第8話 理由のない再訪

翌日、僕は自分が何を考えているのかを、うまく言葉にできないまま目を覚ましたのだけれど、窓の外の光はいつもと同じ九月の薄い明るさで、海から吹く風もいつも通りの匂いを運んでくるのに、胸の奥だけが昨夜から少しずれた位置にあるみたいで、起き上がる理由も、起き上がらない理由も、どちらも同じ重さに感じられた。

彼女が「演じることをやめた」と言った声が、起きてからもしばらく耳の奥に残っていて、僕はその言葉を何度も繰り返してしまうのだけれど、繰り返せば繰り返すほど、その言葉は簡単な結論ではなく、生活の中で削られていった何かの跡みたいに、静かに痛い形をしている気がした。

大学へ行く予定はなかった。

予定がない日が増えていることに、もう驚かなくなっている自分がいて、ゼミのグループチャットに流れてくる「来週の集まりどうする?」みたいな連絡にも、すぐに返事をしないまま、スマートフォンを伏せた。

昼間の時間は、何かをしようと思えば何でもできるはずなのに、実際には何もできないまま過ぎていくことが多くて、それが自由のはずなのに、自由というより、どこにも接続されていない感じに近かった。

午後になって、僕は海まで歩いた。

砂浜に出ると、九月の太陽はまだ強くて、だけど風の温度だけが確かに秋へ寄っているから、肌の感覚がちぐはぐになる。

波はいつも通りそこにあって、サーファーたちはいつも通り沖へ出ていくのに、僕だけが、昨夜の言葉を抱えたまま、海の前で立ち尽くしているようだった。

演じることをやめた人。

それなのに、毎晩、客の前で丁寧に笑い、必要な言葉を選び、余計な感情を抑えて、役割をこなしている人。

あの人は、今も何かを演じているんじゃないか。

でも、その「演じる」は、舞台のそれとは違う。

生きるための演じ方で、そこには拍手もスポットライトもなくて、ただ、明日も同じように起きて、同じように働くための、静かな工夫だけがある。

そういうことを考えていると、僕の中の「就職が決まっている」という事実が、妙に軽く感じられて、決まっている未来よりも、今この瞬間の自分の曖昧さのほうが、よほど現実に思えた。

夜になって、僕は気づけば駅前にいた。

理由は、うまく説明できない。

昨日も会ったばかりだし、歌いたいわけでもないし、特別な用事もない。

なのに足が向いてしまう。

それは、会いたいという感情なのかもしれないし、ただ、確認したいだけなのかもしれない。

昨夜の彼女の言葉が本当だったのか、僕が勝手に意味を膨らませてしまっただけなのか、その境目を確かめたくて、僕はまた自動ドアをくぐっていた。

消毒液と甘い香料の匂い。

同じ廊下。

同じ照明。

受付カウンターの向こうに、彼女が立っていた。

グレーのパンツスーツ。

いつもと同じ装い。

でも、僕にはもう、その色がただの仕事着には見えなかった。

「いらっしゃいませ」

その声を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけほどけたのがわかった。

安心、という言葉は大げさかもしれない。

でも、少なくとも、昨日の言葉が幻ではなかったと確認できた気がした。

「一名様ですね」

「はい」

彼女は端末を操作し、部屋番号を伝え、いつものように僕を案内する。

その動きは、昨夜と同じで、昨夜の会話が、例外ではなく、ちゃんと彼女の生活の一部として存在していることだけが、かえって不思議だった。

部屋に入って、僕はほとんど歌わなかった。

リモコンの画面を眺めながら、曲を入れるふりをして、ただ時間を過ごした。

音楽が必要ない夜があるのだと、そのとき初めて知った気がした。

ノックがして、ドリンクが運ばれてくる。

彼女だった。

「失礼します」

グラスを置く手が、昨日より少しだけ速い。

忙しいのだろうか、と一瞬思ったけれど、廊下の音は相変わらず静かで、忙しさとは違う種類の急ぎ方に見えた。

「昨日は……」

僕は思わず口を開いてしまい、すぐに、その先の言葉が見つからなくなった。

彼女は顔を上げた。

ほんの一瞬、目が合う。

「昨日は?」

「……いえ、すみません」

謝ってしまった自分が情けなくて、僕は視線を落とした。

彼女は、少しだけ間を置いて、静かに言った。

「来てくださって、ありがとうございます」

その言葉は、店員としての「ありがとうございます」に聞こえた。

けれど、その奥に、別の意味が混じっているようにも感じられて、僕は返事ができなかった。

彼女は会釈をして、部屋を出ようとした。

その背中を見たとき、僕は昨日の言葉の続きを、急に知りたくなった。

演じることをやめた理由。

余裕がなくなった、という言葉の中身。

彼女の生活の輪郭。

けれど、今ここで聞いたら、その線を越えてしまう。

彼女が守っている距離を、僕が破ってしまう。

だから僕は、ただ、言葉を探した。

「……あの」

彼女が振り返る。

「また、コーヒー、行きませんか」

自分でも驚くほど、まっすぐな言葉だった。

昨日の延長ではなく、今日の僕の選択として言えたことが、少しだけ嬉しかった。

彼女は、一瞬だけ目を伏せて、それから、小さく首を振った。

「今日は、無理です」

その言い方は、断るための言い方ではなく、事情があるための言い方だった。

「ごめんなさい」

そう付け足されて、僕は慌てて首を振った。

「いえ、全然」

彼女は、ほんの少しだけ笑った。

店で見る笑い方に近い。

でも、昨日よりは、少しだけ柔らかい。

「また、タイミングが合えば」

彼女はそう言って、ドアを閉めた。

その言葉だけで、僕はしばらく、その場に立ち尽くしてしまった。

タイミングが合えば。

それは、約束ではない。

でも、完全な拒絶でもない。

僕は結局、その夜もほとんど歌わないまま、部屋を出た。

会計をして、店を出て、街の空気を吸う。

茅ヶ崎の夜は静かで、海の方から風が来る。

波の音は聞こえないのに、潮の匂いだけが、薄く混じっている。

理由のない再訪。

僕はそれを、恥ずかしいことだと思うべきなのかもしれない。

でも、その夜、僕は初めて、理由がなくても人に会いたいと思う気持ちが、確かに存在するのだと知った。

そして、その理由のなさこそが、たぶん本物に近いのだと、どこかで思っていた。

決まっているはずの未来よりも、

まだ名前も知らない彼女の言葉のほうが、

僕の現実を強く引っ張っている。

そのことが怖いのに、怖いからこそ、僕はまた来てしまうのだろう。

海沿いの道を歩きながら、僕は自分の足音を聞いていた。

それは、どこかへ向かう足音ではなく、ただ、同じ場所を確かめるための足音だった。

でも、確かめ続けているうちに、いつか、何かが変わってしまう。

その予感だけが、夜風の冷たさと一緒に、僕の中で静かに広がっていった。


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瑠璃色の季節 鈴木夏希 @kujirakun14

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