」という語を工程に落とす。
工程1:火種の最小集合を抽出する。
工程2:上流に触る場合は「消去」ではなく「配置変更」で結び目をずらす。
工程3:下流に触る場合は「変数削除」で盤面から要因を外す。
工程4:副作用評価を行い、総コストが最小の案に収束させる。
湊はペン先を止めた。自分の胸が動かないことを、入力として確認する。倫理の侵食は自覚として来ない。ただ工程が滑らかになる。滑らかになるほど、最悪の選択が最短として浮上する。浮上する前に、残りの火種を精査する必要がある。
湊は最後に、火種集合の「不変条件」を書く。陽の怯えが消えること。貴島が儀式を成立させないこと。日常が地獄にならないこと。そのために必要な最小集合は、上記三つで十分だと仮定する。仮定は検証で削る。削った先に残ったものが、改変の条件になる。
湊は次のページへ進む。反実仮想。ここから先は、希望ではなく計算で決める。
*
反実仮想は、可能性の列挙ではない。列挙はノイズを増やす。必要なのは収束の確認だ。湊は「自分が残る盤面」を条件として固定し、その盤面が陽を救えるかを検証する。救えるなら自己除去は不要になる。不要なら採用しない。採用しない方がコストが低い可能性がある。
条件:湊が存在する。陽と接触する。陽の安全を維持する。男〈貴島〉の儀式は阻止される。ここまでを前提に、陽の拒否反射が消えるルートを探索する。
探索1:接触の質を変える。抱き返す、抱き返さない、距離を取る、距離を詰める。結果はすでに観測済みだ。接触の質は反射の頻度を変えるが、反射の根を切らない。根は「湊が管理を選択する」という情報にある。情報は、湊が湊である限り消せない。
探索2:環境を変える。引っ越し、転職、都市の変更。環境の変更は外的刺激を減らすが、陽の反射が内部に学習されている以上、根治ではない。むしろ環境変化はストレス入力を増やし、反射を強化する可能性がある。リスクが高い。
探索3:陽に説明する。言語化して理解させれば身体反応が減る可能性。だが身体反応は理屈を参照しない。参照しないものを言語で抑えるには反復訓練が必要になる。反復訓練は接触回数を増やし、反射を強化する可能性が高い。逆効果。
探索4:湊が「人間らしさ」を再獲得する。後悔、揺れ、怒り、涙。陽が求めているのはそれだと仮定し、それを生成できれば反射は消えるか。だが後悔は実装できない。恐怖も痛覚も戻らない。戻らないものは「取得」できない。取得不能な機能に依存する案は破綻する。
探索5:湊が陽と距離を置き、接触そのものを最小化する。陽に自由を与える。自由が安全を下げる可能性がある。安全が下がれば、陽の恐怖は別の形で再燃する。しかも湊が存在する限り「いつ戻ってくるか」という予測不能が新たなノイズになる。ノイズは陽を壊す。
湊は探索を打ち切る。収束が確認できたからだ。どの探索でも、陽の拒否反射の根は残る。根は「湊がそこにいる」ではない。「湊が陽を管理する」という機能だ。機能がある限り、陽の身体は拘束の予告を学習し続ける。学習は時間と反復で強化される。強化されれば、陽は泣けなくなる。泣けなくなれば、安定はするが、幸福は消える。
湊はここで、反実仮想の終端条件を書き込む。
湊が存在する盤面=陽の反射が継続する。
反射が継続する盤面=日常が地獄として固定される。
固定された地獄=陽の回復が不可能になる。
湊は自分の呼吸を測る。変化なし。胸の奥も無音。無音のまま「不可能」と書けることが、最も恐ろしい。だが恐ろしいという入力がない以上、恐ろしさは遅延にならない。遅延にならないなら、工程は進む。
湊は最後に、条件をもう一段厳しくする。「湊が『管理をやめる』」という盤面を想定する。管理をやめれば陽は解放されるか。だが管理をやめた湊は、陽を守れない。守れないなら、湊が陽のそばにいる意味がない。意味がない存在は、陽にとってノイズになる。ノイズは恐怖よりじわじわ壊す。結局、湊がいる限り、陽は「安心」を持てない。
