Ash

 

 私は卵。


 殻の中で温められている。

 あなたの体温で。

 あなたの呼吸で。

 あなたの持つ正しさで。

 あなたの心臓の鼓動に合わせて、私の中の何かが、ゆっくりと形を成していく。


 誰もが私を持っている。

 生まれた瞬間から。

 あるいは、そのもっと前から。

 母親の胎内で最初の細胞分裂が始まったとき、私もそこにいた。

 遺伝子の螺旋に巻き込まれるようにして。


 私は必要不可欠なもの。

 バラバラの個人が、ひとつに纏まる為に。

 孤独を癒やすために。

 「仲間」を感じるために。

 それを可能にするのは、愛でも、理性でも、契約でもない。

 私だ。私という熱だ。


 殻の中で、私は待っている。


 古い記憶がある。

 少年が広場を走っている。

 汗まみれの顔が紅潮している。

 大人たちが叫ぶ。「お前たちこそが未来だ!」少年は誇らしい。

 昨日まで父に叱られてばかりいた自分が、突然、未来になった。

 勉強ができなくても、スポーツが得意でなくても、ここで走れば、それでいい。

 私は、大きくなるのを感じる。


 母は布を縫っている。

 近所の女たちが集まって、針を刺していく。

 一針、一針。祈りを込めて。

 「どうか、無事に」とは誰も言わない。

 「どうか、立派に」と祈る。それが母の愛だった。

 私は、愛の形を変える。


 殻の内側から、何かが押し始める。


 親が子を諭している。

 あっちの道は危ないから行ってはいけません。

 あっちの子と遊んではいけません。

 子供の安全を願う、一点の曇りもない愛。

 その愛が、無意識のうちに「異物」を排除する。

 「高い壁」を築き、囲い込む。

 嫌なものを見せないように。汚いものを見せないように。

 囲いの外が綺麗になるわけもないのに。

 私は、その囲いの狭間に潜んでいる。


 昼下がりのカフェ。

 人は画面をスワイプする。

 遠い都市の爆撃映像に眉をひそめ、数秒後にはスイーツの動画に微笑む。

 「かわいそうに」

 その言葉より速く、指先は次の娯楽へ。

 命はデータになり、データは軽く消費される。

 その軽さが、私に羽をつけはじめる。


 殻がきしむ音がする。


 創作者が机に向かっている。

 アルゴリズムが教えてくれる。

 「これが人気です」

 「これが伸びます」

 「これがおすすめです」

 創作者は従う。従わなければ、誰にも見てもらえない。

 大事なのは数字だ。

 視聴率、収入、順位。

 再生数、フォロワー数、星の数。

 「いいね」が必要だ。

 数字がなければ、存在しないのと同じだ。

 芸術は、いつだって誰かの血を吸って育つ。

 私は、創造すら飼いならす。


 投票所に人々が列を作っている。

 一人ずつ、ブースに入っていく。

 迷いはない。誰もが同じ名前に印をつける。

 だってそうだろう。

 画面の向こうの「信頼できる誰か」が、そう言ったのだ。

 異論は邪魔だ。

 批判は敵だ。

 敵は消すべきだ。

 正しい者を守るために。

 投票用紙が、箱に吸い込まれていく。

 私は、選択を一つにする。


 ついに、殻が割れる。


 その時、あなたの隣に居るのは誰だろうか。

 「敵」だろうか「味方」だろうか。

 「悪」だろうか「善」だろうか。

 そんな単純なはずはないのに。

 「悪」と定義したのなら、それはもう「人」ではなくなる。

 排除すべき対象になる。

 正義の名のもとに。


 私は孵化した。


 白い箱を抱いた母親。

 軽い。

 あまりに軽い。

 中身は「誰かの子」だったはずの、何か。

 それでも母親は抱きしめる。

 「お帰り」と言う。

 「誇りだ」と言う。

 夜、箱を開けて探す。

 中を見る。

 子を探す。

 いない。


 私は飛び立つ。


 空を見上げる人々。

 皆、同じ方向を見ている。

 皆、同じ歌を歌っている。

 皆、同じものを求めている。

 これほどの一体感と目的を、他に何が生み出せるだろう。

 これほどの意味を、他に何が保証できるだろう。


 そして、また卵を産む。

 誰かの中に。


 私は何か。

 もう、わかっているだろうか。

 いや、まだわかっていないかもしれない。

 多分、あなたの中の私は、まだ大きくないのだろうから。


 それでも、私はもうあなたの中で温まっている。

 「でも、今回は違う」

 「でも、これは正当防衛だ」

 「でも、子供を守るためだ」

 「でも、データが証明している」

 「でも、みんなそう言っている」

 その「でも」こそが、私の殻だ。

 私を守り、育てる、暖かい殻。

 私は何か。



 私は戦争の卵。



 あなたが気づいたそのとき、私はもう孵っている。

 何度でも。

 形を変えて。

 名前を変えて。

 理由を変えて。


 だが、殻の温度だけは変わらない。

 ちょうどいい。

 人肌くらいが、ちょうどいい。

 殻の中は、暖かい。

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Ash @AshTapir

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