年末大掃除殺人事件

脳幹 まこと

掃除してやったのさ、あのゴミを



「犯人は――あんただ」


 学生探偵・御手洗みたらい 清一郎せいいちろうの指が、鋭く一人の男を射抜いた。

 株式会社ニューライズ商事、経理課。年末の大掃除で賑わうはずだったこのオフィスは今、重苦しい沈黙に包まれている。

 床に散らばった書類、倒れた観葉植物、そして――白いシーツを被せられた「それ」。

 営業部の花形社員・高梨 誠たかなし まことが、給湯室で息絶えていたのは、つい三時間前のことだった。

「馬鹿な……!」

 指を差された男――経理課の窓際社員・蛭田ひるだ まもるは、わなわなと唇を震わせた。四十代半ば、冴えない風貌、覇気のない目。誰が見ても「いかにも」な男である。

「証拠は挙がってるんだ」清一郎は腕を組み、鼻で笑った。「給湯室に残された足跡、あんたの靴底と完全に一致した。それに、凶器のモップの柄からは、あんたの指紋がベッタリだ」

「モップで人を……」刑事の山岡が呟く。「なんとも年末らしい凶器ですな」

「くっ」

 蛭田は膝から崩れ落ちた。その姿を、同僚たちが固唾を呑んで見守っている。

 やがて男は、ゆっくりと顔を上げた。

 その目には、暗い炎が宿っていた。

「ふ、負けたよ――流石だなあ、探偵くん」

 不気味な笑いが、オフィスに響く。

「そうさ、俺がやったんだ」

 蛭田は立ち上がった。その顔には、もはや覇気のない窓際社員の面影はない。追い詰められた獣のような、それでいてどこか達観したような、そんな表情を浮かべていた。

「掃除してやったのさ」

 男は窓の外を見つめながら、呟いた。

「あの――ゴミをな」



「ゴミ……だと?」

 清一郎の眉が跳ね上がる。

 蛭田はゆっくりと振り返った。その目には、深い闇――いや、なんというか、よくわからない執念のようなものが渦巻いていた。

「探偵くん……君にわかるか? この会社で十五年――俺がどんな思いで生きてきたか」

「……」

「営業成績は万年最下位。企画を出せば即座に却下され、会議で発言すれば失笑を買う。俺はこの会社でいてもいなくても変わらない、透明な存在だったのさ」

 同僚の一人が、小さく息を呑んだ。

「蛭田さん……そんな思いを……」

 蛭田は拳を握りしめた。

「だがな……年に一度だけ、俺が輝ける日があった」

「まさか――」

「そうだ」

 男は、静かに、しかし確かな声で言った。

「年末の、大掃除だ」

 オフィス内がどよめく。

「大掃除……!」「そんな……!」「蛭田さんにとって、それほどまでに……!」

 大仰な反応が広がる。まだだ。まだ何かがあるはずだ。全員がそう思っていた。

「俺の掃除能力は、この会社で群を抜いていた。床の雑巾がけ、窓拭き、書類の整理……だが、何より俺が得意としていたのは――ゴミの回収だった」

「ゴミの……回収……!」

 清一郎が眉をひそめる。周囲の社員たちも、神妙な面持ちで頷いている。そう、これは序章に過ぎない。本当の動機は、この先にあるはずだ。

「ああ。毎年、大掃除の後には『ゴミ回収量ランキング』が発表される。非公式なものだがな。そして俺は――十五年連続で、その頂点に君臨し続けてきた」

「じゅ、十五年……!」

「『ゴミの蛭田』……それが俺の二つ名だった」

 そんな二つ名は知らない――

 各員が心の中でそう思いながらも、真剣な表情を崩さない。

「年末だけは、皆が俺を見た。『さすが蛭田さん』『今年も蛭田さんがトップか』……その言葉だけが、俺の存在証明だったんだ」

「存在証明……!」

「なんということだ……!」

 同僚たちは顔を見合わせた。確かに動機としてはスケールが小さい。だが、人の心の闇は様々だ。ここから何か、もっと深い真相が出てくるに違いない。

