後編
〈受胎1日目〉
満里奈は目が覚めた。白い天井を見て、そうだ、ここは病院だったと思い出す。この数日間、朝はこれを繰り返していた。身を起こし、ベッドに腰かける。今日からは、文字通り自分の体を大切にすることが仕事だ。なにしろ、書類上、満里奈は被験者として彩の研究に参加し、幾ばくかの謝礼まで受け取ることになっているのだから。
人工臓器『子宮』の臨床試験は世界初の試みだった。安全には万全の注意を払っているとは言うものの、何が起こっても不思議はない。大学病院に長期入院をするのは、絶対に必要な措置だった。平日だというのに職場に出かけないというのは妙な気分だったが、慣れないといけない。なにしろあと一年近く、ここが職場なのだ。満里奈は自分にそう言い聞かせた。
この入院のために、満里奈は今までの仕事を辞めていた。塾講師という仕事は悪くなかったが、だからこそ、辞める理由をどう伝えようか悩んだ。個人的な事情で、と説明をしたので、強く引き止められることは無かった。けれど、理由を知りたがる仕事仲間からの視線が消えることはなかった。満里奈は何回も、正直に話してしまおうかと迷った。けれど、ついに言い出すことは出来なかった。
「これから、お腹の中で、赤ちゃんを育てるんです」
そう話したら、皆、どんな反応をしただろうか。もしかしたら、奇異の目で見られるだけかもしれない。満里奈は、彩に見せられたサルの動画を思い出す。奇妙に膨らんだ腹部は、人によってはグロテスクに感じるかもしれない形だった。それを思えば、やはり職場には伝えられないと思った。
その日は、彩の回診を受けたり、日々の検査を受けたりして終わった。何はともあれ、まずはこの環境に慣れないと。そう思って緊張していたが、この生活は意外と暇な時間が多いことがすぐに分かった。何しろ、食べて寝ていれば仕事をしたことになるのだ。
「こんなんでいいのかなぁ」
満里奈は京太郎にメッセージを送ったが、返事が来たのは夕方になってからだった。無理もない。京太郎も、仕事は忙しいのだろう。若干の罪悪感を抱きつつ、満里奈の一日は暮れていった。
しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。
〈受胎7日目〉
満里奈は病室のベッドで横になっていた。ずっと同じ体勢を取っているので、背中が痛い。けれど、満里奈はひたすら天井を眺めて耐えていた。
「横になって、絶対に寝返りは打たないでください」
脳裏に、彩に言われた言葉が蘇る。昨日、何かの検査結果を見た彩は、真剣な顔で満里奈に絶対安静を言い渡したのだ。その時に言われたのが、この言葉だ。子宮に着床した胚が、剥がれかかっているらしい。寝返りの衝撃ですら、致命傷になり得るのだという。満里奈はその場で担架に寝そべることを命じられ、診察室から病室まで運ばれた。
体のどこも痛くもないし、苦しくもない。その状態で何もせずに横になっているというのは、当初思っていた以上に苦痛だった。身体を起こすこともできないので、スマホも使いにくい。看護師に好きな音楽をかけてもらったけれど、あまり楽しいとは思えなかった。
京太郎がここに居てくれたら。何度もそう思った。握りしめたスマホは、沈黙を保ち続けている。絶対安静になったことは、昨日、伝えた。今朝も電話で声を聞いた。それでも、満里奈はたった独りで、この苦しみに耐え続けている気分だった。つまらない時間ほど、長く感じられる。体感時間の長さコンテストが有ったら、ぶっちぎりの一位だと思った。鳴らないスマホを手に、満里奈はひたすら長い長い時が過ぎていくのを耐え続けなければならなかった。
〈受胎10日目〉
「満里奈、会いたかったよー」
個室になっている病室のドアが開いて、京太郎が顔を出した。屈託のないその笑顔を見た瞬間、満里奈は涙が出そうになり、危うくこらえた。毎日電話で声も聞いているし、先週も顔を合わせたというのに、ずいぶんと久しぶりのように思えた。私も会いたかったんだから。満里奈はそう言って、ベッド脇の椅子を勧める。
「絶対安静、大変だったね」
「ホント、あれはきつかったわ」
絶対安静が解けたのは、つい昨日の事だった。結局、満里奈は丸三日間、ほとんど身動きを許されなかった。トイレすら、看護師に世話が必要という始末。しかし、ようやく胚も落ち着いたようで、彩からはベッドの上であれば身を起こしてもよいと言われていた。満里奈はいかに深刻な事態だったかを、京太郎に聞かせた。話したいことは、山ほどあった。
