第37話 部下からの許可申請
オフィス・午後。
曇りガラス越しの光が、
フロアを均一に照らしている。
佐伯ミナは、
専門部署の席で
書類を確認していた。
紙の音だけが、
規則正しく響く。
その静けさを、
小さな声が破った。
若手社員・杉本
「あの……佐伯さん」
佐伯
「はい」
杉本は、
少し距離を保ったまま
立っている。
杉本
「相談……というか」
一拍。
杉本
「確認しても
いいですか」
佐伯
「内容によります」
杉本
「……上司との
やり取りについてです」
佐伯
「業務ですか」
杉本
「はい」
佐伯
「着席してください」
会議用の小テーブル。
二人の間には、
何も置かれていない。
杉本
「昨日」
杉本
「課長から
“もっと踏み込んで
フォローしろ”って
言われたんです」
佐伯
「具体的には」
杉本
「退職を
迷ってる部下がいて」
杉本
「夜でも
連絡取れって」
佐伯
「業務時間外の
対応ですね」
杉本
「はい」
杉本
「でも……」
杉本
「その人、
“そっとしてほしい”
って言ってて」
杉本の声が、
少しだけ
揺れる。
杉本
「それで」
杉本
「課長に
“どこまで
踏み込んでいいか
決めてほしい”
って言ったら」
佐伯
「返答は」
杉本
「“空気読め”
でした」
佐伯は、
一行メモを取る。
佐伯
「あなたは
どうしたいですか」
杉本
「……」
杉本
「踏み込みたく
ありません」
杉本
「でも、
逆らうのも
怖いです」
佐伯
「では」
佐伯
「あなたは
上司に対して
“境界線”を
引きたいと
考えていますね」
杉本
「……はい」
佐伯
「確認します」
佐伯
「あなたは、
業務命令として
それを
受け取っていますか」
杉本
「……曖昧です」
佐伯
「では」
佐伯
「整理が
必要です」
数分後。
会議室。
課長・西村が、
腕を組んで座っている。
西村
「で?」
西村
「何の話?」
佐伯
「確認です」
佐伯
「昨日の指示は、
業務命令ですか」
西村
「……いや」
西村
「指導だよ」
佐伯
「評価に
影響しますか」
西村
「……そこまでじゃ」
佐伯
「では」
佐伯
「杉本さんは
拒否できます」
西村
「……は?」
杉本の肩が、
わずかに
強張る。
西村
「部下が
上司の指示を
断るって?」
佐伯
「違います」
佐伯
「杉本さんは
“許可を
求めています”」
西村
「許可?」
佐伯
「はい」
佐伯
「“踏み込まない
という選択を
取る許可”です」
西村
「……逆じゃないか?」
佐伯
「いいえ」
佐伯
「権限の強い側が
常に
許可を
与えるとは
限りません」
西村
「……」
佐伯
「今回の行為は、
部下本人の
判断領域に
属します」
佐伯
「そのため」
佐伯
「杉本さんは
あなたに
“踏み込まない”
許可を
申請しています」
沈黙。
西村
「……部下が
上司に
許可?」
佐伯
「新しい構図ですが、
不適切では
ありません」
西村
「……」
西村は、
杉本を見る。
西村
「……お前」
西村
「本当に
嫌なのか」
杉本
「……はい」
一拍。
西村
「……分かった」
西村
「無理に
やらなくていい」
杉本
「……ありがとうございます」
西村
「ただし」
西村
「経過は
共有しろ」
佐伯
「それは
業務です」
西村
「……ああ」
会議室を出る。
廊下。
杉本
「……あの」
杉本
「正直」
杉本
「こんなこと、
言っていいとは
思いませんでした」
佐伯
「言っていいか
どうかでは
ありません」
佐伯
「選択できる
構造が
あるかどうかです」
杉本
「……怖かったです」
佐伯
「はい」
佐伯
「“下からの線引き”は、
常に
恐怖を
伴います」
杉本
「……でも」
杉本
「助かりました」
佐伯
「それは」
佐伯
「あなたが
申請したからです」
杉本
「……申請」
佐伯
「許可は、
上から
降りるもの
だけでは
ありません」
佐伯
「下から
差し出すことも
できます」
杉本は、
深く
息を吐く。
杉本
「……覚えます」
佐伯
「はい」
杉本が
去ったあと、
佐伯は
一行だけ
記録を残す。
メモ
15:42
許可申請:下位者
成立:条件付き
業務影響:軽減
――ナレーション
境界線は、
権力者だけの
特権ではない。
恐怖を越えて
差し出された
許可申請は、
上下関係を
一瞬だけ
無効化する。
ここは、コミュニケーション許可局。
佐伯ミナは今日、
命令を
覆したわけではない。
選択の
主語を、
正しい場所に
戻しただけだった。
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