夫婦の形

見鳥望/greed green

「ただいま」


 一秒、二秒、三秒。

 

 ーー遅い。


 リビングの方からガチャガチャと騒々しい音がする。二十秒が経ったあたりでやっと沙奈枝が現れる。


「お、おかえりなさい!」


 言葉では言いながらも頭を下げる姿は深々とした謝罪にしか見えない。汚れたエプロンに不快感を覚えながら舌打ちを一つ。わざと靴を脱ぎ散らかし玄関を上がりリビングの扉を開ける。


「……なんだこれは?」


 舌打ちでは済まない苛立ちが一気に身体を駆け上る。


「おい」


 返事が聞こえない。見ると沙奈枝は俺の靴を綺麗に揃えて磨いていた。


「おい」


 沙奈枝の背中がびくっと震える。相変わらずおどおどした奴だ。


「晩飯は?」

「いや、え、ああ、あの……」

 

 身体の震えと同期して沙奈枝の歯がカチカチと鳴る。非常に不愉快だ。これじゃまるで俺が悪者じゃないか。


「どうして晩御飯が出来ていない。ちゃんと帰る時間は連絡したはずだぞ」


 帰宅した俺の出迎えもせず、飯の用意もされていない。一銭も稼がず一日家にいるだけの存在なのに、これだけたっぷりの時間があるにも関わらずこんな簡単な事さえできないのが信じられない。これだから無能は困る。


「す、すみま、すみませんん」

「すみません? そうだ、済まないよ。謝って済むわけがないだろ。自分の役割を果たせてないんだから」

「は、はい。ご、ごめん、ごめんなさい。だ、だから」

「は?」


 ”だから”だと? 謝るだけならまだしも、これ以上何かを求めるというのか。


「いっ、あっ……!」


 沙奈枝の前髪を掴んで引き上げる。勢いでぶちぶちと何本か毛が抜ける音がするが当然気にしない。まだ若いのだから抜けてもまた生えてくる。


「お前はどうしていつもそうなんだ」


 情けない。彼女の体たらくぶりはこれが初めてではない。その度何度も注意しているのにまるで改善されない。未熟者だ。


「脱げ」

「……へ?」

「日本語が分からないのか?」

「……ごめんなさいごめんなさい! 許してください! ちゃんとしますから!」


 ぱんと頬をはたく。


「ちゃんとしてないじゃないか」


 ぱん、ぱん。


「許してくださいだと? 俺が悪者のような言葉を使うな。お前が悪いんだ。お前が」


 ぱん、ぱん、ぱん。

 沙奈枝の顔がみるみる赤らんでいく。涙と鼻水と鼻血が混じり、はたく度にぬめぬめとした不快な感触が掌に残る。

 汚らわしい。女はいつもこれだ。泣けば事がおさまると思っている。泣いても何も変わらないというのにそれすらも学習しない。情けない生き物だ。


 へたりこんだ沙奈枝は死んだような顔のまま服を脱いでいく。

 そうだ。それでいい。簡単な事だ。俺の言う通りにしていればいい。それだけの事がどうして出来ないのか理解に苦しむ。


「お前は妻で、俺は夫だ。妻は夫の全てに従え。それが夫婦というもんだ」







「あんたさぁ、休みの日だからって何もしなくていいとか思ってる?」


 ソファに寝そべる姿はまるでセイウチだ。いや、セイウチの方がまだマシだろう。彼らは平日も休日も園の中で仕事をしている。自分の身を犠牲にして客を集め金を稼いでいる。自然界での彼らの生態はよく知らないが、それでも家の中にいるこの無能なセイウチに比べれば遥かに働き者だろう。


「そんな余裕あるなら日雇いでもしてもっとお金入れてよ」


 幸雄はちらっとこちらを一瞥し、何も言わずまた同じ態勢に戻った。


 ーーどうしてこんな奴と結婚してしまったのか。


 若い時は今より痩せていて見栄えもそこまで悪くなかった。同棲を始めてからも堅実に働いてくれていた。

 しかし思い返せばあの頃から休日は無気力に寝そべっている事が多かった。家事の類はごみ出し程度。それ以外の家事は「俺には出来ない」と何もしなかった。だがそれでもいいと思った。私よりも稼ぎのある彼のおかげで生活を助けられている事実もあり、私も契約社員