満里奈は休むことなく話し続けた。元々、二人でいる時でも満里奈の方が口数が多かった。けれども、今日は自分でも驚くほど口が回った。実はこれには理由があった。満里奈はずっと病室にこもらざるを得なかったので、自分でも気づかないうちに、人との会話に飢えていたのだった。満里奈は何かの欠乏を埋めるようにおしゃべりに夢中だったが、一方の京太郎はというと、数時間たつうちに、どことなくそわそわし始めた。
「ごめん、週明けに入稿したい原稿があるんだ。ちょっと、ここで仕事していいかな」
満里奈の話を遮って、ついに京太郎はそう言った。京太郎が仕事を持ち帰ってくるのは珍しい事ではない。平日のうちに取材をして、土日に自分の好きなタイミングで原稿にまとめるのは、今までにもよくあった。
あ、うん。満里奈が虚を突かれたように、あいまいに頷く。京太郎は手荷物からラップトップを取り出すと、膝の上に広げてキーボードを叩きだす。真剣な面持ちだ。かつて、満里奈はその横顔を見るのが好きだった。しかし、その日は何かが違っていた。京太郎の真剣な顔を見ているうちに、満里奈は無性に腹が立ってきた。
私、ずっと独りで大変だったんだよ。私の話を遮ってまで、今やることがそれなの? そう言ってやりたかった。そう思ったことに、満里奈は自分でも戸惑いを覚える。京太郎と結婚して何年もたつのに、仕事をしている彼にそんな事を思ったのは、初めてだ。これは言ってはいけないことだ。満里奈の理性がそう告げ、だから、満里奈は黙るしかなかった。
原稿を執筆中の京太郎が、ふと顔を上げた。満里奈の顔をみて、あ、と表情を変える。どうしたの、と気まずそうに言う夫の声を聞いて、満里奈は不機嫌が顔に出ていたことに気が付いた。けれども、もう、止められなかった。
「別に。どうぞ、お仕事を続けてください」
自分でも驚くほど冷たい声を出た。やってしまった。後悔するんだろうな、という予感を覚える。けれども、腹立ちが抑えられない。顔を見せたくなくて、京太郎に背を向けた。パタンとラップトップが閉じる音がする。仕事を中断した京太郎が優しく声をかけてくれたけれど、満里奈はどう答えたらよいか分からなかった。何か返事はしたけれど、自分でも何を言ったか分からなかった。
京太郎はしばらく黙っていたが、やがて静かに立ち上がって、荷物をまとめた。それで、満里奈は自分が何を言ったのかようやく理解した。今日はもう帰って。そう言ってしまったんだ。京太郎が病室を出ていき、ドアが閉まる。その瞬間、ひどく寂しくなった。満里奈は夢から覚めたように慌ててスマホを取り、京太郎に電話をかける。応答はなかった。今、私はなんてことをしてしまったんだろう。満里奈はどうしたらよいか分からなくなった。気が付くと、すっと、一筋の涙が頬を流れていった。
〈受胎14日目〉
「どうやら、ホルモンバランスの急変が起こっているようですね」
彩は、満里奈の最新の検査結果を見てそう言った。満里奈は、ここ数日、気分の急変に悩んでいた。見舞いに来た夫に怒って追い返してしまったり、そのことを後悔して涙を流したり。感情のコントロールができず、振り回されている。それを彩に話したところ、返ってきた答えがそれだった。
「更年期障害の女性も、感情の急変が出ることが多いんです。原因はいろいろありますが、ホルモンバランスの変調もその一因になるという説がありましてね。今の満里奈さんにそのまま当てはめまるとは限りませんが、関係している可能性は大いにありますね」
「その、ホルモンのバランスが変わった原因というのは……」
満里奈は自分の下腹部を撫でた。体内で生命が育つことにより、様々な変化が身体に現れる可能性があるとは聞いていた。今の話だと、感情が昂りやすくなるという症状もその一つなのだろうか。疑問を向けられた彩は、静かに首を振って肯定した。
「気分の急変は、ホルモンバランスの変化に身体が追いつかないためという一面も大きいです。ですから、心配せずともやがて落ち着きますよ」
その言葉に、満里奈は感情を乱された。吐き気がするほど、ありがたいお言葉だと思った。こんなに苦しいのに、放っておくしかないんですか? 不要な一言を言いたがる感情を必死に抑え、礼を言って満里奈はその日の診察を終えた。
〈受胎37日目〉
満里奈は吐いた。かつてハンバーグだったミンチ肉が、便座の中をみじめな肉片として漂っていた。好きだったはずの牛肉が、まるで食べられなくなっていた。
病院の食事は、質が高かった。入院患者の数少ない楽しみということで、食には可能な限り気を使っているそうだ。確かに、入院当初は思ったよりもご飯が美味しくて嬉しかった覚えがある。その料理が、突然、昨日から受け付けなくなった。それを無理に飲み込んだ結果がこれである。
「食べられませんか」