 蛭田は天井を仰いだ。

「だが……その栄光には、暗い影があった」

「暗い影……!」

 そら来た。全員の背筋が伸びる。やはりそうだ。ここからが本番だ。



「暗い影だって……!?」

 清一郎の声に、緊張が走る。周囲の社員たちも、固唾を呑んで蛭田の言葉を待った。

「俺は」

 蛭田は苦しそうに顔を歪めた。まるで、長年胸に秘めてきた罪を告白する罪人のように。

「俺は――ゴミを水増ししていたんだ」

「なっ……!」

「なんですって……!?」

「ゴミを……水増し……!?」

 オフィスに衝撃が走る。いや、走ったふりをする。全員が必死で大仰なリアクションを維持していた。

 まだだ。まだ何かあるはずだ。水増しの裏には、きっともっと大きな陰謀が――。

「そうだ」蛭田は唇を噛んだ。「俺は、近隣のオフィスビルを回り、他社のゴミを密かに回収していた。古新聞、空き缶、使用済みのコピー用紙……それらを夜中にこっそりこのオフィスに持ち込み、自分の担当エリアにばら撒いていたんだ」

「ばら撒いて……いた……!」

「そして翌朝、何食わぬ顔でそれを『掃除』する。マッチポンプだよ、探偵くん。自分で火をつけて、自分で消す。俺のゴミ回収量は、虚構の上に築かれた砂上の楼閣だったんだ」

「砂上の楼閣……!」

 お、おう。

 蛭田は両手で顔を覆った。

「領収書の水増し請求……架空取引……この世には様々な『不正』がある。だが俺の罪は、それらにも匹敵する――いや、ある意味ではそれ以上に卑劣な行為だった」

「なんと卑劣な……!」

 同僚の一人が叫ぶ。だがその目は泳いでいた。

 匹敵しないだろ。全然匹敵しないだろ。でもまだだ。きっとこの先に――

「十五年だ! 十五年間、俺はこの罪を背負って生きてきた! ゴミを撒き、ゴミを拾う……その繰り返しの中で、俺自身がゴミになっていくような感覚……! わかるか、この苦しみが!」

「なんというごう……!」

 わからん。正直全然わからん。だが、きっと、まだ――

「そして」蛭田の目が、鋭く光った。「あの男――高梨 誠が、すべてを見ていたんだ」

 蛭田の声が、低く、暗く響いた。さも憎しみがありそうに。

「今朝の午前六時……俺は例年通り、他社から回収したゴミをオフィスにばら撒いていた。だがその時――」

「目撃された、というわけか……! あんたの真の顔を……!」

 清一郎が鋭く言う。その目には、まだ期待の光があった。

 そうだ。ここからだ。きっと高梨には何か裏がある。実は高梨も悪事に手を染めていて、それを蛭田に知られまいと――。

「ああ……」蛭田は歯を食いしばった。「あいつは、驚いた顔で俺を見ていた。そして……笑ったんだ」

「笑った……!?」

「『蛭田さん、何やってるんですか?』……あの爽やかな笑顔で、そう言いやがった」

 蛭田の拳が震える。

「俺は悟った。あいつは俺を強請ゆするつもりだと」

「いや……普通に疑問に感じただけでは……?」

「黙れ!」蛭田は叫んだ。「あいつは営業部のエースだ。会社中から慕われ、女子社員からもモテモテ。そんな男が、俺のような負け犬の秘密を握った……どうなるかわかるだろう?」

「ま、まさか……」

 同僚たちは息を呑む。そうだ。きっと高梨は、その情報を使って蛭田を支配しようとしていた。あるいは、会社全体を巻き込む大きな陰謀の一端が――どちらにせよ、被害者の方がとんでもない巨悪だったということになれば、まだ巻き返せる。

「奴は俺を晒し者にするつもりだったんだ! 『ゴミの蛭田は、実はゴミを水増ししていた』――そんな噂が広まれば、俺は! 俺の十五年間は! すべてが無に帰す! それだけじゃない! これをネタに骨の髄までしゃぶり尽くされることは間違いないだろう!」