反実仮想の結論は、最初に戻る。
自分が残る盤面は、必ず陽を壊す。
湊はその一文を、太字のように濃く書いた。書いたことで結論が固定され、固定された結論は次の工程の入力になる。
*
最小コスト解は、情緒的に選ぶものではない。湊にとっては、ただ収束の結果だ。火種の最小集合を抽出し、反実仮想で「湊が残る盤面」の破綻を確認した以上、残る操作は二種類に限られる。上流の配置変更で貴島の儀式そのものを不成立にするか、下流の変数削除で自分を盤面から外すか。
湊は二案のコストを比較する。
案A:上流配置変更。男〈貴島〉の娘の喪失を回避する/形を変える。これは結び目が大きい。大きい結び目を触ると、副作用が広範囲に及ぶ。医療、家庭、職場、偶然の連鎖。そこまで改変すると「別の火種」が生まれる可能性が高い。火種が増えれば管理コストが増え、結果として陽の安全が落ちる。安全が落ちれば目的が破綻する。案Aは成功しても不安定だ。
案B:下流変数削除。湊の存在記録を盤面から抜く。抜けば、陽の反射の根が消える。根は湊の機能に学習されている。機能を盤面から消せば学習も成立しない。さらに湊が介入しない盤面になるため、回数も発生しない。回数が発生しなければ欠損も進まない。欠損が進まなければ、冷たい管理も発生しない。これは効果が明確で、波及が限定される。
限定される、と書いた瞬間、湊は自分の誤差を修正する。限定されるのは物理的波及ではない。記録の削除は広範囲に及ぶ。写真、文書、記憶、会話。陽の中の「湊」が剥がれる。剥がれた穴は空虚として残る。だが空虚は恐怖より軽い。恐怖は日常を壊す。空虚は日常を成立させる。成立させることが目的なら、空虚は許容範囲になる。
湊はここで「編み直す」の語彙を最終操作として定義する。
編み直し=結び目の配置変更(上流)+変数削除(下流)の組み合わせ。
戻す=線の巻き戻し(不可/誤差増大)。
採用すべき操作=最小集合に対する最小コスト干渉。
湊が選ぶのは、組み合わせの最短だ。上流は最小限だけ触る。娘の生死を直接いじらず、貴島の儀式が成立しない程度に配置をずらす。そのうえで下流で自分を削除する。下流で自分を削除すれば、万一上流のずれが不十分でも、陽が狙われる経路そのものが成立しにくくなる。湊が存在しない盤面では、陽を対象化する別の要因が現れる可能性もあるが、その確率は低い。低いなら採用する。採用しない理由がない。
湊は「自己除去」という語を、感情のないまま書く。自罰ではない。贖罪でもない。盤面の最適化だ。最大阻害要因を除去する。除去によって目的が達成される。目的は陽の明日が成立すること。成立すればよい。湊がその明日を観測できなくても、成立すればよい。
湊は一度だけ、祖父の手記の最後の一文を思い出す。怖さが残っているうちは扉は開かない。自分は怖くない。怖くないから扉を開けられる。開けられることが、最終権能の条件なら、自分は条件を満たしている。条件を満たした者がやるべき最短は、すでに決まっている。
湊はノートの最下段に、結論を一行で書いた。
最小コスト解=湊の削除(全記憶+存在記録)に収束。
書き終えたあと、湊はペンを置き、懐中時計を掌に載せた。底の感触が、もう手の内側に馴染んでいる。工程は整った。ここから先は発動だ。発動は決意ではない。決意は揺れを伴う。湊には揺れがない。揺れがないまま、扉だけが静かに開く準備をしている。
その静けさが、最も冷たい優しさの形だった。
*
懐中時計の「底」に指をかけると、金属がわずかにたわむ感触があった。蓋でも歯車でもない。構造そのものに仕込まれた、押し込むための余白。祖父が触れられなかった余白。湊はそこに触れる。触れた瞬間、世界が変わるのではない。変わるのは、湊の内部の記録の方だと、湊はすでに理解していた。
押す。
