しおりちゃん

お肉にはワサビ

しおりちゃん

 しおりちゃんが結婚した。

 ラインの友達一覧にある彼女のアイコン画像は、ディズニーキャラクターのカチューシャをつけチュロスを手にほほえむ大学生から、真っ白なウェディングドレスの後ろ姿にかわっている。


 初めて会ったのは私が初めて転職した二十七歳の秋、彼女は当時就職活動を終えたばかりだったから、二十一歳か二十二歳か。

 彼女は自分の名字が嫌いと言っていたが、私からどいちゃんと呼ばれるのは嫌ではないと言っていた。だから、私が彼女を直接しおりちゃんと呼んだことはない。

 しおりちゃんとは誕生日が一日違いだった。数人いる学生バイトさんの中で唯一彼女とだけ個人ラインをする仲になったきっかけはそれだった。しおりちゃんはさそり座の女っぽくない性格だった。ザ・さそり座の女みたいなこの私としおりちゃんが、あまつさえ年齢も離れているのに親しくしていたのは、ひとえに彼女の包容力のおかげだったのだ。


 カフェのバイトははじめてという彼女は、喫茶店でフリーターをしていた私の前職をほめてくれた。私がまかないとして店のメニューにないキャラメルドリンクを作り、スチームミルクの表面にキャラメルソースでちょっとした模様を施すと、すごいすごいと喜んだ。

 その日先に上がったしおりちゃんはお菓子をくれた。コンビニで売っているなんの変哲もないチョコレートだったが、その場で包装紙に「うのさんへ!」とわざわざ書いてくれた。黒マジックで書かれた彼女の字はすこし右上に傾いていて、それはとくに“の”の字に顕著なのだった。

 私服勤務の職場でしおりちゃんからひそかに最近の若者ファッションの傾向を学び、ビッグシルエットが主流なのだと知った。就活を終えてやっとカラーができると喜んでいたしおりちゃんは、髪色をグレージュにするかアッシュにするかで悩んでいた。どちらでも似合うんじゃないかと思ったが、就職時にはまた黒に戻さなければならないことを考えて、どうせなら変わった色にしてみたらと言った。グリーンアッシュにしたしおりちゃんは色味に大変満足していた。

 シフトがかぶるたび、しおりちゃんはあれつくってくださいよと私におねだりした。毎回キャラメルソースの模様を変え、ミルクの種類やフレーバーの配分も変えてみたりして、そのたびに彼女は美味しそうに飲んでくれた。彼女の笑顔には相手も笑顔にさせる魔法のちからがあるのだった。


 転職先のオーナーは本業の片手間に趣味でカフェ経営をしているような人だったので、私が職場でしおりちゃんに直接お誕生日おめでとうを言う機会は訪れなかった。ハロウィーン後には他のスタッフもお客さんもいない店内で私ひとりがぽつんと店番をして帰るだけの毎日になっており、暇を持て余した私は店内音楽の有線を九十年代J-POPから最新K-POPチャンネルへと勝手に変えた。

 若い子に人気な音楽の魅力やみんな同じ顔に見えるメンバーの見分け方はしおりちゃんから教えてもらった。好きなものを語るしおりちゃんは私の相槌もままならないほど早口になって、鼻の穴が膨らむのが特徴だった。大学で韓国語を専攻していた彼女はハングルで私の名前を書いてくれた。次の出勤のときにCD貸しますね、とラインのピン止め機能で「うのさんにBTSぐっず貸す!!」とメモまでしていた。

 しおりちゃんとはずっとラインをしていた。そうして季節が冬を越せないうちに、私は契約社員の期間満了を待たず無職となった。


 しおりちゃんは大学卒業まで大手カフェチェーンでバイトすることにした。新メニューを紹介する手書き看板の制作を任せてもらえるようになったと写真を送ってくれた。とても素敵なチョークアートだった。彼女の勤務先に飲みに行って、実際に店頭に設置されている看板を見ては、うちのしおりが書いたんだぞと誇らしい気持ちになった。

