赫い骨の書〜読んだ者は、読ませる者になる〜
ソコニ
第1話 焼けた影を読む者
第一章 焼け残った書架
旧図書館の地下書庫に降りる階段は、踏むたびに乾いた音を立てた。如月ユイは小さく息を吐き、コンクリートの冷気に身を慣らしながら一段ずつ足を進めた。
「本当に、入っていいんですか」
振り返って尋ねた声に、老いた司書は曖昧に頷いただけだった。白い髭に覆われた口元は、わずかに緩んでいるようにも見えたが、その目は何も語らなかった。
この大学の旧図書館は、来月には完全に閉館が決まっていた。新館への移転作業はすでに終わり、残された蔵書の多くは廃棄処分が決定している。ユイが研究のため、最後の資料調査を申し出たとき、司書は何も言わず鍵を手渡しただけだった。
地下書庫の空気は湿っていた。天井の蛍光灯は半分ほどが切れており、薄暗い照明が書架の影を長く伸ばしている。ユイは懐中電灯を取り出し、埃まみれの背表紙を照らしながら歩いた。
彼女の研究テーマは「近代以降に消えた異端文献」だった。明治期から昭和初期にかけて、検閲や自主規制によって市場から姿を消した書物たち。その多くは焼却処分されたが、大学や寺院の蔵書として残っているものもあると聞いていた。
書架の奥、壁際の一角だけが異様に黒ずんでいた。
火災の跡だろうか。ユイは足を止め、焦げた木材と紙の匂いを嗅いだ。だが、ここは地下だ。記録にも火災の話は出ていない。
黒ずんだ書架の中央に、一冊だけ本が残っていた。
赤い表紙。いや、赤というよりは、血の色に近い深い茜色だった。背表紙には金文字で何か刻まれているが、文字が擦れて読めない。ユイは手袋をはめたまま、そっと本を引き抜いた。
思ったより軽かった。そして、表紙の手触りが奇妙だった。
革ではない。紙でもない。まるで――皮膚のように柔らかく、温かみすら感じる。
ユイは本を開いた。
最初のページには、何も書かれていなかった。白い紙が、懐中電灯の光を静かに反射している。
次のページをめくろうとしたとき、指先に温もりが伝わった。
見ると、最初のページに文字が浮かび上がっていた。
――如月ユイ
自分の名前だった。
心臓が一つ跳ねた。だが、ユイはすぐに理性を働かせた。これは心理的なトリックだ。よくある仕掛けだ。インクに化学反応を起こす物質が塗られていて、体温や湿気で文字が現れる――そういう古典的な手法に違いない。
彼女は本を閉じ、研究室へ持ち帰ることに決めた。
階段を上がり、司書の元へ向かう。老人は相変わらず、窓際の椅子に座ったまま外を眺めていた。
「これを借りたいのですが」
ユイが本を示すと、司書はゆっくりと振り向いた。その目が一瞬、何かを――悲しみか、それとも諦めか――映したように見えた。
「読むなら」と、老人は低い声で言った。「最後まで」
ユイは頷き、貸出票を書いた。司書は印を押さず、ただ手を振って彼女を見送った。
その背中を見ながら、ユイは老人の言葉に奇妙な既視感を覚えた。まるで、何度も同じ言葉を繰り返してきたかのような――諦めに満ちた口調だった。
第二章 名前を知っている本
その夜、ユイは大学院の研究室で一人、本と向き合っていた。
窓の外は既に真っ暗で、廊下を歩く足音も聞こえなくなって久しい。デスクライトの白い光だけが、茜色の表紙を照らしていた。
ユイは手袋を外し、素手で本を開いた。
やはり、最初のページには自分の名前が書かれていた。今度は消えていない。まるで最初からそこに刻まれていたかのように、黒いインクで明瞭に記されている。
次のページをめくった。
――二〇一八年三月、彼女は指導教員の研究室を訪れた。
思わず息を呑んだ。
これは――自分の過去だ。
学部四年の春。卒業論文の相談のため、ユイは当時の指導教員の部屋を訪ねた。それは確かにあった出来事だ。だが、なぜこの本が――
ページをめくる手が震えた。
――研究室のドアは半開きだった。ノックをすると、中年の男性教員が振り向いた。彼は微笑み、椅子を勧めた。
事実だ。全て事実だ。
――論文の話が終わると、教員は彼女の肩に手を置いた。
ユイの呼吸が止まった。
――「君は優秀だ」と教員は言った。「もっと親しくなれるといいね」
違う。そんな言い方ではなかった――いや、そうだったかもしれない。記憶が曖昧だ。
――彼女は笑顔で答えた。「ありがとうございます」と。
――でも、その瞬間。彼女の体は硬直していた。喉の奥に何かが詰まっていた。
