6
月曜日になった。
会社に行った。いつもの電車に乗って、いつもの道を歩いて、いつものビルに入った。
エレベーターを降りて、フロアに出た。
先輩の席が見えた。
誰も座っていなかった。
パソコンがなかった。書類もなかった。マグカップも、卓上カレンダーも、ペン立ても。全部なくなっていた。
ただの空いた机だった。
私は立ち止まらなかった。立ち止まる理由がなかった。自分の席に向かって、鞄を置いて、パソコンを立ち上げた。いつもと同じだった。
でも、フロアが少し広くなった気がした。
一人分の空白。一人分の沈黙。
それだけで、空間の形が変わっていた。
午前中、誰も先輩の話をしなかった。送別会の話もしなかった。金曜の夜のことは、もう終わったことだった。終わったことは、話す必要がなかった。
昼休み、私は一人でコンビニに行った。
おにぎりとお茶を買って、会社に戻った。戻る途中、ふと思った。
先輩は今ごろ、何をしているだろう。
大阪への引っ越し準備だろうか。荷造りをして、段ボールを詰めて、部屋を片付けて。
私の知らない場所で、私の知らない時間を過ごしている。
当たり前のことだった。先輩には先輩の生活がある。私には私の生活がある。それだけのことだった。
でも、その「それだけ」が、金曜日の夜から少しだけ重くなっていた。
会社に戻った。エレベーターに乗った。ボタンを押した。
扉が閉まる直前、誰かが駆け込んできた。
後輩だった。金曜の夜、隣に座っていた後輩。
「あ、お疲れさまです」
「お疲れさま」
後輩がボタンを押した。同じ階だった。
「鈴木さん、もう大阪着いたらしいですよ」
「そう」
「LINEのグループに写真上げてました。新幹線の」
「見てない」
「見ます?」
後輩がスマホを取り出した。私は首を振った。
「いい」
「そうですか」
エレベーターが止まった。扉が開いた。後輩が先に降りた。私もあとに続いた。
後輩は自分の席に戻っていった。私も自分の席に戻った。
パソコンの画面を見た。メールが何件か来ていた。仕事のメールだった。普通の、いつものメールだった。
私はメールを開いて、返信を書き始めた。
書きながら、思った。
先輩の写真を見なかったのは、見たくなかったからだ。見たら、先輩が本当にいなくなったことを、認めなければならない気がした。
認めたくなかったわけじゃない。
認める準備が、まだできていなかった。
でも、準備ができる日が来るのかどうか、わからなかった。
◇
夕方になった。
仕事が一段落して、ふと顔を上げた。
窓の外が暗くなっていた。十二月は日が短い。五時を過ぎると、もう夜だった。
私は席を立った。お茶を入れに行こうと思った。
給湯室に向かう途中、先輩の席の前を通った。
通り過ぎようとして、足が止まった。
机の上に、何かあった。
近づいて見た。
付箋だった。小さな、黄色い付箋。机の端に、一枚だけ貼ってあった。
誰かが剥がし忘れたのだと思った。先輩が残したものか、総務が貼ったものか。
でも、何も書いていなかった。
白紙の付箋だった。
何のためにあるのか、わからなかった。誰が貼ったのかも、なぜ剥がされていないのかも。
私はその付箋を見ていた。
黄色い四角。何も書いていない。何も伝えない。ただそこにある。
剥がそうと思って、手を伸ばした。
でも、剥がせなかった。
剥がしたら、本当に何もなくなる気がした。先輩がここにいた痕跡が、これで最後のような気がした。
馬鹿みたいだと思った。付箋一枚に、何の意味もない。先輩が貼ったものかどうかもわからない。
でも、私は手を下ろした。
付箋はそのままにした。
給湯室でお茶を入れて、席に戻った。仕事の続きをし、残業して、八時に会社を出た。
帰り道、また十二月の夜を歩いた。
金曜日と同じ冷たさだった。息が白くて、足音だけが響いた。
(了)
祝間 shiso_ @shiso_
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