【3】 昭和の足音




「この前のトイレが全然だめでさー、全く気が晴れなかったんだよー!」


 休日の昼下がり。

 近くの駅ビルのカフェで向かい合っているのは、大学時代からの友人、智子。

 彼女は私のちょっと強めな「トイレ好き」を、ある程度知っている数少ない友人でもある。


「唯依、小学生の時から何かあったら一生トイレにこもってたもんな」

 智子は、有機栽培のハーブティーを一口ぐびりと飲んだ。



「なんでさ、最近の人類はエコ、エコって何でもエコにしたがるのかね。いいじゃん、トイレくらい溜めとけば」

 私は思わずぼやいてしまう。



 私は別に本気で、エコを嫌っているわけではない。

 排泄物を勝手に分解された恨みをぶちまけているだけだ。


「エコは大事よお? 唯依」


 智子は怪しげな笑みを浮かべながら言った。

「最近、私が所属した団体は地球のこと、エコのこと、真剣に考えているんだよ」


「あんた、まーた怪しい団体に首突っ込んでるの?」

 私は目を細めて、口を尖らせる。


 彼女は以前、マルチ商法のコミュニティに深々と足を突っ込んだことがあって、商品を何度も売りつけられそうになった。その時出てきたものは『使うだけで気持ちが落ち着く活性木材のお皿』だった。


 意味不明だよね。



「怪しいとは失礼ね。100年後、1000年後の未来の地球に向けて真剣に考えているだけよ」


 智子は、どぎつい香草が混じり合った匂いのハーブティを、ドクドクドクと注ぎ足していく。


「ふうーん。何してるの? 実際」

 あんまり、興味ないけど、とは言わなかった。


「リサイクルとリユースね。極力、家から無駄なものを出すのは辞めましょうっていうね」

「なんだ。ゴミ捨て場に書いてあることとそんなに変わらないじゃん」

 私はつまらなさそうに言った。


「違うの。私達の活動はね、リサイクルして、ちゃんと体内に取り込むの」

 彼女は目をギラギラさせながら続けた。


「人間ってね、本来は完璧な球体なの。食事をして、消化して、それを……また戻すの。そうするとね、無駄なものが一切なくなって、身体がどんどん健康になるんだって。それでね——」


 彼女は大きく息を溜めてから言った。

「私達は、自己完結できる、完璧な人間になるの」



 私はもう、ほとんど右から左へ一方通行に聞き流していた。

「いいんじゃない。智子が楽しければ」


 私は曖昧に笑って、コーヒーを流し込んだ。 興味があれば、と差し出された彼女の名刺には「黄金の輪」という文字と、尻尾を咥えた蛇のイラストが書いてあった。


 そんな簡単に完璧な人間になれるんならさ、誰も苦労しないのに、と心の中では思いつつも、とりあえず名刺だけは受け取っておくことにした。



***



 智子と別れた後、いつもの電車に乗り込むと気持ち悪さが一気にこみあげてきた。後半、彼女の話を聞いているだけで、胃のあたりがムカムカが止まらなかったからだ。


「うげえ……吐きそう」


 私が向かったのは、幾つもの路線が交差する巨大な乗り換え駅。 長い歴史をもつその駅は、増改築を繰り返した果てに、まるで迷宮のようになってしまっていた。


 その、一番古いホームの連絡通路、その脇に古ぼけたトイレが1つ残っていることを私は知っていた。


 湿ったカビと、すえたアンモニアのくぐもった匂い。

 チカチカと点滅している薄暗い蛍光灯。

 花柄のどぎつい壁紙はほとんど剥がれていて、ひび割れたコンクリ―トがむき出しになっている。


「……ここだ」


 私は、ゆっくりと一番奥の個室に入ると、冷たく、黒ずんだ和式の便器にしゃがみ込む。


 さすがにもう、ここのトイレも汲み取り式ではない。でも、あまりに長い間使われていたせいか、至る所に染みついた誰かの匂いが、私の意識を、この便器の底、配管の奥底へと引きずり込んでくれる。


(ああ……すごい。ここのは、やっぱり分かる)


 少しずつ、少しずつ見えてくる。

 今の、SNSで着飾ったような薄っぺらい感情じゃない。

 もっと重くて、苦しくて、熱量のある時代の叫び声。


 ――万歳! 万歳!


 聞こえる。

 カーキ色の軍服に身を包み、決死の覚悟で家族と別れ、出征していく若者たちの、恐怖と興奮。


 ――東京だ、ここが東京だべか。


 見える。

 東北から「金の卵」と呼ばれてやってきた、集団就職の少年少女たち。


 重たい荷物と、期待と不安で押しつぶされそうになりながら、この駅で思わずこぼしそうになった故郷への未練。


 昭和という激動の時代。

 何千、何万という人間が、その日、その人の戦いへと挑んでいったんだ。



 彼らの人生の重みが、歴史の断片が、アンモニア臭と共に私の中へと流れ込んでくる。


「くっ……う、あぁ……!」


 私は思わず拳を握りしめながら、その濁流のような情報の波に耐えた。



 智子の言っていた「自己完結」なんて私は違うと思う。


 私たちはこうやって、過去も現在もごちゃ混ぜになって繋がっているんだ。色んな人と溶け合って、結びついて、明日もまた新しい自分を作り出していくんだ。



***



「……ふぅ」


 個室を出る。

 身体が軽い。憑き物が落ちたようにスッキリとしている。


 ここはエキサイティングでいいんだけど、登場人物がちょっと昔すぎるんだよね。


 錆びついた蛇口を捻り、チョロチョロと出る水で手を洗っていると――鏡越しに、誰かの視線を感じた。


 思わず振り返ると、薄汚れた灰色の作業着を着た、しわくちゃの老婆が立っていた。


 手にはモップを持っているが、床を拭くわけでもなく、ただじっと、濁った魚のような目で私を見つめている。


 この人は……普通じゃない。

 

 人間であるかどうかすら怪しい。

 幽霊かもしれない。


 関わり合いにならないように通り過ぎようとした、その時だった。



「お前……」

 老婆の口から、枯れ木が擦れるようなしゃがれた声が漏れた。


「人生が、人格が見えているな?」

 私は足を止めた。 心臓が、ドクリと大きく跳ねた。


「……ここのやつらは、口が軽いだろう。昔の未練話は、さぞかし美味かったかえ?」


 老婆はニタリと笑うと、モップの柄をドン、と床に打ち付けた。


「ついてきな。ワシは、お前のような『耳』を持つ女を、ずっと待っていたんじゃ」




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チョコレートクイーンは真実の雨に濡れる ぽぽこぺぺ @popokopepe

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