――逃げたかった。
――叫びたかった。
――でも――
本を閉じた。
ユイは深く息を吐き、両手で顔を覆った。心臓の鼓動が早い。手が冷たい。
なぜこの本が、あの出来事を知っているのか。
データベースのハッキングか。いや、あり得ない。あの出来事は記録に残っていない。ユイは誰にも話さなかった。問題化もしなかった。ただ――研究室を変えただけだ。
冷静に考えろ。これは何かの仕掛けだ。心理的な誘導だ。ユイは自分にそう言い聞かせた。
もう一度、本を開いた。
次のページには、こう書かれていた。
――あなたは何も間違っていない。
――ただ、正しかっただけ。
――どの国でも、どの時代でも、正しさはいつも静かに人を傷つける。
ユイの手から、本が滑り落ちそうになった。
窓ガラスに、何かが映った。
ユイは振り向いた。
研究室の隅、本棚の影に、何かが立っていた。
第三章 赫い骨が立ち上がる
最初に見えたのは、骨だった。
人間の骨格を模した、しかし人間ではない何か。半透明の赤い光を帯びた骨が、影の中で静かに組み上がっていく。
ユイは声を出せなかった。
それは女性の体躯だった。細く長い骨格。肋骨が美しい曲線を描いている。頭蓋骨には眼窩があり、その奥に何かが――光か、それとも視線か――宿っているように見えた。
怪物は動かなかった。ただ、立っていた。
ユイは椅子から立ち上がることができなかった。足が痺れている。呼吸が浅い。視界の端がぼやけていく。
怪物の骨は、微かに脈打っているように見えた。赤い光が、心臓の鼓動に合わせて明滅している。いや――これは自分の心臓の音なのか。
頭蓋骨に、顔が浮かび上がった。
それは人間の顔だった。女性の顔。目鼻立ちは整っており、どこか西洋の彫刻を思わせる。だが、その目には何の感情も宿っていない。
涙がない。
瞳があるのか、それとも空洞なのか、判別できなかった。ただ一つ確かなのは――この怪物は、決して涙を流さないということだった。
怪物は、ユイを見ていた。
いや――見ているのではない。
認識している。
ユイの中の何かを、この怪物は見抜いている。
逃げなければ。
ユイは椅子を蹴って立ち上がった。デスクを回り込み、ドアへ向かう。背後から何かが近づいてくる気配はない。足音もない。だが、視線だけは――背中に突き刺さるような視線だけは、確かに感じていた。
ドアノブに手をかけた瞬間、後ろで何かが落ちる音がした。
振り向くと、本が床に落ちていた。
怪物はまだ、影の中に立っている。
本のページが、勝手にめくれた。
風はない。窓も閉まっている。それなのに、ページは次々とめくれていき、ある場所で止まった。
ユイはドアを開けずに、本を見た。
――逃げても無駄です。
――あなたが読んだのだから。
――最初のページを開いた時に、もう決まっていました。
ユイは本を掴み、研究室を飛び出した。
廊下の蛍光灯が、規則正しく頭上を照らしている。足音だけが響く。自分の呼吸だけが聞こえる。
エレベーターホールで立ち止まり、後ろを振り返った。
何もいない。
研究室のドアは閉まったままで、廊下には誰の姿もない。
ユイは震える手でエレベーターのボタンを押した。
第四章 骨は逃げない
アパートに戻ったユイは、玄関の鍵を二重にかけた。
部屋の電気を全て点け、カーテンを閉める。本はリビングのテーブルに置いた。まるで爆弾でも扱うように、そっと、遠くに。
シャワーを浴びた。熱い湯が肌を焼くほど温度を上げたが、体の芯は冷えたままだった。
ベッドに入る。目を閉じる。だが、眠れなかった。
瞼の裏に、赤い骨格が浮かんでくる。
あれは幻覚だったのか。疲労による幻視か。それとも――
寝室のドアが、微かに開いた。
ユイは飛び起きた。
ドアの向こう、リビングの暗闇の中に、何かが立っていた。
赤い光。
半透明の骨格。
それは、こちらを見ていた。
ユイは叫ぼうとしたが、声が出なかった。喉が締め付けられている。呼吸ができない。
怪物は近づいてこなかった。
ただ、立っている。
見ている。
認識している。
そして、ユイは気づいた。
怪物の骨格が、微かに変化していることに。
より整っていく。
より美しくなっていく。
まるで、ユイの恐怖を養分にして、完成度を高めているかのように。
どれくらい時間が経ったのか分からなかった。ユイは布団の中で体を丸め、目を閉じた。だが、視線だけは消えなかった。