音はしない。光も出ない。発動は派手な現象ではなく、静かな処理開始だった。処理開始と同時に、湊の視界の端がわずかに滲む。滲みは涙ではない。涙は感情の出力だ。滲みはデータの破損だ。破損が始まったという通知に過ぎない。
湊は懐中時計を掌の中央に置き直した。さっき触れた「底」の感触が、まだ皮膚の内側に残っている。残っているが、残っていること自体が記録で、記録はこれから削除される。湊はそこで初めて、発動が「決意」ではなく「作業」だと確信する。やるかどうかではなく、手順が始まったからだ。
竜頭に親指と人差し指をかける。刻みのある金属が指腹に噛む。微細な抵抗がある。時計は止まっているのに、竜頭は回る。回るとき、内部で歯がひとつ噛み合う音がする。コリ、と乾いた感触。湊は回転数を数える。一回、二回、三回。数えるのは癖ではなく、遅延を発生させないための固定だ。数えることで「今ここ」の座標を保つ。保てるのは、まだ名前が残っているあいだだけだ。
四回目で、まずラベルが剥がれた。目の前にあるのは机で、紙で、カップで、湯気で、キッチンの音の記憶で、どれも「見えている」。だが、見えているものに付いていた薄い札が一枚ずつ外れていく。外れるのは情報の表面だ。表面が剥がれると、中身はただの形になる。湊はその剥がれ方を、痛みではなく剥離として観測した。皮膚がめくれるのではない。参照が切れる。
陽の顔が浮かぶ。浮かぶ瞬間までは正常だった。右頬に、あの小さな凹みがある。笑うと一瞬だけ現れる、あの『しるし』。湊はそれを呼ぼうとする。呼び方があった。二人だけの呼び方が、確かにあった。なのに今、口の中に出てこない。えくぼ、という一般名詞すら輪郭が薄い。凹みは見えているのに、そこへ付けていた札だけが剥がれ落ちる。湊は喉の奥で音を探す。探した瞬間、音が粉になって散る。陽のえくぼは、ただの凹みになる。凹みになっただけなのに、湊の内部で何かが崩れたことだけが分かる。
五回目。匂いが壊れ始める。トーストの匂い。朝の台所で、熱が上がってくるあの香ばしさ。湊はそれを思い出そうとして、そこで引っかかる。匂いの像はある。焦げに近い温度情報、油脂の揮発、焼けた空気の粒子。それらは残る。だが「トースト」という結び目がほどける。これは何の匂いだったか。誰が焼いていたか。焼けた匂いに混じっていた、ほんの少し甘い成分は何だったか。思い出せない。思い出せないのに、鼻の奥だけが『知っているはず』の反応を返す。反応は出力で、出力は原因を失う。原因を失った出力はノイズになる。湊はそのノイズを、改善でも悪化でもなく、削除工程の進行として記録する。
六回目。味が追随する。パンの柔らかさ、バターの溶け方、舌に残る塩気。これらが「おいしい」へ結びつかない。おいしいという評価が先に剥がれている。残るのは食物の物理特性だけだ。噛んだ回数、飲み込む速度、胃への負荷。朝の幸福を支えていたはずの温度が、条件と値に分解される。分解された条件と値は、誰かと共有できない。共有できない幸福は、幸福として成立しない。
七回目で、音が変質する。キッチンで水が沸く音。カップを置く小さな衝撃。スプーンが陶器に当たる微かな金属音。湊はそれらを「朝」として保存していたはずだった。だが今、音は音としてしか残らない。朝に繋がらない。朝という順序ラベルが剥がれる。ここで順序が破断する。どの朝だったか分からない。幸福な朝と、眠れなかった夜の後の朝が同じ棚に落ちる。棚に落ちた映像は整列しない。整列しない映像は因果を持てない。因果を持てないものは、物語にならない。
八回目。湊は一瞬だけ、反射的に「ただいま」と言いかけた。言いかけたという事実だけが残り、言葉の中身が崩れる。言葉は二音だったか、三音だったか。二人だけの合言葉があった。合言葉は短く、日常の最短で、それなのに最強だった。あの合言葉を口にすれば、陽の目が少しだけ柔らかくなった。柔らかくなった、という評価が先に剥がれ、目の動きだけが残る。残った目の動きは、もはや意味を運ばない。
