【2】 ポジティブフィルター





「足りない。やっぱり、足りないのー!!!」


 仕事終わりの19時過ぎ。

 ワンルームの小さい自宅に帰ってきた私は、ピンクのカーペットに寝転がるなり大声でぼやいてしまった。


 山に行ったのはつい昨日だというのに、私の中の『トイレ養分』は全然満たされなかった。それも全部、あのバイオトイレとかいうやつが悪い。


 いや、別にエコを否定するつもりは無い。

 私にとってはトイレ臭さが全然足りなくて相性が悪いだけなんだ。


「ぐえええ、もう我慢できないー! 寂しくて死んじゃうー」


 別に友達がいないわけじゃない。

 親と仲悪いわけでもない。

 でも、なんか全部、上辺だけの関係のような気がして、心が全然満たされない。




 この物足りなさに気が付いたのは高校生くらいの時。

 寂しさを埋めるために、色々試したよ。


 彼氏も作ったし、彼女も作ったし。

 何人かと肌を合わせてみたりもしたけれど、全然満たされないんだ。




 私の心を埋めてくれるものを見つけたのは、大学生のサークルで合宿で行った旅行の時。

 

 私は、初めて見た。

 ただ、穴が空いているだけのトイレ。


 汲み取り式……っていうんだってね。


 鼻の奥をこぶしで殴りつけて捻じ曲げてきそうな勢いの匂いと、ぶんぶんと飛び回る何匹ものハエ。穴の底には……何重にも排泄物がヘドロのように重なっていて、底なし沼のようになっていた。


 目の前にあるのは小さな張り紙。

『スマホ、落としたら拾えません。諦めてください』



 こんな酷いトイレ、世の中にあるんだ、って思ったんだけど、私は気が付いた。


 トイレの穴の底、人々から放出された堆積物には、ありとあらゆる人間の本音と、人格と、その人の感情が蓄積されていた。


 脳内にまで突き刺さりそうな強烈な匂いと、足元に残る僅かな残留物を通して、それらが次第に私の中に流れ込んでくる。


 やがて、何人もの人格が、感情が、私の身体の中で渦のようになって、1つになる。


 私は、本当の意味での「絆」をこの時初めて知ったんだ。



***



 私はしばらくの間、カーペットに横たわって身体をぐねぐねさせていたけれども、やがて耐えきれずにスマートフォンを取り出した。


 最近、みんなが使っているのは『アルファ』とかいうSNS。

 新しい時代の幕開けとか、体裁だけはかっこいいことを言っている。

 

 でも、中身は大して違わなくて、誰かが呟いた内容が下水のように溜まり、流れていくだけのもの。


 私は、何気なくフリック操作を始めると、感情の赴くままに吐きだして行く。



『この前行った山。バイオトイレだった。まじでクソ。トイレのくせにクソが無いとかクソ。もっと臭いトイレじゃないと物足りない』


——送信。



 はあ。つまんない。

 私の心のままに吐き出したこの文章は、送信ボタンを何度押したって、誰かに届くことはない。



 アルファでは、最近義務付けられてしまった『ポジティブフィルター』を通すことによって、無理やり前向きな言葉に変えさせられてしまうからだ。


『この間の山登り、最高にリフレッシュできました! バイオトイレ、とっても素敵! きれいだし、地球に優しいし! もっと心が洗われるような綺麗な場所へ、誰か一緒にいきませんか?』


 タイムラインに表示されたのは、口から内臓ごと吐き出しそうになる言葉の固まりだった。




「……本当最悪。何だよこれ」


 私の本心とは全く関係ない、綺麗ごとだけのネットワーク。

 100人くらいの元同級生や友人達からは、条件反射のようなイイネが溜まっていく。


 このリアクションにも一体、何の意味があるというんだろう。


 

 ざあっと、タイムラインを流して読む。

 見ているだけで胃液がこみあげそうな程のきれいごとばかりが並んでいる。


「えーん、仕事でミスして落ち込んでたら、彼氏くんがサプライズでケーキ買ってきてくれた。『君が頑張ってるのは俺が一番知ってるよ』だって。もう、優しすぎて泣いちゃう。世界一の味方でいてくれてありがとう。明日からも頑張れる!」


 ああ、この子は彼氏と喧嘩したんだな。

 仕事でイライラして八つ当たりして、「お前の顔なんか二度と見たくない」くらいは言ったんだろうな。でも、ケーキが出てくるときは、復縁できているはずだから、別れているわけではないだろう。


 スマートフォンを放り投げる。


 ポジティブフィルターの影響は、じわりじわりと、私達の日常にも侵食してきている。誰かの悪口とか、陰口を言うことは段々、恐ろしく悪いことのようになってきて、みんなが表面を取り繕うような会話ばかりを繰り返している。


 私は——どうしてもその関係に馴染めないでいる。


 30代に足を踏み入れつつある私は、日々変わりつつある新しい価値観に、全くついていけなくなってしまっているのだろうか。



 それとも、世界が、私を置いてどこか行こうとしてしまっているのだろうか。


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