第7話 演じることをやめた人

彼女が、もともと「演じる」側の人だったのだと僕が確信したのは、彼女自身がそう口にした瞬間よりも、その前後の、ほんの些細な間の取り方や、言葉が喉の奥でいったん形を変えてから出てくる感じを見てしまったときだった。

その日、店はいつもより少しだけ静かで、廊下の奥から漏れてくる歌声も、壁紙に吸い込まれていくみたいに薄く、受付カウンターの蛍光灯の白さだけが妙に際立っていた。


僕はいつものように自動ドアをくぐり、いつもの匂いを吸い込み、いつものように「一名で」と言い、そして彼女の「いらっしゃいませ」を聞いたのに、胸の奥の落ち着き方は前よりもずっとはっきりしていて、たぶん僕はもう、自分がこの場所に来ている理由を、他人に説明できないくらいには掴んでしまっていた。


グレーのパンツスーツはその日も彼女に馴染んでいて、襟の角度も、袖の長さも、すべてがきちんとしているのに、きちんとしていることが彼女を軽く見せるのではなく、むしろ、崩れないための鎧みたいに見えた。


「今日は、少し落ち着いてます」


部屋に案内される途中、僕が何気なく言った「静かですね」に、彼女はそう答えたのだけれど、その声にはいつもの仕事の平坦さより、ほんの少しだけ、息を吐いたあとの柔らかさが混じっていた。


僕は部屋に入って、何曲か歌った。

画面に流れる映像はいつも通り安っぽくて、マイクの音は相変わらず軽く、歌うこと自体は僕にとって主役ではないのに、ここにいる間だけは、僕の中の「次に何をすべきか」が黙ってくれる気がして、時間を気にする必要がなかった。


ドリンクを追加すると、ノックがして、彼女が入ってきた。


「失礼します」


トレイを持つ姿は相変わらず無駄がなく、グラスを置く動きも、会釈の角度も、丁寧で、その丁寧さが、彼女の性格なのか、生活の結果なのか、僕にはまだ判断できない。


「……お疲れですか」


僕がそう言ったのは、彼女の表情というより、彼女がドアを閉める前に、ほんの一瞬だけ視線を落とした、その落とし方が、夜の仕事とは別の重さを抱えているように見えたからだった。


彼女は少し驚いたように目を上げ、すぐに、いつもの仕事の顔に戻って笑った。


「顔、出てました?」


「いや、なんとなく」


「大丈夫です。ちょっと、考え事してただけなので」


その「考え事」という言葉が、妙に現実的で、現実的だからこそ、僕はそれ以上踏み込めずに、ただ「そうなんですね」と言った。


それから彼女は、ふと、思い出したように言った。


「大学生って、いいですね」


その言い方は羨ましいというより、遠くから見ている響きがあって、僕は一瞬、自分が「いい」とされる立場にいることを初めて意識した。


「いいですか」


「はい。時間が、まだ前にありますから」


時間が前にある。

彼女がそう言ったとき、僕は自分の生活の中で、時間が「前にある」感覚を、どれくらい大切に扱ってきただろうと思った。


「私も、昔は」


彼女はそこで一度言葉を切り、トレイを持ち直すでもなく、ただ、カップの縁に指先を触れるみたいにして、落ち着く場所を探しているように見えた。


「大学生だったんです」


「このへんの?」


「いえ」


首を横に振って、


「湘南の、キャンパスがきれいなところで」


と言った。


大学名を言わないのに、僕にはどこだかわかってしまって、胸の奥が少しだけざわついたのは、同じ土地の空気を、僕たちが別々の時間に吸っていたのだと思ったからかもしれない。