朝になって、怪物は消えていた。
リビングには何もない。テーブルの上には本だけが置かれている。
ユイは鏡を見た。
自分の顔が、昨夜より青白く見えた。目の下に隈ができている。
そして――頬に、一筋の涙の跡があった。
いつ泣いたのか、記憶にない。
ユイは仕事を休むと大学に連絡し、一日中ベッドで過ごした。
夜、再び本を開いた。
ページは昨夜見たものとは違う場所で開いた。まるで本自身が、読ませたいページを選んでいるかのように。
――あなたは怖がっている。
――でも、私は敵ではありません。
次のページをめくった。
――私は、あなたが否定し続けたものです。
――あなたが「大したことではない」と言い続けたものです。
ユイの手が震えた。
――あの日、研究室で。あなたは笑顔で答えた。
――でも、本当は。
――あなたは泣きたかった。
本を閉じた。
部屋の隅に、赤い光が灯っていた。
そして、ユイは鏡の中の自分を見た。
頬に、また新しい涙の跡があった。
鏡の向こうで、赤い骨格がより鮮明に、より美しく、立っていた。
第五章 記憶の再構成
三日後、ユイは再び本を開いた。
もう逃げられないことは分かっていた。怪物は毎晩現れる。姿を見せなくても、その存在は感じる。部屋の空気が変わる。影が濃くなる。
そして――自分の顔から涙が消えなくなっていた。
朝起きると、頬が濡れている。泣いた記憶はない。眠っている間に、無意識に涙を流しているのだろうか。
本は、あの日の記憶を繰り返し映し出した。
二〇一八年三月。研究室。指導教員。
だが、今度は違った。
本のページには、ユイが封じ込めてきた感情が記されていた。
――彼が肩に手を置いたとき、あなたは身を硬くした。
――「もっと親しくなれるといいね」という言葉を聞いたとき、あなたは逃げたかった。
――でも、笑顔を作った。「ありがとうございます」と言った。
――なぜなら、
ページをめくる手が止まった。
――なぜなら、あなたは「正しく」振る舞わなければならなかったから。
――問題を起こしてはいけない。
――大人として、学生として、女性として、「適切に」対処しなければならない。
――だから、あなたは感情を殺した。
――権力の前で。
――制度の前で。
――「正しさ」の前で。
ユイの目から涙が零れた。
いや――泣いてはいけない。これは大したことではない。ユイはそう自分に言い聞かせてきた。もっと酷い目にあった人はいる。自分は運が良かった方だ。研究室を変えることができた。卒業もできた。
大したことではない。
大したことでは――
次のページが、勝手にめくれた。
――それは嘘です。
――あなたは傷ついた。
――あなたは恐怖した。
――あなたは怒りを感じた。
――でも、それを認めることは、「正しくない」ことでした。
――だから、私が生まれました。
――あなたが泣くたびに。
――あなたが感情を取り戻すたびに。
――私は、完成していきます。
部屋の隅で、赤い骨格が立ち上がった。
ユイは怪物を見た。
怪物も、ユイを見た。
そして、ユイは理解した。
この怪物は――自分自身だ。
否定し続けた感情。封じ込めた怒り。「大したことではない」と言い続けた痛み。
それらが全て、この美しい骨格として具現化している。
そして――自分が感情を取り戻すほど、怪物は美しく、完璧になっていく。
回復することが、怪物を完成させる。
この倒錯に、ユイは気づいてしまった。
怪物は近づいてきた。
ユイは逃げなかった。
怪物の手が、ユイの頬に触れた。
冷たくはなかった。温かくもなかった。
ただ、そこにあった。
そして、ユイの頬から涙を拭った。
その瞬間、怪物の骨格がさらに輝きを増した。
完璧な美しさで。
第六章 読む者が怪物になる
本の最後のページは、空白だった。
ユイは一週間かけて、全てのページを読んだ。自分の過去、否定してきた感情、封じ込めた記憶。本はそれらを全て記していた。
そして今、最後のページだけが白紙のまま残っている。
赤い骨格は、ユイの隣に座っていた。
もう怖くはなかった。これは敵ではない。怪物でもない。
これは――自分の一部だ。
ユイは白紙のページを見つめた。
すると、文字が浮かび上がってきた。
――これで、終わりです。
――あなたは全てを読みました。
――では、最後の選択を。
次の行に、二つの選択肢が現れた。
――本を閉じる。