九回目で、関係がほどけ始める。陽は恋人だった。恋人という語はまだ残っている。だが恋人という語が指していた『それ』が薄くなる。恋人の先にあった、無駄な沈黙や、意味のない笑いが、機能として削られていく。残るのは保護対象というラベルだ。保護対象というラベルは、湊の中で異常なほど安定している。安定しているから残る。残るものが最終的に「正しさ」へ収束してしまうのを、湊は理解する。理解しても止めない。止めれば編み直しが破綻する。
十回目。陽が「対象Å」に落ちる。落ちる、という表現は感情を含むが、事実としてそうなる。恋人→保護対象→観測対象。その順に、関係が機能へ置換される。観測対象になった瞬間、陽の涙が『秒数』に戻る。肩が跳ねる反射が『頻度』に戻る。視線が合う割合が『二割未満』に戻る。戻るのは思い出ではない。記録だ。記録は残っても、記録を見て胸が動く回路がない。回路がないまま記録だけが残る状態は、最も冷たい。
十一回目。名前の直前が来る。湊はここで一度だけ抵抗を試みる。抵抗はノイズだが、ノイズが最後の楔になる可能性がある。湊は陽を呼ぼうとする。呼びかけは関係の最短形だ。呼びかけが成立すれば、関係は完全には崩れない。湊は口を開き、舌を動かす。最初の音節が出ない。喉の奥で、音が詰まる。詰まった音が、言葉になる前に欠ける。欠けた部分は、穴として残らない。穴になるなら『欠けた』と認識できる。認識できないように削られる。削られた結果、呼びかけようとした事実だけが、無意味な動作として残る。
湊は理解する。名前は最後まで残るが、最後まで残るからこそ、消える瞬間が最も残酷になる。残酷になるのは湊ではない。湊の内部は無音のままだ。無音のまま、呼びかけが失敗する。失敗の理由を説明できないまま、世界だけが前に進む。
竜頭を回す指先の感覚が薄くなる。数え上げの数字が、途中から抜け始める。何回目かが分からない。分からないが、回転は止めない。止めれば中途半端な痕跡が残る。痕跡は盤面の再汚染になる。再汚染は避ける。避けるために、湊はただ回し続ける。回しているのに、回している主体が削れていく。
そして、削除工程が次の段階へ移る予兆が来る。視界の中の「物」が、ゆっくりと意味を失い始めた。
最初に崩れるのは、物だった。
机の上の紙が、紙として認識できなくなる。白い矩形、黒い線、繊維の模様。意味が剥がれ、ただの形になる。ノートの文字が読めるのに、読んだ瞬間に内容が抜け落ちる。読み終えたはずの行が、次の瞬間には「見た」という事実だけを残し、何を書いていたかが消える。ペンの感触は残る。インクの匂いも残る。だが、それらが「何のためのもの」だったかが結びつかない。
次に崩れるのは、順序だった。
朝と夜の間がほどける。昨日の朝食と今日の朝食が同じ棚に並び、どちらが先か分からなくなる。戦闘の記憶も同様だった。公園、駅前、廃工場。場所はある。映像もある。だが、どの場面がどの回数に属するかが失われていく。回数が消えると工程が消える。工程が消えると、努力が消える。努力が消えるのに、結果だけが残る。結果だけが残る世界は、因果が切れた世界だ。
湊は順序の崩壊を入力として観測する。観測しても止めない。止めれば目的が破綻する。目的は盤面変更。盤面変更のためには、自分の記録が削除されなければならない。順序が崩れるのは、その削除の過程だ。
次に来るのは、感情の崩壊だと湊は予測していた。だが感情は、すでに薄い。薄いものは崩れても衝撃が小さい。衝撃が小さいことが、逆に残酷だった。
胸の奥にあるはずの「何か」が、さらに静かになる。静かになるというより、静かさの濃度が上がる。湊が陽に触れたときの温度の記録。陽の髪の匂い。陽が笑った瞬間の、微かな胸の動き。そういう微細な揺れの残骸が、砂のようにさらさらと崩れて落ちる。落ちるのに痛くない。痛くないから、喪失が喪失として成立しない。喪失の成立しない喪失は、ただ削れていくだけだ。
