第五章 黒き言葉と赤き決意
焦土と化したハヴェンの残骸を後にしたアレンとリラは、深淵の世界に点在する数少ない「避難の灯」へと向かっていた。
その名を「バルノの拠点」という。
かつての支配者が崩壊した後、中立を保ち続けた深淵種の者たちが、自らの手で築き上げた小さな安息地だ。
粗末な石壁と、瘴気を遮る薄い結界。
それでも、そこにはわずかな灯りと、生き延びようとする者たちの息吹があった。
魔界に秩序が失われた今、こうした場所こそが、散り散りになった者たちにとっての「希望の最後の砦」だった。
リラが抱えていた小さな深淵種の子ども――名をルスといった――は、拠点の治癒師によって手当てを受け、奇跡的に命を取り留めることが出来た。
幼い角はまだ柔らかく、灰にまみれた小さな翼は、震えながらも微かに動いていた。
「……あの村に残っていたのは、あの子一人だけだった」
報告を受けたリラは、唇を強く噛みしめた。
銀色の瞳に、抑えきれない悔しさが滲む。
アレンは、膝の上に置いた激戦を潜り抜けてきたであろう傷だらけの剣を握りしめたまま、ただ黙っていた。
(守れなかった……)
あの焦土の村で、彼は確かにすべての狂った獣を倒した。
だが、救えた命は、たった一つだけ。
胸の奥に宿るはずの力が沈黙したまま。
全盛期の三、四割にも満たない力では、敵の攻撃を完全に弾くことも、広範囲を守ることもできなかった。
(今の俺の力じゃ……まだ、足りない)
静かな悔恨が、心の底で渦を巻く。
そんな中、拠点に新たな一報が届いた。
「東の霧谷に、残党と思われる集団が出没している。あの黒衣の男……シグモドと名乗る者も、そこに姿を見せたとのことだ」
「……霧谷?」
アレンが顔を上げる。
拠点の古老――皺だらけの顔に深い傷跡を刻んだ深淵種の男――が、重い声で答えた。
「元は、水の聖地だった場所だ。今は瘴気の渦に飲み込まれ、息もできないほどの濃霧が立ち込めている。まともな者は、近づくだけで正気を失う」
「奴は、あえてそこを選んでいるんだ。こちらが追いにくいことを、よく分かっていて」
リラが低く呟く。
その言葉には、苛立ちと警戒が混じっていた。
だが、アレンは静かに立ち上がった。
「俺が行く」
「……!」
周囲の者たちが息を呑む。
「俺が、行って確かめる。あいつが何を狙っているのか。それに……」
アレンは腰の剣に手を添えた。
古い鞘が、微かに震える。
「もし、また誰かが襲われるなら――今度こそ、守る」
その瞳には、揺るぎがなかった。
ただ、静かで、赤く燃えるような決意だけが宿っていた。
リラは一瞬、言葉を失った。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。でも、一人では行かせない。私も行くわ」
* * *
霧谷への道中、二人はほとんど言葉を交わさなかった。
灰色の空の下、赤黒い荒野を抜け、徐々に空気が重く淀んでいく。
その沈黙の中で、アレンはようやく胸の内を吐露した。
「……おかしいんだ。俺の“印”――ただ眠ってるんじゃない。何かに、封じられてる感覚がある」
リラが足を止める。
「封じられてる……?」
「うまく説明できない。でも、感じるんだ。
何か、強い“封印”が、俺の力の奥深くに絡みついてるような……。そう、まるで……あらかじめ“俺の力”を知っている誰かが、それを止める術を、最初から持っていたみたいな」
リラの瞳が見開かれた。
「それって……意図的な封印ってこと?」
「たぶん。でも、誰が、どうやって、なぜ封じたのか……まだ何も分からない。ただ、俺の力が制限されてるのは、偶然じゃない」
二人は互いに視線を交わした。
そこには、言葉にできない確信があった。
これは、単なる偶然の不運ではない。
誰かが――何かが――アレンの力を、意図的に抑え込んでいる。
霧谷の入口に差し掛かると、空気が一変した。
濃厚な瘴気が、肌を刺すようにまとわりつく。
視界は白く濁り、足元さえぼんやりとしか見えない。
息をするたび、肺に冷たい毒が染み込むような感覚。
そして、その霧の奥から――低く、嘲るような笑い声が響いた。
新たな罠が、確かに待ち構えていた。
だが、アレンは一歩も引かなかった。
守れなかった命の痛み。
再び誰かを救いたいという、赤く燃える願い。
そして、自分自身を信じる意志。
それらが、胸の奥で一つに溶け合い、静かな、けれど激しい炎となって灯っていた。
彼は剣を握り直し、霧の奥へと踏み出した。
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