第六章 霧谷の罠

 霧谷――かつて「精霊の泉」と呼ばれ、清らかな水が永遠に湧き出ていた聖地は、今や重く淀んだ瘴気と毒霧に覆われた死の谷と化していた。

 足を踏み入れるたび、靴底がぬかるみに沈み、冷たい湿気が肌を這う。

 濃霧は視界を白く塗り潰し、数メートル先さえぼんやりとしか見えない。

 時折、霧の隙間から現れるのは、歪んだ影――かつての水辺を棲み処としていた魔獣たち。

 今は瘴気に侵され、瞳を赤く濁らせ、牙を剥いて牙を剥くだけの狂気の塊と成り果てていた。


「ひとまず、瘴気よけの結界を張った。これで半日は持つはず」


 リラが両手を組み、指先で複雑な印を結ぶ。

 淡い銀色の光が二人の周囲を包み、毒霧がわずかに後退した。


「ありがとう。……でも、来る」


 アレンが言葉を終えるや否や、霧の奥から低く唸る息遣いが響いた。

「それ」が現れた。

 巨大な双頭の蛇。

 体長は二十メートルを超え、鱗は黒く濡れたように光り、瘴気の中で異様に進化した魔界種――「ミスト・ヴァイパー」と呼ばれる災厄級の怪物。

 片方の首からは灼熱の炎が、もう片方からは凍てつく息が、絶え間なく漏れ出していた。

 通常の防御術では即座に焼かれるか凍らされる、近づく者を許さない恐怖の化身。

 本調子ならこの程度の敵に手こずることはない。が、全盛期の3、4割程度の力しか出ないのであれば話は別だ。それに力を解放しようにも、誰かに封じられている。

(……クソッたれ)

 思わず叫びかけた衝動を、アレンは喉の奥で押し殺した。

(やっぱり……ダメか。光らない)

 胸の奥に宿るはずの力が、沈黙したまま。

 かつての特別な輝きも、身体を包むはずの強大な波動も、何も湧き上がらない。

 それでも、アレンは剣を構えた。

 瞳に迷いはなかった。


「来い……!力が戻らないなら、戻るまで戦うだけだ!」


 初撃は炎のブレス。

 灼熱の波が霧を焼き払い、二人の結界に直撃する。

 リラが咄嗟に防御の層を重ねたが、完全には防ぎきれず、アレンの背中を熱風が焦がした。


「くっ……!」


 二撃目は凍てつく息。

 空気が一瞬で凍りつき、地面に氷の棘が無数に生える。

 アレンは跳躍し、近くの枯れた木の枝を蹴って空中へ舞い上がる。


「裂けろ!」


 剣を振り下ろす。

 地を這うように霧を切り裂く刃が、蛇の胴体に浅い傷を刻んだ。

 しかし、深くは届かない。

 鱗は硬く、瘴気に守られている。

(……今の俺の力じゃ、まだ……)

 それでも。

(関係ない!俺はもう……「守れなかった」ままじゃいられない!)

 アレンの瞳が、赤く燃えた。

 心の奥底で灯る「意志」の炎が、封じられた特別な力とは別の、純粋な「戦士」の本能を呼び覚ます。

 彼は冷静に蛇の動きを観察した。

 片方の首が引くと、もう片方が突き出る。

反動で動く構造――攻撃と防御が連動している。


「そこだッ!」


 炎のブレスが放たれる瞬間を見極め、アレンはわざと飛び込んだ。


「突き抜けろ!」


 突進と同時に、地を抉るように剣を叩きつける。

 ブレスの起点である喉元を、正確に斬り裂いた。

ギャアアアアアアア!!

 双頭のうち、炎を吐く首が吹き飛び、血と瘴気が噴き出す。

 残る凍気の首が暴れ狂うが、リラが即座に氷結耐性の術を重ね、アレンが最後の閃光を放つ。

 一閃。

 剣が空を切り、凍気の首が地に落ちた。

 剣を収めるアレンの額には、うっすらと汗が浮かんでいた。


「……はぁ、はぁ……やった……」


 リラが駆け寄る。


「……無茶しすぎよ!もう少しで、焼き殺されてた!」

「でも……守れた。今の俺でも、守れたんだ」


 その言葉は、リラの胸に深く響いた。

 彼女の瞳に、涙がにじむ。

 そして――。

 霧の奥、崩れた岩の上から、その様子を静かに見下ろす影があった。

 漆黒のローブに覆われ、仮面の下から覗く冷たい視線。


「……面白い。制限された力の中で、これほどの戦い方をするとはな」


 シグモドの声は、重く、冷たく響いた。


「……だが、それではまだ足りぬ。お前の“力”は、そんなものではないはずだ」


 彼の言葉は、魔獣の亡骸のように静かに沈んだ。


「……我らが求めるのは、“真の力”を引き出すこと」


 その声は、風に紛れ、霧の中へと溶けていった。

 アレンはその存在に気づかぬまま、リラと共に静かに霧谷を後にした。

 だが、確かに感じていた。

 誰かが、自分の内側を試している。

 その「真意」を測ろうとする、黒い目の存在が――。

 霧谷の奥で、何かが静かに息を潜めていた。

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魔王を倒した英雄は、もう一度深淵へ向かう Omote裏misatO @lucky3005

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