2.笑顔
「ただいま」
電気の消えた室内に向かって、声をかける。不在なのではない。夫は、そこにいる。リビングのチェアに、力なく身を預けて。
「ごめん。ダメだった」
流しには、朝とほとんど変わりのない食器類が、そのまま積み重なっていた。それでもスポンジに残っていた真新しい泡が、彼の届かなかった頑張りを物語っていた。
「気にしないで。
結婚五年目。子どものいない私たちは、お互いをまだ、「さん」付けで呼び合っている。結婚前と、変わらない習慣。そして彼も、きっと変わっていない。変わっていない、はずなのに。
「あ、お昼もまだなんでしょ。待ってて、今作るから」
何でこんなに、変わってしまったように見えてしまうんだろう。
「ありがとう。でも今日はいいや。まだ、食欲なくて」
力なく笑う彼は、それでもだいぶ無理をして笑っているのが分かり、さすがに悲しくなった。何度見ても、慣れない。洗顔だってこまめにするほうだったし、ひげも毎日、丁寧に剃っていたはずなのに。そんな苦しそうな顔で、笑わなかったはずなのに。お風呂だって、毎日入っていたし、湯船の中で歌うのが好きだったよね。
ごめんなさい。私は今、あなたの姿に、嫌悪感を持ってしまった。本当に、本当に、ごめんなさい。あなたはけして、悪くないのに。頑張り屋さんな、だけなのに。
内面の罪を取り繕うように、努めて私は明るい声を出す。
「そっか。でも、昨日もそうだったじゃん。何か少しでも、食べないと。あ、バナナって心の健康にもいいんだって。なんか、脳の番組でやってて。ほら、買ってきたからさ」
言いながら私は、こんなに早口に喋ってしまっていいのだろうかと、不意に思う。淳の思考力は、以前とまったく比べものにならないくらい落ちている。
「思考制止」といって、うつ病の代表的な症状のひとつであり、言ってしまえば、思考能力が落ち、頭が働かなくなるという状態だ。
言葉の理解や会話すら、難しくなってしまう場合すらある。脳の疲労が限界に達していて、オーバーヒートを起こしているような状態なのだ。
「うつ病は」
医師が言った。
「『心の風邪』という言葉がありましたね。あれは、啓蒙活動としては、有益だったと私も思います。ですが最近では、『心の複雑骨折』と表現する医師もいます(※)」
ようするに、そのくらい、一筋縄ではいかない病気だということだ。
理由ひとつとっても、心の負荷、つまりストレスが原因でかかるものもあれば、内因性といって、心理的な理由ではなく、身体の不具合からうつ病を発症するケースもあるらしい。もちろん、両方が複合的に絡んでいる場合もある。いずれにせよ、早期治療が大事で、基本的に、特に病気になりたてだったり、治療の開始時期には、とにかく休息が必要なのだという。
「あ、淳。今日、私が食べたいから、オムライスでいい? って、卵足りないか。ちょっと私、買ってくるね」
噓だった。卵が足りないことなんて、最初から分かってた。オムライスが食べたいのも、噓だった。ほとんどを私一人で食べて、残りは捨ててしまうオムライスなんて、作りたくなかった。
それでも私は、足早にならないよう脱いだパンプスを履いて、買い物に出た。そこにいることが、つらすぎて。
私は、逃げ出したのだ。彼のように、頑張った笑顔も、浮かべられないまま。
※参考文献
・「うつ病がよくわかる本 うつ病の本質・うつ病からの立ち直り方・うつ病のあるべき治療」鍋田恭孝(2012)日本評論社.
たまごを落としてしまった私は。 西奈 りゆ @mizukase_riyu
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