第3話 初心
朝の鐘が鳴るより少し早くセラは目を覚ました。
冬の名残を引きずる冷たい空気が窓の隙間から忍び込んでくる。布団を抜け出し、顔を洗い、簡素な服にロングドレスを重ね着する。その動作は剣を握っていた頃と変わらず手早い。
家から出ようとして鞘の重みがないことに違和感を抱く。準備を損ねたと思わず立ち止まり、そして苦笑した。今日からは必要ない―そう自分に言い聞かせ、戸を閉めた。
パン屋の香り。馬のいななき。開きかけの店の扉。朝の鐘に備えた街の息遣いはいつもどおりだった。いつもと変わらない―彼女にとってそれが救いだった。
冒険者ギルドの扉を押す。ぎぃ、と木の軋む音が誰もいないギルドに響いた。
「おはようございます」
セラが声をかけた先——ギルド長の老女が顔を上げ、にやりと笑う。
「おはよう、セラ。鐘の音で起きる冒険者が初日に遅刻しなかったのは褒めてやろう」
「……はい。よろしくお願いします」
その言葉を口にするのに、ほんの少しだけ間があった。数えきれないほど扉をくぐったハイネルトの冒険者ギルドの、新しい一面。カウンターの内側は、思っていたより狭い。
掲示板、書類棚、簡易な椅子。剣戟も魔法も必要のない空間。ただ度胸だけが必要なことは経験上知っていた。
「まずは依頼の受理と説明だけでいいさね。難しい案件はわたしのところへ持っといで」
「分かりました」
「ああ、若手の指導もしたいんだったか。その辺は空き時間に好きにしな。冒険者の片手間じゃ間に合わないってのが、あんたの志願理由だったね」
「ありがとうございます」
セラは頷きカウンターの前に立った。朝の鐘が響く。最初の来訪者は見慣れた顔だった。
「……あ!」
若い冒険者が少し驚いた表情を見せた後に目を輝かせた。
「セラさん……ですよね?」
「そうよ」
「今日からなんですね、ギルドの受付嬢」
胸の奥が、きしりと音を立てた気がした。
「そう、今日からはこっち側。安心して、わからないことは前と同じように教えてあげるから」
そう言ってセラはカウンターを軽く叩く。彼は一瞬言葉に詰まり、それから照れたように笑った。
「なんか……不思議ですね」
「そう?」
「はい。でも安心します」
ちらりとセラの身体に視線を投げた若者。その理由を聞く前に、彼は依頼書を差し出した。セラはそれを受け取り内容を読み上げる。
討伐。
護衛。
素材採集。
かつて自分が受け取ってきた紙切れ。言葉に詰まることはなかった。注意点も、危険も、準備も、すべて分かっている。だからこそ、最後にこう付け加えた。
「……無理はしないで」
若者は少し驚いた顔をし、それから深く頷いた。
「はい!」
その背中を見送りながら、セラは息を吐いた。ハイネルトで名を轟かせた黎明の剣のリーダーが、こんな場所で受付嬢など——若者の態度から自覚せざるをえなかった。
手の届かぬ知らせを聞くたびに感じた口惜しさ。剣を振るわなくてもこの街でできることがある——まだ生まれたてのその決意が育つには時間が必要だった。
昼過ぎ、朝の受付ラッシュを終えて閑散としたギルドのカウンター越しに街を眺めた。あの頃と同じ通り。同じ空。同じ鐘の音。ただ、自分の立つ場所だけが変わっていた。
「……悪くないかも」
誰に聞かせることもなく、ただ呟いた。
ハイネルト・クロニクルズ たねありけ @Penkokko
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