第一章 塩握りと再会

白熊の安らぎ

 ──なんとか君。


 誰かにそう呼ばれた気がして、海豹かいひょう丙吾は目を覚ました。

 いつも通りの自分の部屋。傍には誰もいないし、ここは閑静な住宅街で、朝からひっきりなしに騒いでいるような輩もいない。きっと気のせいか夢だろう。そう結論付けて、身体を起こす。

 肩までの焦げ茶の髪を掻き乱しながら、枕元に視線を向けると、小さな白熊のぬいぐるみが落っこちている。海豹はそれを手に取ると、顔の前で掲げて、にっこりと柔らかく笑った。


「おはよう、白熊さん」


 ぺこりとぬいぐるみにお辞儀をさせ、ベッドから出ると、白熊のぬいぐるみを机の上に置いて、寝巻きから高校の制服へと着替えた。

 小さい頃、遊園地で迷子になった時に、面倒を見てくれたお兄さんからもらった白熊のぬいぐるみ。きっと相手は海豹にぬいぐるみを渡したことなんて忘れただろうけれど、海豹にとって、このぬいぐるみは唯一無二の宝物だった。

 着替え終えると白熊のぬいぐるみをスクールバッグに仕舞い、玄関まで持っていって置いておく。玄関には既に、ぺんぎんのマスコットが付いたスクールバッグが置かれていたから、それとは反対側の壁際に自分のを置いた。そして洗面所に向かい、顔を洗ったりと身だしなみを整え、ダイニングに向かう。

 もうこの時点で、海豹は白熊のぬいぐるみに会いたくなっていた。

 足が重くなるのを感じながら無理に動かし、ダイニングに入ると、一斉に視線を向けられる。

 四人席のダイニングテーブル。その内の三つは既に埋まり、朝食を先に食べているようだった。


「おはよう、丙吾」


 スーツ姿の優しそうな中年男性が話し掛けてくる。海豹の母方の叔父だ。彼の横に座る、叔父の妻である叔母も、おはようと言ってくれた。


「おはようございます」


 つっかえずにすらすら言えたことに安堵しながら、海豹は叔父の正面の空いた席に座る。入れ替わりに叔母が立ち上がって、海豹の朝食を用意してくれた。

 今朝は目玉焼きトーストとサラダらしい。自分の手元に並べられていく朝食は美味しそうに輝いて、海豹は俯きたくなった。


「いつも、ありがとうございます」

「保護者として当然のことなんだから、毎日律儀にお礼言わなくていいのよ。ほら、食べちゃって。お皿もそのままでいいから」

「はい……」


 叔父も、叔母も、海豹に良くしてくれる。食事は必ず海豹の分も用意してくれて、必要なものがないか常に訊いてくれて、小遣いだって実子と変わらない額をくれた。

 それが本当に、申し訳ない。

 自分は彼らにとってはただの甥で、本来ならそんなことをしてやる義理もないのに、海豹の母が彼らに海豹を押し付けたことで、今の生活を送ることになっている。

 食い扶持が一人増えるなんて、迷惑なだけだろう。それでも追い出さないで、面倒を見てくれるその優しさが、海豹には申し訳なくて堪らなかった。


「……ん」


 ふいに肩をつつかれて、視線を向ければ、先に海豹の隣に座って朝食を食べていた、この家の実子が話し掛けてくる。


「丙吾、顔暗いよ? ネガティブなこと考えてんでしょ?」

「そんな、ことは」

「あるね、あるに決まってるよ。ほらほら、笑顔になって! 朝から暗いといいことないよ!」


 そう笑顔で言いながら、海豹の肩を優しく叩いてくる彼女は、海豹の同い年の従姉。海豹乙音おとねだ。

 夫妻によく似た優しさと、独自の陽気さを兼ね備えた、頭の上がらない姉のような人。いとことあって顔立ちも似たり寄ったりで、同じく焦げ茶で髪の長さも変わらないので、入れ替わりも頑張ればいけるかもしれない。

 乙音はポジティブな人間で、叔父夫婦と同様によく海豹を気に掛けてくれるのだが、ぐいっと距離を詰められるのが、海豹としては少しだけ苦手だった。悪い人間ではないと、分かってはいるけれど。

 トーストにかじりつくと、叔父が話し掛けてきた。


「学校には慣れたかい?」

「入学から半月も経てばね! 授業も問題なくついていけてるよ」

「お前に訊いたんじゃないんだが」


 笑い合う父と娘を横目に見ながら、海豹は答えた。


「……慣れました、問題ないです」

「そうか。友達はできたか?」

「お父さん聞いてよ、丙吾ったら話し掛けられても一言二言しか話さなくてね、結局私や庚斗こうとと一緒にいるのよ?」

「だからお前に訊いてるわけじゃ……。まあ、何だ。丙吾には丙吾のペースがあるからな。それに学校も始まったばかりだし、ゆっくり友達ができるといいな」

「……はい」


 自分を中心に繰り広げられる会話。

 海豹が来るまでは、本当に楽しそうに、自然に会話をしていたのに、今は海豹の顔を窺いながら、どうにか話を回している。

 そういう気遣いに、居心地が悪かった。

 急いで朝食を腹に詰めて皿を空にし、立ち上がって食器に手を伸ばそうとしたら、叔母に「そのままよ」と告げられた。叔母にごちそうさまですと言った後、三人に向けてこう口にする。


「それでは、いってきます」

「ちょっと! 私まだ食べてないわよ!」

「乙音ちゃんはまだゆっくりしてても」

「私も行くし!」


 乙音は慌てて朝食を詰め込んでいき、喉に詰まらせたか、胸を叩いて苦しそうにしていた。叔母と叔父が心配そうに声を掛けるのを耳にしながら、海豹は洗面所に行ってはみがきをする。

 終えた頃に乙音が洗面所にやってきて、千円札を渡そうとしてきた。


「お母さん、寝坊して朝食を作るのが精一杯で、お弁当作れなかったんだって。これで何か買ってってよ? あ、受け取り拒否は駄目だからね」

「……ありがとう」


 人より多くもらっている小遣いで十分足りるのにと思いながら、ありがたく受け取ると、待っててよと言って乙音がはみがきを始める。

 分かったと言って玄関に向かう海豹だが、本音は、さっさと一人で学校に向かいたかった。


 一人になりたい。


 贅沢な悩み、人によっては憎しみすら抱かれるかもしれないけれど、叔父家族に優しくされるたびに、海豹はそう切望する。


 自分のことは自分で。

 誰にも迷惑を掛けたくない。


 常に胸の中にある罪悪感がなくなれば、少しは顔を上げられるのか、と思いながら、スクールバッグに入れておいた財布の中に、千円札を仕舞う。

 その際に、にっこりと笑う白熊のぬいぐるみと目が合って、少しだけ、気持ちが落ち着いた。

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おにぎりの白熊堂 ~ぬいぐるみが繋いだ縁~ 黒本聖南 @black_book

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