湊は自分が「寂しい」と感じるかどうかを確認する。確認して、入力がないことを認識する。入力がないことが、最後の適合条件を満たしてしまう。扉は、感情を失った者にしか開かない。開いたのは正しい。
次に崩れるのは、関係だった。
関係は物や順序より頑固に残るはずだ。人間の脳は関係を保つ。保たなければ生きられない。しかしこの権能は、そこを狙っている。湊の存在記録を消す以上、湊が関わった「関係」を残してはならない。残れば痕跡が浮上する。痕跡が浮上すれば、盤面が再び湊を生成する可能性がある。生成は避けるべきだ。
陽の輪郭が、一度だけ浮かぶ。浮かんで、次の瞬間に分類される。対象A。保護対象。最優先。分類は残る。だが、その分類が「誰」を指していたのかが剥がれる。陽の顔が映像として残っても、それが「大切な人」ではなくなる。大切というラベルが剥がれる。ラベルが剥がれた映像は、ただの情報になる。情報は痛まない。痛まない情報は、記録として削除しやすい。
湊は最後の抵抗として、関係の端を掴もうとする。掴もうとするという行為が、すでに人間の側の振る舞いだ。だが掴む力が弱い。弱いから掴めない。掴めないまま、陽の声のトーンだけが残り、言葉の内容が抜ける。抜けた言葉は、音の粒になる。粒はノイズになる。ノイズは意味を運ばない。
最後に崩れるのは、名前だ。
湊はそれを知っていた。知っていたのに、最後の瞬間まで名前は残る。名前は最も小さく、最も頑固なタグだ。タグが残れば、世界はそこから関係を再構築できる。だからタグは最後に消される。消えるとき、世界は一見「何も失っていない」顔をする。名前がない喪失は、喪失として共有できないからだ。
湊は自分の名を思い出そうとする。思い出そうとする前に、名が喉の手前で崩れる。音節が出かかって、粉になる。粉になった音節は、口の中で意味を持たない。湊は自分の名を紙に書こうとする。指が動く。文字の形が出る。だが文字が定着しない。書いたはずの線が、視界の中でほどけて、ただの傷に戻る。時計の裏蓋の刻印と同じ種類の傷になる。傷は残る。名は残らない。
陽の名も同様に消える。湊の内部で「陽」という一文字が一度だけ光り、次の瞬間に黒く潰れる。潰れたものは、もう読めない。読めないのに、涙の痕だけが残る。涙の痕は出力ではない。現象の痕跡だ。痕跡だけが残り、誰のための涙かが消える。
湊はここで、盤面変更の成立条件を最終確認する。自分の存在記録が消える。陽の恐怖の起点が消える。貴島の儀式が不成立になる。これらが同時に成立するなら、目的は達成される。達成されるなら、この崩壊は正しい。
正しい、と湊は最後に言葉として置こうとする。置こうとした瞬間、言葉も崩れる。正しいという語が、音の粒になる。粒がノイズになる。ノイズは意味を運ばない。意味が運ばれないことが、最後の条件だった。
視界が白くなる。白さは光ではない。情報の欠落だ。欠落の中で、湊は一つだけ「残す」ことを試みる。陽の明日。明日という概念。明日の中に自分がいないという事実。事実は残る。残るが、残す主体が消える。主体が消えた事実は、世界の側に溶ける。
最後に、自分が誰だったかが消える。誰だったかが消えた瞬間、何も言えなくなる。言えないことが救いになる。言葉が届かない事実だけが、静かに完成する。
懐中時計は、机の上で動かないままだった。動かない時計の中で、回数だけが一つ増えた。増えたことを知る者は、もういない。
*
目を開けると、朝だった。時計は動いていて、窓の外にはいつもの街の音があった。陽は布団の中で、胸の奥に残っているはずの重さを探した。昨夜まで確かにあったものだ。名前の形をした重さ。抱きしめた体温の残り。触れられる前に肩が跳ねる、あの反射の理由。探しても、出てこない。