巡回の時に相談すると、彩は眉根を寄せて、そう言った。満里奈が食事を摂れないことに困っている様子だったが、そう言われたって私も困る。満里奈はそう思った。彩は難しい顔をして考え込んでいたが、まずは無理をせずに食べられるものを探しましょう、ということでその日は話が付いた。
数日間かけて様々な食材を試し、どうやら、米や肉は胃が受け付けないようだと分かった。特に、炊きたてのご飯は香りを嗅ぐだけで強い吐き気を覚える。まるで油粘土の匂いだ。ただ、幸いにもパンやイモ類は平気だったので、食べるものが無いという事態にはならなかった。不思議なことに、今まで苦手だったはずのレバーは非常に美味しかった。
「なんで、こんなことになったんでしょうか?」
食べられるものの目途がある程度ついた時に、満里奈は彩に尋ねた。まるで気づかない間に生まれ変わったように、これまでと食の好みが一変していた。満里奈の質問に、彩ははっきりしたことは分かりませんが、と前置きをして告げる。
「免疫反応の一種なのかもしれません。何しろ、お腹の中に別の生命が居るわけですから」
「別の生命、ですか?」
彩の言葉を、満里奈は繰り返した。不思議そうにする満里奈に、彩は言葉を続ける。
「免疫というのは、本来は細菌や異物に対抗するための体の防御反応です。自分自身以外の存在を、排除するための機能なんですね。お腹の中にいるのは満里奈さんの赤ちゃんですが、遺伝的には半分、他人のものですからね。免疫が強く反応したとしても不思議はない訳です」
なるほど、と、満里奈は腑に落ちた。言われてみれば、お腹で今育っているのは、半分しか私じゃない。自分の中に、自分ではない生き物がいる。不思議な感慨があった。京太郎だったら、どう表現するだろう。彼は発想が突飛だから、「中にいるのが自分の子供だからいいけど、そうでなかったらタチの悪い寄生生物だぜ」くらいは言うかもしれない。寄生生物。そう言えば、昔見た映画に、そんなシーンがあったっけ。宇宙生物がお腹を食い破って出てくるシーンはトラウマものだ。
発想があらぬ方に向かってしまい、満里奈は自分の想像力に思わず噴き出しそうになった。彩が、満里奈の表情が和らいだのを目ざとくとらえる。それは、入院以来、初めて見られた満里奈の笑みだった。少しは今の生活に慣れたみたいですね、と彩はほほ笑んだ。
〈受胎290日目〉
満里奈の腹部は、はち切れんばかりに大きくなっていた。もう、身体を動かすのも、一苦労だ。ここに至るまでには、長い騒動があった。そのほとんどを辛い時間を占めていたはずなのに、今となっては遠い記憶だ。初期の苦労に至っては、最早、懐かしいとすら感じるほどだ。
「名前、決まりだね」
京太郎が、満里奈の張り出した腹を優しくなでる。まるで謎の腫瘍を患っているかのように膨らんだこの腹も、中に赤ちゃんが居ると思えば愛おしく思えるものらしい。京太郎に撫でられるのを喜ぶかのように、子宮の中で赤ちゃんが身動きをするのが分かった。
入院初期、何度か満里奈は京太郎とケンカをしてしまった。今思えば、あの時期は、確かに感情のコントロールが出来なくなっていた。一過性の体調の変化だと彩から説明は受けたけれど、今では不思議なほど当時の感覚を思い出せない。いずれにせよ、受胎初期の精神的症状の一つとして、医学的に貴重な証言になったはずだ。
「世界」
満里奈は、京太郎と一緒に決めた子供の名を呼んで、腹をさする。この子は、人類史に残る誕生をするはずだ。この子には、世界という名前こそふさわしい。そんな想いを込めて、決めた名前だった。
「失礼しますね」
もう顔なじみの看護師がやって来た。これから、ついに『出産』だ。変な言葉だけれど、卵を産むわけではないから『産卵』ではないし、『孵化』とも違う。とにかく、子宮で育った子供を、外科的処置で取り出す行為を指す言葉だそうだ。世界の誕生のために、新しい言葉まで作られたのだと思うと、満里奈はなんだか妙に可笑しかった。
看護師に退出を促されて、京太郎が名残惜しそうな顔をする。大丈夫、すぐに会えるよ。次は、世界も一緒にね。満里奈がそう声をかけ、京太郎はやっと重い腰を上げた。ドアが閉まるのを見届けてから、看護師が手際よく処置を進め始める。看護師の手に身体を預けながら、満里奈はもう一度、これから自分の身に起こることを考えた。
私は、これから赤ちゃんを産む。一般的な子供の作り方とは違うかもしれないけれど、私も母親になれるんだ。もしかしたら、一部の人たちからは、生命の営みを曲げる冒涜的な行いだと妙な顔をされるかもしれない。だけど、そんなことは構わない。
だって、私は、世界の母親になるのだから。
【了】
【短編SF】御厩満里奈の出産【卵】 山本倫木 @rindai2222
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