 ブラックシャツとストレートジーンズをきっちりエプロンで締めた店員のしおりちゃんは、私が冷たいドリンクを買うたびにテイクアウトカップにメッセージをかいてくれた。「うのさん来てくれてうれしいです♡ またごはんいきたい!」

 どうしても捨てられなかったので、都度きれいに洗って部屋の芳香剤ビーズを入れた。自室はものすごくいいにおいになった。


 お母様の強い希望により結婚するまでは家を出られないということで、しおりちゃんは就職先で市内配属を希望していたが、入社研修は東京本社で行うとのことだった。マンスリーマンションは家具家電つきのため引っ越しに関する煩雑なあれやこれやもほぼなく、二か月間のひとり暮らしにしおりちゃんはうきうきしていた。

 心が弾むもうひとつの理由を私は知っていた。友達以上恋人未満のその同級生のことを彼女は“ニンニン”と呼んでいた。職場という接点がなくなった今もしおりちゃんとのラインが途切れないのは、元職場の愚痴と新生活の話題と並行してニンニンの話題があるからだ。出掛けた時に恋人繋ぎしちゃったとか、個室居酒屋でチューされたとか、しおりちゃんはこちらが赤面ものの報告を逐一送ってきた。彼との仲になにかあるごとにしおりちゃんは一喜一憂し、うのさん相談ですとラインを送ってきた。

 たいした恋愛経験どころか対人関係も希薄な私が彼女にアドバイスをするというのはおこがましかったが、その後にしおりちゃんからの赤面報告が来ることを期待している自分もいた。首につけられたというキスマークの写真が送られてきた時にはさすがにぎょっとしたが、厳しいお母様のいいつけを守るしおりちゃんは一線を越えないと言ってくれた。とはいえ彼女自身がどっちつかずの関係性を楽しんでいるのは明白だったので、告白して付き合わないのという野暮な質問はしなかった。

 彼も就職で千葉に引っ越すというので、研修中に寂しくなったら呼び寄せればいいじゃないと送った。しおりちゃんはうきうきしていた。心配だったが、彼女ならきっと大丈夫だという安心感もあった。身体に気を付けて、頑張りすぎないようにねと言った。しおりちゃんはうのさんも転職活動がんぱってくださいねと言ってくれた。


 地元に本配属となったしおりちゃんが見違えるほど大人びて見えたのは、染め直した黒髪のせいでもワンピースに羽織ったシアーのカーディガンのせいでもなかった。ランチをしながらお互いの近況を報告し合った。仕事は順調、上司もいい人、充実してる、しおりちゃんのピンクのリップからこぼれる言葉の数々に私は心感豊かな気持ちになった。

 研修中のひとり暮らしはほんとうに最高だったという彼女に、今はやっぱり実家から通動しているのと聞くと、彼女はアイスティーのグラスをゆっくりかき混ぜて窓の外を眺めた。お母さんの体調が悪いんですと告白された。

 お母様はもともとメンタルに不調を抱えていて娘に依存傾向があり、研修で家を開けた反動なのかこちらに帰ってきてからそれが顕著だという。病院にも通っているから、それに辛いのはお母さんだから支えたい、と、しおりちゃんは優しく微笑んだ。彼女は私の就活の悩みにもしきりに相槌を打って共感してくれた。 一年前、髪色に悩む無邪気な学生だった彼女を思い出し、泣きそうになった。

 ちなみにニンニンは彼女ができたらしく今ではすっかり疎遠とのことだった。職場にいい人はいないのかと聞いてみたら、同期のひとりがしつこく連絡してくるのだと笑って、しおりちゃんは横髪を指ですくって耳にかけた。その日彼女と別れた後に受けた飲食店の面接で採用され、私は新たな職場で働き始めた。


 しおりちゃんから転職を考えていると明かされたとき、私は職場でリーダーポジションを任されていた。新卒一年目の転職には驚いたが、より自分に合った仕事を求めて決断した彼女を率直に誇らしく思った。気の効いたアドバイスなどはなにもできなかったが、彼女はうのさんに話を聞いてもらえてよかったですと言った。