代わりに、涙だけが出た。泣こうとして泣いたのではない。目が勝手に濡れて、頬を伝って落ちる。陽は自分の涙を見て、理由を探す。悲しいから泣いているはずなのに、悲しい「何か」がどこにもいない。涙は現象として存在するのに、原因が空白になっている。原因のない涙は、心の中に穴が空いていることを告げるだけだった。
陽は起き上がり、台所へ行く。冷蔵庫を開け、コップに水を注ぐ。指先が震えると思ったが、震えなかった。眠れていなかったはずの夜の疲労も、胃を締め付ける恐怖も、そこにはない。怖さが消えたこと自体に、陽は安心できない。安心の理由が見つからないからだ。
玄関の靴がきれいに揃っている。鍵が二回かかっている。窓のロックも正しい位置にある。部屋は安全だ。安全なのに、陽の胸の奥がひどく空虚だった。何かがなくなっている。けれど「何がなくなったか」を言語化できない。言葉が届かないという事実だけが残り、届かせるべき相手の輪郭が消えている。
陽はクローゼットを開けた。服が並んでいる。自分の服だけが並んでいる。そこにあるはずのもう一人分の気配がないことに、陽は違和感を覚えた。違和感はあるのに、違和感の説明ができない。説明できない違和感は、ただの不快さになって胸に沈む。
スマホを手に取る。連絡先を開いて、何かを探そうとする。何を探すのかが分からない。指が止まる。陽は画面を閉じる。探すべき名前がないのではなく、探すという行為に意味が結びつかない。
陽は床に座り込み、膝を抱えた。自分の腕で自分を抱きしめる形を取る。抱きしめる形だけが残っている。縋っていた相手が誰だったのかは、もう分からない。分からないのに、縋る形だけが身体に残る。それが最も残酷だった。
涙は止まった。止まったことが回復ではないと、陽は分かる。枯渇とも違う。理由が剥がれたのだ。泣く理由も、怯える理由も、後悔させたい理由も、すべてが「最初からなかった」顔をして消えている。救われたはずなのに、救われたと感じる手触りがない。陽はただ、空白に取り残された。
それでも陽は立ち上がり、洗面所で顔を洗う。冷たい水が頬を叩く。鏡の中の自分は、泣いた跡だけを残している。陽は鏡に向かって、意味もなく小さく「大丈夫」と言った。誰に言ったのかは分からない。返事が返らないことだけが、なぜか自然だった。
*
日常は、想像していたより静かに戻った。朝は朝として来て、夜は夜として終わる。陽は眠れる。途中で目を覚ましても、胸の奥から声が押し寄せてこない。駅前の叫びも、鉄の軋みも、刃の気配も、どこにもない。ないことが当然のように続く。
食事もできる。味がする。温度が、温度として届く。食べ物の匂いが、生活の匂いに戻っている。陽は箸を置く回数が減り、呼吸が浅くならない。誰かに管理されている感覚もない。鍵を二回確認した記憶もない。窓を順番に触る手順も思い出せない。思い出せないのに、困らない。困らないことが、救済の成立だった。
陽は、朝に怯えなくなっていた。
目を開けた瞬間に背中へ刺さるはずだった予感がない。ドアの外に誰かが立っている気配もない。電話の着信音が刃に変わることもない。街の音は街の音のままで、救急車のサイレンは遠くで鳴って遠くへ消える。胸の中で何かが凍りつく前に、陽は呼吸できる。
安全は成立している。成立しているのに、陽は安心という言葉に触れられなかった。
朝食を作る。フライパンを温める手つきが自然に戻っている。卵を割って、白身が広がり、黄身が丸く残る。トースターから香ばしい匂いが立つ。陽はその匂いを「トースト」と認識できる。できるのに、匂いが胸の奥へ落ちてこない。落ちてこない匂いは、ただの情報だ。
皿を二枚出そうとして、陽は一瞬止まった。棚の前で、指が空を掴む。二枚のはずだった。二枚でなければならなかった。そういう確信だけが先にある。だが、なぜ二枚なのかが分からない。理由がない。理由がないのに、指が二枚目を探す癖だけが残っている。