 蛭田は天を仰いだ。

「だから俺は――先に掃除することにした」

「掃除……!」

「ああ。ゴミは、出たその日のうちに処分するのが鉄則だろう?」

 蛭田の目が、狂気に染まる。

「それで俺は給湯室に奴を呼び出し、モップの柄で――」

「待ってください」

 清一郎が手を挙げた。

「ちょっと確認させてください」

「……なんだ」

「つまり、あなたは」

 清一郎は、慎重に言葉を選びながら言った。

「ゴミの回収量を……水増ししていたのを見られたから……口封じに殺した……そういうことですか?」

「その通りだ」

「……それで、全部?」

「全部だ」

「他には?」

「ない」

「高梨さんとの間に、もっと深い因縁とかは?」

「特にない。今朝初めて話した」

「……何か、組織的な陰謀とかは?」

「俺一人の犯行だ」

「裏で糸を引いてる黒幕とかは?」

「いない」

「じゃあ本当に、ゴミの水増しがバレそうになったから殺した、それだけ?」

「それだけだ」


 長い、長い沈黙が流れた。



 オフィスの空気が、凍りついていた。

 今まで必死で大仰なリアクションを維持していた同僚たちの顔から、一斉に表情が消えた。

「……」

「……」

「……」

 全員が――山岡刑事も、同僚たちも、そして名探偵・御手洗 清一郎も――完全にドン引きしていた。

「……」

 清一郎は口を開こうとして、閉じた。もう一度開こうとして、また閉じた。

そして――

「れ、0点です……」

 普段のフランクな口調が、完全に消えていた。

「は?」蛭田が目を丸くする。

「申し訳ございません」清一郎は深々と頭を下げた。「怒りのあまり語尾が荒くなることはあったんですけど、丁寧語になるのは初めてですね」

「え、いや、ちょっと待っ――」

「程度が低すぎるとこうなるんですね」清一郎は遠い目をした。「ありがとうございます。本日、僕は一つ、新たな知見を得ました」

「ありがとうございますって何――」

「本当の本当に0点です」清一郎は淡々と続けた。

「今まで色んな犯人を見てきました。復讐、怨恨、愛憎、金銭トラブル……どれも許されることではありませんが、少なくとも『わからなくはない』と思える動機でした。中にはサイコパスって感じのもありましたね。愉快犯とかそういうのも含めて、やっぱり『わかる』部分はありました」

「俺のだって――」

「ゴミの水増しですよね」

「……」

「ゴミの、水増し」

「……うん」

「人、殺してますよね」

「……殺した、ね」

「ゴミの水増しで」

 蛭田の顔から、血の気が引いていく。

「あの、僕はですね」清一郎は額を押さえた。「あなたが『掃除してやったのさ……あのゴミをな』って言った時、正直ちょっとワクワクしました。おっ、今回も深い動機来るな、って」