 四月一日にしおりちゃんは無事転職した。お母様の通う心療内科クリニックの事務員で、職場環境も業務内容も以前の仕事より合っているといい、同僚と撮った写真を送ってくれた。出会ったときと変わらないしおりちゃんの笑顔は、白衣を彼女に似合わせているのだった。


 しおりちゃんと私は揃ってマッチングアプリを始めた。お互いアプリには警戒心があったものの、しおりちゃんは職場での出会いがないと踏んだようで、ひとりで始めるのは勇気がいるけれどふたりなら心強いからと力説した。私は私で年齢的にもそろそろ婚活を視野に入れねばと思っていたところだったので、しおりがやるならと誘いに乗った。しおりちゃんはせーのでやりましょうと意気込んでいた。同じアプリを入れ、登録日も同じ日に。ただ私はアカウント設定にまごついてしまい、実際に始めたのはしおりちゃんの二日後だった。

 始めた当初は異性から百件以上のイイネがあったアカウントは、一週間もすれば一日五件にも満たなくなっていた。後で知ったのだが、プロフィール登録日から何日かは新規会員としてリストに載るらしく、だれしも異性からのイイネが多くなるという。 マッチしてもやり取りは続かず、通話したり会おうとなっても直前で相手からブロックされたり、もちろんその逆もあった。最もやり取りを重ねていた男性とは三回お会いしたものの、結局先には進められなかった。自分の市場価値の低さ、また人間としての未熟さ、 人生験の浅さを思い知らされた。

 しおりちゃんには毎日一日三十件以上のイイネがきていて、その中のひとりが、しおりちゃんの彼氏になった。幸運なその男は名をケンタといった。二回目のデートで水族館のクラゲの水槽の前で告白され、帰りに早々と飾られたクリスマスイルミネーションの前で記念の写真を撮ったのだと、しおりちゃんは恥じらいながら見せてくれた。まだどこか緊張した笑顔で画面に収まるあどけないふたりに、おいケンタなにしてる、しおりの肩を抱いてやらないかと頬を緩めた。私がアプリをアンインストールしたのはしおりちゃんから三ヶ月遅れてのことだったが、彼女には報告しなかった。


 しおりちゃんとケンタは休みを合わせてたくさん旅行に行った。神社の招き猫の前でポーズをとるふたり、満開の花畑で抱き合ってほほ笑むふたり、夕日の沈む海岸で寄り添うふたり、どんな写真もふたりだから絵になった。お気に入りだというプリクラの写真は自動加工でケンタにも女子メイクが施されており、しおりちゃんと二人でキャバ嬢のような顔になっていた。

 カフェで黒ゴマプリンを食べながら、私のマッチングアプリ惨敗エピソードにしおりちゃんは憤慨し、うのさんにはもっといい人がぜったい現れますよ、別のアプリのほうが合ってるのかも、と言って鼻の穴を丸くした。今度ケンタとふたりで私の職場に食べに来てよ、と言ってから、 デートには不向きなラーメン屋だということを思い出して私は恥じ入った。


 その職場を店舗移転に伴って辞めた私は、すぐに異業種の仕事に勤めたが、短期間で適応障害になった。休職を申し出るともう来なくていいと言われ、無職となって実家で療養した。ストレスで体重が減ってしまったと報告するとしおりちゃんはランチに誘ってくれた。

 駅前の商業施設のレストランフロアで一番人気の中華、ここの小龍包が食べたいので付き合ってください、と、しおりちゃんは私に気を使わせなかった。小皿をアラカルトで注文してシェアした。 しおりちゃんは羽根つき棒餃子も頼んだ。勢いよく飛んでしまった肉汁が彼女のネイビーのブラウスについた。

 彼女は全面的に私の味方をしてくれて、メンタル治療に関する制度や薬のことなど、医療事務としてもっている知識を惜しみなく分けてくれた。わたしうのさんより稼いでますから、と、しおりちゃんは胸を張ってお会計を全額支払った。こんなにすてきなお嬢さんをお育てになったお母様はきっと良くなられる、と思った。


