スクリーンという名の鏡――運命と認識を巡る映画批評選【ネタバレあり】

柚木平 亮

【メメント】唯識的態度と記憶の檻――意識外の現実をどう認めるか ※ネタバレ㊟

 ノーランは、この映画で現代における唯識的態度を象徴的に描き、その基盤である人の意識と認知の怪しさ、そして、逆に、一人の生としてはその唯識的態度で完結してしまえることの可能性を描いている。

 真っ当な議論としては、次の通りだろう。自分が感知できないところにも世界は存在しており、物語が展開されていて、それが自分に全く関係しない物語だったとしても、その存在を認め尊重する意識と、それは己にとって無いも同然と考える意識がある。ノーランがこの映画の主人公に設定した前向性健忘のレナードは、強制的に唯識的生き方をとらざるを得ない男だ。しかし、この物語の最後に、彼はそれの状況をを受け身にとらえているのではなく、それを自分の好ましい生を生きることに利用していたことが明らかになる。つまり、自分の好ましい物語を自分の過去として記録し、それを記憶としてしまうことで、あったことをなかったことにし、なかったことをあったことにしている。とても、したたかだ。

 レナードは、こうして、自分の意識を自分で形作っているので、その意識が認識している世界では自由自在だ。彼は最後に、世界は自分の意識外にも存在していることを認める。しかし、次の瞬間、その認めたことの記憶が無くなっている。

 ある人にとって、自分が意識できない物事はないも同然であり、記憶されないことはなかったも同然である。もちろん、この言説は正しさを含んでいる。しかし、それでも、意識外の世界、記憶外の過去は存在する。人の生き方、態度として、この事実を認めることは非常に重要だ。この認識は、人を自己中心の罠から解放し倫理的にするし、思いも寄らない出来事や変化に肯定的に対応できるようにさせる。意識外への想像力を持つことは自分の身を助けることでもあるはずだ。

 ここで、一つのパラドックスが立ち上がる。それは、こういうことだ。想像できた世界はその時から意識外ではなくなるということ。更に、現代では、意識外の世界で起こるどれが自分と無関係で、どれが自分に関係があるのかを特定することが難しいということ。それほど、世界のあらゆるところで起こっている沢山の物事が実は自分に関わっていると言っていい。それほど世界は繋がっている。

 我々にとって大切なのは、いろいろなツールを使い、情報を取捨選択しながら、できるだけ多くのことを意識内に取り込むこと、あるいは、想像力を使って、意識の内と外の境目を曖昧にしていくことなのではないか。

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