――それとも――
ユイは迷わず、本を閉じた。
瞬間、赤い骨格が光を失った。
怪物は消えていく。煙のように、影のように、ゆっくりと形を失っていく。
ユイは安堵の息を吐いた。
終わった。
これで――
だが。
本の最後のページが、勝手に開いた。
そこには、新しい文字が刻まれていた。
――あなたは、もう選びました。
――最初のページを開いた時に。
――「本を閉じる」という選択は、
――最初から、存在しませんでした。
ユイの手が震えた。
――あなたは読んだ。
――読んだ者は、書かれる。
――書かれた者は、読ませる。
――これが、赫い骨の書の、真実です。
部屋の隅で、赤い骨格が再び立ち上がった。
だが、今度は違った。
怪物は、ユイの中に入ってきた。
皮膚を通り抜け、骨に重なり、血に溶けていく。
ユイは叫ぼうとしたが、声が出なかった。
ただ、涙だけが流れた。
そして――涙が止まった瞬間。
ユイは自分の影を見た。
床に落ちた影が、赤く歪んでいた。
それは消えない。ユイが動けば、影も動く。光の下でも、闇の中でも、影は常にそこにある。
だが、今度は違う意味で。
ユイは立ち上がり、窓を開けた。
外は朝だった。
空が青く、風が冷たい。
ユイは深く息を吸い込んだ。
自分の中に、何かが変わったことを感じていた。
否定してきた感情は、もう消えない。
封じ込めた怒りは、もう閉じ込められない。
そして――それらは、もうユイ自身と区別がつかなくなっていた。
鏡を見る。
自分の顔が映っている。
だが、目だけが――
怪物と同じ、感情のない目をしていた。
ユイは本を手に取り、大学へ向かう準備を始めた。
エピローグ 書架に戻る本
旧図書館の地下書庫は、変わらず静かだった。
ユイは焼け焦げた書架の前に立ち、本を棚に戻した。
老司書は何も言わず、ただ頷いた。
「他にも」とユイは尋ねた。「こういう本は?」
老人は微かに笑った。
「ここには、読まれるのを待っている本が、まだたくさんある」
ユイは書架を見た。
焼け残った本が、幾つも並んでいる。どれも茜色の表紙をしている。
そして、自分が戻した本の背表紙に、新しい文字が刻まれているのを見つけた。
『赫い骨の書――焼けた影を読む者』
その隣の本には、まだ何も書かれていない。
「次の人が来たら」と老司書が言った。「君が案内するといい」
ユイは振り向いた。
老人は、諦めに満ちた目で彼女を見ていた。
――かつて、自分も誰かに案内されたのだろう。
――そして今、自分が案内する側になった。
ユイは何も言わずに頷いた。
階段を上がり、図書館を後にする。
数週間後。
新入生がユイの研究室を訪ねてきた。
「先輩、異端文献について教えていただけますか」
ユイは微笑んだ。
かつて自分が浮かべたのと同じ、適切な笑顔で。
「ええ、もちろん。実は、旧図書館の地下に面白い資料があるの」
「本当ですか?」
「ええ。案内するわ」
地下書庫への階段を降りながら、ユイは無意識に言った。
「読むなら」
「え?」
「――最後まで」
新入生は不思議そうに頷いた。
ユイの影が、微かに赤く歪んでいた。
焼け焦げた書架の前で、ユイは一冊の本を取り出した。
茜色の表紙。
「これ、面白いわよ」
新入生が本を受け取る。
表紙に触れた瞬間、少女の顔に微かな戸惑いが浮かんだ。
「あの、これ――」
「どうかした?」
「表紙が、なんだか温かい気がして」
ユイは何も言わず、微笑んだ。
怪物と同じ、感情のない目で。
地上への階段を上がりながら、ユイは振り返った。
新入生が、本を開いていた。
最初のページに、文字が浮かび上がる瞬間が見えた。
――新入生の名前が、刻まれていく。
ユイは階段を上がり続けた。
後ろから、小さな悲鳴が聞こえた気がした。
だが、振り返らなかった。
正しく振る舞わなければならない。
問題を起こしてはいけない。
それが、ユイの学んだことだった。
それが、全ての読む者が学ぶことだった。
影が、彼女に寄り添うように歩いていた。
微かに赤く歪んだ影が。
そして――その影の中に、無数の骨格が重なって見えた。
かつて読んだ者たち。
かつて読ませた者たち。
全てが、影の中で静かに脈打っていた。
(完)
赫い骨の書〜読んだ者は、読ませる者になる〜 ソコニ @mi33x
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