 交際一周年記念日に、ケンタはしおりちゃんにネックレスと直筆の手紙をくれた。男らしい字で『史央里へ』と書かれた白い封筒を、顔を隠すように掲げたしおりちゃんの写真。この時泣いてたので撮らないでって言ったんですけど、とはずかしそうに笑うしおりちゃんに、彼女が選んだのがケンタでよかったと心の底から思った。

 年末のイルミネーションのせいか、ボルドーのタイトなニットのせいか、ベージュカラーをふんわり巻いた髪型のせいか、その時しおりちゃんはきれいになったなと思った。写真を撮ってもいいかときいたら、彼女はわたしが手土産に持ってきた台湾カステラの紙袋を大事そうに掲げてにっこりほほ笑んだ。しおりちゃんはほんとうにきれいになった。


 社会復帰のためアルバイトをしながら、私は趣味の舞台観劇ができるまでに回復した。 手違いで別日のチケットを余分に二枚取ってしまったので、ケンタと見に行かないかと連絡した。彼氏はいけないので母と見に行きますと返ってきた。

 当日開演前に駅前でチケットを渡した。会うのは半年ぶりだったが、ピンクベージュのコートを着たしおりちゃんはいつものかわいい笑顔だった。お代はいらないつもりだったが、しおりちゃんは菓子折りとともに包んでくれた。添えられたメモには彼女の字で「宇野さん ありがとうございます♡ またごはんいきましょうね!」と書いてあった。

 三日たって楽しかったと連絡があった。何度かメッセージの往復をして、スタンプを送り合った。


 私には再び精神不安定の症状がでた。以前通っていたクリニックは閉院していて、私はしおりちゃんを思い出した。

 彼女とのライントークは履歴の下の方にあった。日付を見ると最後のやりとりから一年がたっていた。二日後に返信が来た。「宇野さん、お久しぶりです。返信が遅くなってすみません」彼女は同じクリニックに勤めていた。お礼のメッセージを送信すると、労いの言葉とスタンプが返ってきた。結局私は別のメンタルクリニックを受診した。



 そんなしおりちゃんが結婚した。


 彼女のラインアカウントの背景にはお色直しのカラードレス姿の写真が採用されている。くすんだイエローは少し意外だったが、彼女に寄り添って見つめ合うタキシードの男性は紛れもなくケンタだ。

 久しぶりにトーク画面を開くと、真っ先に目に入るのはピン留めされたままの「うのさんにBTSぐっず貸す!!」。トークは一年半前の日付で止まっていた。過去に彼女から受信した写真は当然ながら有効期限が切れていてもう見ることはできないが、あの時の二人がこれから夫婦として生きていくのだと思うと、ついに娘さんがお家を出るときが来ましたね、と、なぜか顔も見たことのない彼女のお母様に声を掛けたくなる。

 私は今だに実家にいて転職活動をしている。私は彼女にとって日常的に連絡を取る仲でも、近況を心配する仲でも、結婚報告をするような仲でもない。過去の人、いや、もしかしたらもうすでに彼女の人生には私の足跡すら残っていないのかもしれない。

 彼女にはこれから愛する人との輝かしい未来が待っている。ラインのアイコンはどんどん幸せなものに変わっていくのだろう。しかしいつか彼女がアカウントを変更してしまえば、覗き見しているだけの私の中からも彼女は消えてしまう。彼女が生きている、私の知らないところで、私を知らないところで。

 その事実に、寂しさよりも嬉しいと感じるのはなぜだろう? 花嫁となった彼女を画面越しに見て、こんなにも目頭が熱くなるのは。


 私は彼女をしおりちゃんと呼んだことがない。今までも、これからも。そして今や、彼女の名字も呼べなくなってしまった。だからこの文章を彼女が目にすることも、おそらくない。私が一方的につないでいると思っている糸は、私が切れば切れるのだ。


 だからここに、私の中の彼女へ向けて、いま記しておく。


 しおりちゃん、結婚おめでとう。


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