第4話 免許皆伝と細胞分裂

「お義母さま、お邪魔しております」


姫子さんは動じることもなく、むしろ「待っていました」と言わんばかりの笑みを浮かべました。姫子さん、母の存在を気が付いていましたね。

それにしても、その「お義母さま」というイントネーションの自然さは何事でしょうか。私はあえて、その不穏な響きを脳内のシュレッダーにかけることにいたします。


「いい香りね。私も一杯頂こうかしら」


母が言うより早く、姫子さんは三つ目の織部の器を用意しておりました。この気配り。女子力という言葉では足りません。もはや嫁力が極まっております。


母の流派は、実に豪快でした。 茶碗に盛られたご飯の中央に、直接卵を割り入れる。白身も黄身も、ご飯の上で直接、箸でダイナミックにかき混ぜる。そして、醤油は一切使いません。


「いいお米といい卵があれば、醤油なんて雑味なのよ」


それが母の持論。 確かめるように、お味噌汁を啜り、ぬか漬けをポリポリと小気味よい音を立てて齧る母。


「……うん。とても美味しいわ。でも、やっぱり毎日食べるなら、いつもの銘柄が一番落ち着くかしらね」


最高級の『龍の瞳』を前にして、あえて日常の味を肯定する母。 食べ慣れたお米が一番だと感じるのは、それが私たちの血肉を作ってきた「主食」だからなのでしょう。ハレの日の贅沢も良いですが、日常の地続きにある安心感こそが、本当の豊かさなのかもしれません。


「それにしても、このぬか漬け。腕を上げたわね。野菜の甘みが引き出されていて、本当に美味しいわ」


母からの、不意の称賛。 私は胸が熱くなりました。私の女子力も、捨てたものではないようでございます。この一歩が、いつか遠い花嫁修業のゴールへと繋がっている……そんな希望の光が見えた気がいたします。


しかし、母の次の一言で、その感動は霧散しました。


「お味噌汁は姫子さんよね。もう、完全に我が家の味だわ。いつでもお嫁にいらっしゃい。明日からでも構わないわよ」


「はい、お義母さま。喜んで」


いつの間にか、免許皆伝を授かっている方がいらっしゃいました。 私の親友は、どうやら私の知らないところで「嫁入りシミュレーション」を完遂していたようでございます。しかし、真面目な話、彼女がお嫁に来てしまったら、お嫁さんになりたいという私の憧れはどうなるのでしょうか。そして何より、両親が期待している「孫の顔」という生物学的な問題はどう解決なさるおつもりで


「そこは愛の力で、細胞分裂でもしなさいよ。貴女たちなら、気合いで何とかなるでしょ」


母の適当すぎるアドバイスに、私は天を仰ぎました。 細胞分裂。 もはや人体の神秘すら超越した愛を求められるとは。


深く考えるのは、もうやめにしましょう。 それよりも今、私の目の前には、解決すべき重大な課題が残されております。


「姫子さん、見てください。この土鍋の底……」


「あら、素敵な『おこげ』ね」


こげまるくんと土鍋が作り出した、芸術的な狐色の焦げ目。 この香ばしい、パリパリとした部分を、いかにして最高に美味しく頂くか。


お塩を少し振ってそのまま頂くか、あるいは残った卵をかけて「追いTKG」にするか。 人生の難問は、炊きたてご飯の温もりには勝てません。

とりあえず今は、この黄金のひと時を、もう一口だけ、大切に味わうことにいたしましょう。

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黄金の瞳と純白の衣 ―我が家のTKG狂詩曲― 音無 雪 @kumadoor

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