第38話 上司が“傷ついた”と言い出すとき


オフィス・午後。

会議室の空気が、

わずかに湿っている。

佐伯ミナは、

対面の席に座っていた。

向かいには、

部長・山岸。

資料は、

すでに閉じられている。

山岸

「……で」

山岸

「君の指摘だけど」

佐伯

「はい」

山岸

「正直に言うとね」

一拍。

山岸

「傷ついたよ」

その言葉が、

机の上に

落ちる。

山岸

「皆の前で

 ああいう言い方を

 されると」

山岸

「人格を

 否定された

 気がした」

佐伯は、

表情を変えない。

佐伯

「確認します」

山岸

「……何を?」

佐伯

「“傷ついた”という

 感情は」

佐伯

「私の

 業務指摘に対する

 評価ですか」

山岸

「……そうだね」

佐伯

「では」

佐伯

「内容についての

 反論は

 ありますか」

山岸

「……」

沈黙。

山岸

「正論なのは

 分かってる」

山岸

「でも」

山岸

「言い方って

 ものがあるだろう」

佐伯

「“言い方”の

 どの部分が

 問題でしたか」

山岸

「……」

山岸は、

言葉を探す。

山岸

「ほら」

山岸

「気持ちの問題だ」

佐伯は、

一度だけ

メモを取る。

佐伯

「整理します」

佐伯

「現在の論点は

 二つあります」

佐伯

「一つは、

 業務上の指摘が

 適切だったか」

佐伯

「もう一つは、

 その結果

 あなたが

 傷ついたという

 感情です」

山岸

「……」

佐伯

「この二つは

 別の

 処理項目です」

山岸

「……冷たいな」

佐伯

「いいえ」

佐伯

「分離しています」

山岸

「でもね」

山岸

「部下が

 上司を

 傷つけるって」

山岸

「どう思う?」

佐伯

「確認します」

佐伯

「“傷ついた”ことを

 理由に」

佐伯

「業務指摘を

 撤回させたい

 という

 意思はありますか」

山岸

「……そこまで

 言ってない」

佐伯

「では」

佐伯

「感情は

 判断材料では

 ありません」

山岸

「……」

佐伯

「上司の感情は

 重要です」

佐伯

「ですが」

佐伯

「権限を

 持つ側の感情は」

佐伯

「“圧力”に

 変換されやすい」

山岸の眉が、

わずかに

動く。

佐伯

「“傷ついた”という

 表明は」

佐伯

「無自覚な

 防御であり」

佐伯

「同時に

 議論の

 遮断です」

山岸

「……遮断?」

佐伯

「はい」

佐伯

「内容ではなく

 感情で

 止めている」

沈黙。

山岸は、

深く

息を吐いた。

山岸

「……じゃあ」

山岸

「俺は

 どうすれば

 よかった」

佐伯

「こうです」

佐伯

「“指摘内容は

 理解した”」

佐伯

「“表現について

 調整を

 相談したい”」

佐伯

「それなら」

佐伯

「感情は

 扱えます」

山岸

「……」

山岸

「俺は」

山岸

「上司だぞ」

佐伯

「はい」

佐伯

「だからこそ」

佐伯

「感情を

 盾にしては

 いけません」

山岸は、

しばらく

黙っていた。

やがて、

小さく

頷く。

山岸

「……分かった」

山岸

「次からは」

山岸

「そう言う」

佐伯

「ありがとうございます」

会議室を出る。

廊下。

田中が、

小声で

声をかける。

田中

「……正直」

田中

「上司が

 “傷ついた”って

 言うと」

田中

「何も

 言えなく

 なります」

佐伯

「それが

 効果です」

田中

「……え」

佐伯

「意図的で

 なくても」

佐伯

「結果として

 沈黙を

 生みます」

田中

「……怖いですね」

佐伯

「はい」

佐伯

「だから

 処理します」

佐伯は、

立ち止まり、

一行だけ

記録する。

メモ

16:18

感情表明(上位者)

用途:議論遮断

対応:論点分離

――ナレーション

感情は、

誰のものでもある。

だが、

権限を持つ者の感情は、

武器に変わる。

ここは、コミュニケーション許可局。

佐伯ミナは今日、

上司の心を

否定しなかった。

ただ、

判断の場から

静かに

降ろしただけだった。

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コミュニケーション許可局 53歳おっさんテケナー @52saiossanTekenaa

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