として働いていたが家事は私がほぼ担当する形でおさまっていた。


「いやいや、それがお前の仕事だろう」


 大きな間違いだった。

 子供が生まれてからも夫は何も変わらなかった。育児の為に仕事を辞め、一日中子育てに追われる中、夫は今まで通り働くだけで十分役割を果たしていると勘違いし、休日もソファから動かず、洗濯物一つ畳まず、子供と同じように私がご飯を作るまで動かなかった。変わったといえば醜い肉の塊になった事ぐらいだろう。

 

 大きな子供がもう一人いる。生活費を入れてくれていると言っても子供が生まれれば同棲時代とは話が変わる。今まで感謝していた夫の収入は、実は頼りなく感謝に値しないレベルである事を今になって自覚した。妻として女として、私という人間の価値も失ったように感じられた。


 ーーどうしてこんな奴と。







「そんな余裕あるなら日雇いでもしてもっとお金入れてよ」


 自分の耳が狂ってしまったのかと思った。

 うんざりだ。身の丈を知らないにも程がある。誰のおかげで生活が成り立っていると思っているのか。私の稼いだ金に感謝もせず、あまつさえ文句を垂れ流す低脳っぷりにはほとほと呆れた。


 ーー間違えた。


 若い時は綺麗で優しく魅力的だった。当たり前の事だが家事もこなしてくれていた。夫婦としてのバランスが完全に成立していた。

 だが子供が産まれたあたりからおかしくなった。私にばかり育児家事を押し付けて何もしないと、不平不満を平気で口にするようになった。


「いやいや、それがお前の仕事だろう」


 そう口にすると信じられないといった顔をした。そして激昂し酷く愚かしい言葉をこれでもかと吐き続けた。うんざりしてごめんごめんと謝ってもおさまらず、聞いていられないので無視していたら私の給料にまで文句を言い始めた。さすがに聞き捨てならないと大喧嘩に発展した。


 ーー何でこんな奴と。







「まずい」

「ご、ごめんなさい」


 箸を叩きつけると沙奈枝が小動物のように身体を震わせた。いちいち怯える様が癪に障るがこれでいい。俺が一番上であると理解させる事が重要だ。


「お前、誰のおかげで生活出来てると思ってるんだ?」


 机に額をくっつけごめんなさいごめんなさいといつものように謝罪を繰り返す。理解が足りなかった時に比べれば大いなる成長だが、失敗を繰り返すという意味ではまだまだだ。


「掃除もちゃんとしてるんだろうな?」

「も、もちろん、です」


 本当だろうか。微かに残る臭いにどうしても疑念を感じずにはいられない。食事がこの様なら掃除の手を抜いている可能性もあるだろう。


「全くいい迷惑だよ」


 全てが煩わしかった。もはや破滅の道しかない。だがどうせ破滅するならーー。

 目の前に座る無能に視線を向ける。無能でも身体には才能がある。そこに頭は必要ない。俺の求めるものは十分に兼ね備えている。


「風呂の時間だ」


 沙奈枝が怯えた目でこちらを見つめる。


「おい、さっさとしろ」


 もともと破滅的な関係だ。堕ちるならとことんだ。


 ピンポーン。


 珍しい音がした。宅配の類以外でこんな夜の時間に聞く音ではない。


「静かにしてろよ」


 立ち上がり玄関に向かう。ドアスコープから扉の向こうに立つ人間を確認する。

 スーツ姿の男が二人。営業、ではないだろう。


 ーー意外と遅かったな。


 事が起きてから三週間ほど経ったか。そろそろ潮時か。覚悟を決めて俺は扉を開けた。


「夜分にすみません。野崎孝一さんでお間違いないですか?」


 こういう者ですと胸元から黒い手帳をこちらに向けられる。


「少し、お話を聞かせてもらえますでしょうか?」


 がたっと後ろで音がした。


「あ、あ……」


 振り返ると沙奈枝がいた。理解させたつもりだったが洗脳には至っていない。当然の行動だろう。


「た、助けてください……! こ、この人に、お父さんとお母さんを、こ、ここ、殺されました……!」







「最悪」


 中学の部活を終え家に帰ると父も母もいなかった。まさか仲の悪い二人が一緒に出掛けたなんて事はないだろう。どうでもいいが親ならせめて晩御飯ぐらい用意しておくべきだろう。