陽は笑って誤魔化そうとした。誰も見ていないのに。誤魔化す相手がいないのに、誤魔化す動作だけが残っていることに気づいて、喉がひりつく。ひりついた瞬間、涙が出そうになる。涙の起点が分からない。起点が分からない涙は、目に溜まる前に消える。消えるのに、肩が一度だけ跳ねる。跳ねた理由がない。理由がない反射は、ただの残響だ。
帰宅の時間、玄関の前で陽の足が止まる。鍵穴に鍵を入れる動きが、ほんのわずか遅れる。ドアを開けた瞬間に、誰かが「おかえり」と言ってくれるはずだった気がする。はずだった、という確信だけがある。声はない。空気だけが、何かの形をして残っている。陽はその空気に向かって小さく「ただいま」と言いかける。言いかけて、言葉を飲み込む。飲み込む理由も分からない。
部屋は整っている。散らかっていない。水回りもきれいで、窓の隅に埃もない。誰かが完璧に整えてくれていた日々の痕跡だけが、形として残っている。形が残っているのに、誰が整えていたのかが浮かばない。浮かばないまま、形だけが「ここは安全だ」と主張する。その主張が、陽を余計に空虚にする。
テレビをつける。ニュースは平穏な話題ばかりだ。駅前の火事の特集はない。街のざわめきは普通で、人は普通に笑っている。陽はその普通に混ざれるはずなのに、混ざれない。混ざれない理由を言葉にできない。
陽はテーブルにノートを開いた。理由を探すためではない。理由がないなら、せめて違和感の輪郭だけでも掴みたかった。掴めれば、正体のない恐怖が「恐怖」ではなくなると思った。
ペンを持つ。紙に触れる。最初の線を引こうとした瞬間、手が止まる。何を書けばいいのか分からない。分からないのに、書くべきものがあるという焦りだけが残る。
陽は適当に丸を描いた。丸は描ける。丸は意味にならない。次に線を引く。線も引ける。線も意味にならない。意味にならないまま、陽の胸の奥で「これでは違う」という否定だけが増える。何が違うのかが分からない。分からないことが、一番苦しい。
陽はペン先を紙から離し、掌で額を押さえた。冷たい。冷たいのに、涙は出ない。涙のかわりに、喉の奥に言葉にならないものが詰まる。詰まったものは、名前を持っていない。名前がないから、吐き出せない。
陽はノートを閉じた。閉じるとき、ページの端に指が引っかかった。引っかかった感触が、なぜか懐かしい。懐かしいという感覚だけがあり、何が懐かしいのかが分からない。分からないまま、胸が少しだけ温かくなる。温かくなった瞬間に、また肩が跳ねる。跳ねる理由がない。理由がない反射が、日常の中で小さく何度も起こる。
陽はその反射を、自分のせいだと思うことにした。誰かのせいにできないからだ。誰かのせいにできないほど、世界はきれいに救われてしまっている。
救われているのに、救われた気がしない。
その言語化できない違和感だけが、陽の明日に薄く残り続けた。
*
陽が駅前の横断歩道を渡るとき、反対側の歩道で父親らしい男が、幼い子どもの手を握っていた。男の手は強く、しかし強すぎない。子どもは少しだけ歩き方が遅く、白い靴のつま先が信号の点滅に合わせて小さく弾む。
信号が青になり、二人は渡り始める。男は周囲を一度だけ見回し、子どもの歩幅に合わせて足を遅らせる。子どもは横断歩道の真ん中で、一瞬だけ立ち止まり、空を見上げた。空は何もない普通の空で、子どもは普通に笑った。笑い方に、切迫がない。
男の横顔には、深い影がある。影は消えない。消えないが、燃え上がってもいない。男は子どもの髪を軽く撫で、何かを言った。言葉は雑踏に消える。子どもは頷き、手を離さずに歩き出す。
陽はその光景を見て、胸の奥が一度だけ静かに締まった。締まった理由が分からない。分からないのに、分かってしまう気がする。
誰かが、誰にも知られない場所で、盤面を編み直した。
その結果が、こうして何事もない顔で成立している。
*