「……」

「来なかったですね」

「……」

「むしろ浅瀬で溺れてましたね」

 山岡刑事が、そっと蛭田の肩に手を置いた。

「蛭田さん、連行しますよ」

「あ、はい……」

 失意に俯いたままの彼に、総務部の渡辺さんが蛭田さん、と呼びかけた。

「あの、私、『ゴミ回収量ランキング』なんて知りません」

「えっ」

「みんな知らないと思いますよ。そもそも総務部が大掃除の計画を立てているので」

 蛭田は、信じられないという顔で周囲を見回した。同僚たちは、一様に目を逸らした。

「十五年連続トップ……」

「知りません」

「『ゴミの蛭田』……」

「初耳です」

「俺の、存在証明……」

「ほんと、なんだったんでしょうね」

 蛭田の目から、涙が一筋流れ落ちた。

 二人の警官が、蛭田の両脇を抱える。連行が始まろうとした、その時――。

「待ってくれ」

 蛭田が、静かに言った。


「……最後に、一つだけ言わせてくれ」


 山岡刑事が眉をひそめる。しかし、何かを察したのか、小さく頷いた。

 蛭田は振り返り、オフィスを見渡した。その目には、不思議な光が宿っていた。

「俺は……確かに"ゴミ"を"水増し"した」

 蛭田は窓の外を見つめた。夕暮れの光が、その横顔を照らしている。

「だが……皮肉なものだな」

「……」


「最後には俺自身が――文字通り、"水に流される"ことになるとはね」


 長い沈黙が流れた。

 蛭田はちらりと周囲を見た。反応がない。

 構わず、彼は続けた。

「年末の大掃除で、"オフィス"を片付けるつもりが……」

 蛭田は自嘲気味に笑った。


「"人生"まで片付けちまったってわけだ……ふっ」


「……」


「そして"罪"は"積み荷"……俺は"詰み"に」


 蛭田は目を閉じた。

「なあ探偵くん、聞こえるか? 除夜の鐘が」

 聞こえない。まだ12月29日である。


「あれは俺の"罪"を……いや、"ゴミ"を弔う鎮魂歌なのかもしれないな……」


「……」


「……この罪だけは、どれだけ掃除しても"拭い去れない"……」


 蛭田は、最後にオフィス全体を見渡した。


「いや、"拭い去れない"からこそ……」


 そして、静かに、しかし確かな声で言った。




「――大掃除、なのかもな」




 完璧な間だった。少なくとも、蛭田はそう思った。

 長い、長い沈黙が流れた。


「……」

「……」

「……」

 蛭田は、おずおずと口を開いた。

「……どう?」

「行きますよ」

「えっ」

「さ、行きましょう」

「いや待って、今めちゃくちゃ言葉遊び――」

「行きますよ」

「『水増し』と『水に流される』で韻踏んで――」

「行きます」

「『片付ける』を二重の意味で使って――」

「足動かしてください」

「『罪』と『積み』と『詰み』で三段活用――」

「前向いてください」

「最後の『拭い去れないからこそ大掃除』とか結構キレイにまとまって――」

「蛭田さん」

 山岡刑事が、静かに、しかし威厳を込めて言った。

「私たちは今、あなたの戯言ポエムに付き合うだけの暇はないんです」

「ポエムじゃないけど……」

 蛭田は、しょんぼりと肩を落とした。

「……誰も、聞いてなかったの?」

「聞いてましたよ」

「じゃあ――」

「だから0点なんです」

 蛭田は「ええ……?」という顔をしながら、オフィスを後にした。

 その背中は、誰の目にも――ただひたすらに、哀れだった。



「なあ、清一郎」

 事件後、オフィスを出た清一郎に、山岡刑事が声をかけた。

「なんですか」

「お前、あれの自供に『0点』と答えていたが、過去最低はいくつだったんだ?」

 清一郎は少し考えて、答えた。

「12点かな」

「ほう。どんな動機だった?」

「隣人がベランダで育ててたゴーヤを盗んだのがバレて、逆上して殺した事件がありました」

「それで12点か」

「でもあの時はゴーヤは実在してたから」

「なるほど」

「ゴミのランキングは実在すらしてないからね」

 二人は、寒空の下、深いため息をついた。

「……しかし」山岡が呟いた。「あれ、最後もなんか色々言ってたな」

「全部聞き流しました」

「奇遇だな、俺もだ」

「なんか『水に流される』とか言ってた気が」

「言ってたか」

「よく考えると、ちっとも流されてない気が。普通に逮捕されてるし」

「そうだな」

「『人生片付けた』とかも言ってたっけ」

「言ってた、ような」

「片付いてないですよね、むしろ散らかしましたよね」

「ああ」

「最後の『拭い去れないからこそ大掃除』とかは」

「知らん」

「ですよね」

 年末の風が、二人の間を吹き抜けていく。

「さて」山岡が呟いた。「俺たちも、仕事納めだな」

「ええ」

「……来年は、もうちょっとマシな動機の事件がいい」

「僕もです」

 清一郎はポケットに手を突っ込み、駅への道を歩き出した。


 ふと、声がした。


――なあ探偵くん、聞こえるか? 除夜の鐘が……

――この世は煩悩に満ちている。一〇八程度ではとても足りはしない。俺を捕らえたとしても、悪が片付くことは決してないのだ……

――人間がゴミを捨てるのを止められないように、そして「五三九二番! うるさいぞ!」あ、ちょっ「就寝時間だ! さっさと寝ろ!」


 清一郎は、小さく首を振った。

「やっぱ0点だわ、あれ」

 その呟きは、年末の風に溶けて消えた。

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