「その頃は、今とは全然違うことをやりたいと思ってました」


「違うことって……」


僕が聞き返すと、彼女はほんの少しだけ笑って、笑ったあとに、息を吐くように言った。


「演じること、です」


その言葉は、意外なはずなのに、僕の中ではすぐに納得に変わっていった。

彼女の話し方の抑揚、言葉の選び方、沈黙の置き方が、どこか「訓練されたもの」に見えていた理由が、その瞬間だけ、静かに繋がった。


「舞台とか、そういうの」


彼女はそう付け足した。


「本気だったんですか」


僕がそう聞くと、彼女は、ほんの少しだけ困ったような顔をしてから、頷いた。


「……そのつもりでした」


その言い方には、昔の自分を笑う感じと、まだ手放しきれていない感じが、どちらも混ざっていた。


「でも、やめました」


彼女はそこで、きっぱりと言った。

きっぱりと言うことで、話が終わると知っている人の言い方だった。


「向いてなかった、とか?」


「どうでしょう」


彼女は首を傾げて、


「向いてなかったって言うと、少し楽になるんですけど」


と言った。


その「楽になる」という言葉が、僕には刺さった。

夢を諦める理由を、才能のせいにできたら、どれだけ軽いのだろうと思ってしまったからだ。


「続ける余裕が、なくなっただけです」


余裕、という言葉には、照明も拍手もない。

生活の匂いがする。

家賃とか、時間とか、体力とか、そういうものの匂い。


彼女はそこまで言うと、ほんの少しだけ目を伏せた。


「後悔、してますか」


僕が聞いた。


聞いてしまったあと、しまったと思った。

この問いは、彼女を無理やり舞台の上に戻してしまう気がしたからだ。


でも彼女は、怒らなかったし、笑って誤魔化しもしなかった。


「たまに」


短い答え。


「でも、ずっとじゃないです」


その続きが、むしろ重かった。

後悔はするけど、後悔し続けることもできない、という現実がそこにあった。


「今は……」


彼女は少し考えて、


「演じなくていい生活に、慣れてしまいました」


と言った。


演じなくていい生活。

その言葉は、舞台を降りた人の言葉なのに、どこか、舞台以外の場所でも人は演じてしまうのではないか、と僕に思わせた。


彼女はカラオケ店で毎晩、客に向けて笑い、丁寧な声を使い、怒りや焦りを飲み込んで、役割をこなしている。

それは演技じゃない、と言いたくなるけれど、彼女自身はたぶん、そこに「演じる」という言葉を当てたくないのだろう。


「それでも」


彼女が小さく言った。


「たまに、夢を見ます」


「舞台の?」


「はい。照明がまぶしくて」


その先を、彼女は言わなかった。

でも僕には、その眩しさが、幸福なのか、痛みなのか、どちらも混ざっている眩しさだとわかった気がした。


「目が覚めると、少しだけ、息が詰まるんです」


その言葉は、説明じゃなくて、告げる、という感じだった。


僕はうまい返事ができなかった。

「わかります」と言うのは嘘になるし、「大丈夫ですか」と聞くのは軽すぎる。


だから僕は、ただ、彼女の言葉が落ちていくのを待って、そして同じように、沈黙を置いた。


彼女は、仕事の時間を思い出したみたいに姿勢を正し、いつもの表情に戻った。


「すみません、変な話しちゃって」


「変じゃないです」


それだけ言うと、彼女は少しだけ笑った。

店の照明の下でもない、プラネタリウムの暗さでもない、ただの夜の中で見えるような、小さな笑い方だった。


ドアが閉まって、彼女が廊下の向こうへ消える。

残された部屋の中で、僕はしばらく、選曲画面を見つめたまま動けなかった。


演じることをやめた人。

その言葉を、僕は心の中で何度も繰り返した。


やめた、という事実は、終わりを意味するのに、なぜか彼女の中では、終わったはずのものがまだ息をしているように思えた。

夢を持つことも、諦めることも、どちらも簡単じゃないのだと、僕はその夜、初めて現実の重さとして理解し始めた。


部屋を出て会計をするとき、彼女はいつも通りの声で「ありがとうございました」と言った。

その声は、さっき話してくれた彼女の声と同じ人から出ているのに、まるで別の層が一枚挟まっているみたいに遠く感じられた。


店を出ると、夜風が頬に冷たかった。

遠くで波の音がして、茅ヶ崎の夜は静かに続いていた。


僕は歩きながら、彼女の名前を知らないことが、急に大きなことに思えてきた。

名前を知らないまま、彼女の過去の一部に触れてしまった。

その順番の妙な不自然さが、胸の奥で引っかかっていた。


名前を聞けば、彼女の輪郭はもっとはっきりする。

でも、はっきりした輪郭は、時に、壊れやすい。


だから僕は、その夜も名前を聞けないまま、海の匂いが薄く混じる道を、ただ家へ向かって歩いた。

彼女が演じることをやめた理由の全部を、僕はまだ知らない。

けれど、知らないままでいることが、もう許されない日が来るのだろうという予感だけが、九月の終わりの冷たい空気の中で、静かに息をしていた。


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