「はーあ」


 誰にも届かないのにわざと大きく溜息をついてソファに倒れ込む。

 やる気が失せた。言ってるうちに帰ってくるだろうとスマホを適当にいじって時間を潰した。


 がちゃ。


「ん?」


 玄関の開く音に続いて足音がする。やっと帰ってきたか。「おそいよー」と口にしながら音の方へ視線を向ける。


「お前が沙奈枝か」


 知らない男が私の名前を口にした。


「え、え」


 困惑してる私をよそに男は一気に私の距離を詰めた。次の瞬間頭に強い衝撃が走り、視界が暗闇へと変わった。





 そこからは地獄だった。

 目が覚めると知らない部屋。口にはガムテープで両手両足も縛られ身動きも取れない。部屋の中は嗅いだ事のない異臭に溢れていたがガムテープのせいで吐く事も出来なかった。


「起きたか」


 先ほどの男が視界に入ったと思った瞬間顔を殴られた。ついで腹を蹴られる。理解不能な暴力の雨が無遠慮に降り注いだ。


「抵抗したらこんなんじゃすまないからお前も手伝え」


 男は血塗れの姿で私に包丁を向けた。恐怖と痛みで本能的に従うしかないと判断した。ガムテープはそのままに拘束だけは解かれた。促されるままに部屋を移動すると異臭はより強くなった。


「これ捨てるからお前も手伝え」


 着いた先は風呂場のようだったが最初視界に映る世界が理解が出来なかった。しばらくして散らばっているのがバラバラにされた両親だと分かり我慢できずに吐いた。ガムテープのせいで吐瀉物が口に詰まりパニックと共に窒息しかけ慌ててガムテープを剝がした。


「騒いだらお前もバラすぞ」


 騒ぎたかった。大声で喚き散らしたかった。でも出来なかった。容量を超えた現実の前にあげるべき悲鳴も上げられなかった。気付けば私は男に包丁を向けられたまま両親を処理していた。





「お前は妻で、俺は夫だ。妻は夫の全てに従え。それが夫婦というもんだ」


 死なない代わりに私の地獄は続いた。男に軟禁されて訳の分からない理屈で生かされた。


「お前のクソ親はダメだ。夫は妻を家事ロボットとしてしか扱わず、妻は夫を銭稼ぎマシーンとしか思っていなかった。こんなものは夫婦とは呼べない。挙句妻は若い男と不倫ときた。存在価値の証明の為に見た目の美だけで女として満たされようとした。愚かで汚らわしい。それがお前の両親だ」


 あの日、父は不倫をした母に怒ったのかこの男の部屋に押しかけた。そこに夫婦としての愛があったかどうかは分からない。だが結果として返り討ちにあい二人は死んだ。

 そこで終わればまだ良かった。信じられない事に男はわざわざその後私を連れ去りここに閉じ込め両親を処理させた。


 そして男は私と夫婦ごっこを始めた。男がどういうつもりだったのか、ただのお遊戯に過ぎないものなのか何一つ理解出来なかったが、到底男が私に強いる全ては夫婦なんてものからかけ離れていた。

 夫の全てを満たす為だけの妻と言う役割。それはもはやただの奴隷だった。




 男は逮捕され、私は保護された。

 これから私はどうなるのだろう。男の指示とはいえ、父と母をバラバラにしてトイレに流したのは事実だ。罪に問われることはないだろうが、あまりにも一生残る傷が多すぎた。


 ーー夫婦って何?

 

 私の横には誰もいらない。私がそばで見てきた夫婦の形はあまりにも醜いものばかりだった。野崎が強いたものはもちろん、父と母の関係性も全てを知ればあまりにもくだらないものだった。


 彼らは消えた。私は残った。

 こんな私がこれから生きて、正しい形でいられるのだろうか。

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