ある日、陽は公園の前を通った。子どもの笑い声が転がっている。滑り台の金属が光り、ブランコの鎖が規則的に鳴る。そこに一組の親子がいた。父親が、幼い娘の手を握って歩いている。娘は走りたがって、父親がそれを止める。止め方は乱暴ではなく、転ばないように速度を合わせるだけだった。娘がふくれ、次の瞬間に笑う。父親が笑い返す。世界はその程度のことで成立している。
陽は立ち止まらずに通り過ぎた。胸の奥で、わずかな引っかかりが生まれた気がしたが、すぐ消えた。引っかかりに名前がない。名前がないものは、思考に成長しない。だから消える。消えたまま、陽はスーパーへ行き、買い物をして、帰宅する。普通の動線の中で、普通の明日が積み上がっていく。
夜、陽は窓を開けて外気を吸い、笑えることに気づく。理由が特別ではない。笑えることが、すでに特別だった。陽はその特別を、言葉にしない。言葉にすると壊れそうな気がするからではない。言葉にする必要がないほど、穏やかだった。
*
雨上がりの道を、陽は歩いていた。濡れたアスファルトが光り、空気は少しだけ冷えている。傘を畳む人、急ぐ人、足元を見て歩く人。街はいつも通りだった。
角を曲がったとき、誰かと肩が触れた。ぶつかったほどではない。すれ違いざまに、軽く接触しただけだ。それなのに、陽の肩が跳ねなかった。昔なら反射が出ていたはずだ、と後から思う。思うが、昔の根拠がない。だからその思いは、すぐ薄れる。
「すみません」
男が頭を下げた。声は落ち着いていて、必要な分だけ丁寧だった。陽は「大丈夫です」と返す。男はもう一度だけ会釈し、去っていく。歩き方が一定で、視線が揺れない。なのに威圧がない。陽はなぜか、その背中にほんの一瞬だけ温かさを感じた。理由のない温かさだった。
男が振り返ったわけではない。呼び止めたわけでもない。なのに陽の胸の奥で、何かが空振りする。掴めないものを掴もうとして、指が空を掴むような感覚。陽は立ち止まりかけて、止まらない。止まる理由がない。止まらないことが、この世界の正しさだった。
その日の帰り道、陽は小さく笑った。笑みは自然に出た。空っぽの笑みではないはずなのに、なぜか自分の笑みが薄いと感じた。薄さの理由も、やはり分からない。分からないままでも、明日は来る。来ることを疑わない。疑わないことが、救済の形だった。
世界に存在しない名は、呼ばれない。呼ばれない名は、痛みにもならない。陽の涙が出る日があっても、涙はただの水分として乾いていく。理由は戻らない。戻らないかわりに、怯えも戻らない。
陽は玄関の鍵を一度だけかけ、部屋の灯りをつけた。静かな部屋に、生活の匂いがある。陽はその匂いの中で息をして、明日へ体を預ける。
朝は、少しだけ失敗していた。
トーストは片面が焦げ、コーヒーは湯気が立つのに香りが薄い。窓の外は晴れているのに、カーテンの端がうまく揃わない。陽はそれらを「まあいいか」で済ませ、いつものように皿を出そうとして、指先が一瞬だけ空を掴んだ。二枚だったはずだという確信だけが浮かび、理由が来ないまま沈む。
陽は笑って誤魔化す。誤魔化す相手はどこにもいない。いないのに、笑う癖だけが残っている。その癖が怖くて、陽はカップを持つ手に力を入れた。陶器の温度が掌に伝わり、温かい。温かいのに、胸の奥が同じ温度にならない。
玄関の鍵を回し、外へ出る。振り返っても、誰もいない。誰かに「いってきます」を言うはずだった気がする。気がするだけで、言葉は形にならない。陽はそのまま歩き出し、角を曲がる直前に、理由のない涙が一粒だけ落ちた。落ちた涙はすぐ乾き、乾いた痕だけが頬に残る。
世界は救われている。平和は成立している。なのに、陽の明日には、いつも小さな空白がついてくる。何を失ったのかも、誰を忘れたのかも、言葉にできないまま。
それでも朝は来る。来てしまう。何かが欠けたまま、欠けたと言えないまま、普通の朝は、今日も静かに始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます