十八歳の朝

真花

十八歳の朝

 病室で僕を待っていたアキは衰弱し切っていた。点滴に繋がれた細い腕も顔も青白くて、髪には艶がなく、目の力もあと少しで消えそうだった。窓から射し込む光が白々しく、部屋の中は半分が死の匂いで染まっていた。モニターのピッピ言う音が耳障りだった。僕はアキの命のために何も出来なかった。ただ病院に預けることしか出来なかった。僕達はもうすぐ結婚するはずだった。二人で生きていくはずだった。それなのに僕はここにいることぐらいしか出来ない。自分の無力を呪っても何も変わらない。分かっていても責めることをやめることが出来ない。

「アキ」

 アキは反応しない。目は開いているのに。それでも僕の声は届いている、はずだ。医者からはもう長くはないと突きつけられた。奇跡でも起きなければ目を覚ますことはないくらいの断定だった。でも僕にももう分かっていた。どう見ても、健康に戻る気配はない。それでも言葉にされると胸が折れた。痛くて、断面が鋭利で、動くことも困難になる。僕は最後になるかも知れない面会を二人切りでさせてもらうことにして、ここにいる。

「今までありがとう」

 言って、涙が込み上げて来た。反応のないアキの前で僕は嗚咽を漏らしながら泣いた。泣いて、やっと泣き止んで、僕は計画を実行に移す。服の中に隠して持ち込んだ駆血帯とアルコール綿、注射器、スピッツをベッドの上に並べる。点滴の入っていない左の腕に駆血帯を巻き、採血をしてスピッツに入れた。止血を三分したら証拠の全部を服の中に戻した。

「終わったよ。ありがとう」

 アキの手を握って、愛しさとか感謝とか残念さとかそう言うないまぜの気持ちを手から注入する。それが届いたのか、アキがほんの少し動いた。

「アキ!」

 途端にモニターの音が変化して、アラームが鳴る。僕は手を強く握って「アキ」「アキ」と呼び続ける。看護師が入って来て、「先生を呼んで」と他の看護師に言って、でもそのときにはもうモニターは平になっていた。それから医師が来て、死亡が確認された。

 僕は最期の瞬間に立ち会えたからラッキーだったのだろうか。それを言うなら恋人が死ぬことほどアンラッキーなこともない。計画が実行出来たのはラッキーだったのか? 計画を立てられる立場にいることがラッキーなのか? それともそんな足掻きをする可能性を与えられたことがアンラッキーなのか。僕の人生はアキに縛られる。それを僕は選択した。

 アキが死んだことそのものは予定通りだとしてもやっぱり打撃が大きくて、後を追おうか真剣に考えた。でも計画があったから、思い止まった。泣くことをやめて、生きることにした。計画を進めて、それは着々と実を結んだ。


 十八年が経った。

 家の中にはミキがいる。瑞々しく動き、花のように笑う。ミキがいるだけで家は明るく、エネルギーに満ちている感じがする。僕が十八年で歳を食った分、ミキも大きくなった。

「パパ、明日、私の誕生日なの覚えてる?」

「もちろん」

 僕だって待ちに待った十八歳だ。

「ママにも言って来るね」

「よろしく言っといて」

 ミキは仏壇に手を合わせる。仏壇にある写真はアキが若くて元気だった頃のものだ。

「ママって私そっくりだよね」

「そうだね」

「十八歳になったら、あの部屋の中を見せてくれるって約束、忘れてないよね?」

「覚えてるよ。明日ね」

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」

 明日が計画が結実する日だ。明日になれば僕はミキを女として扱う。十八年、そのために育てて来た。全てを話そう。ミキはどんな顔をするだろうか。驚くだろう。嫌悪するかも知れない。それでもこれは最初から決まっていたことなんだ。……僕に出来るだろうか。おしめを変えるところから、保育園、小学校、中学校、高校とずっと育てた。ミキは今間違いなく僕の娘だし、僕も娘として接している。それがいきなり女として扱うのには飛躍があるし、僕の側にも準備が必要だ。いや、この日のために育てたんだ。躊躇せずに行くべきだ。このために払った代償は僕の人生そのものだ。でも、ミキは僕の娘なんだ。心臓がトクトクうるさくて、呼吸が乱れている。どうにも眠れない。

 仏壇のアキの前に座る。

「僕は間違っているのだろうか」

 最期のときに握った手の感触がまだ残っている。何も言わないアキは、僕がどうであれ許してくれそうだった。僕は少し穏やかになって、布団に入った。


 いつもより早く目が覚めた。言わなければいけないことを整理する。この十八年間で何度もシミュレーションした言葉達だ。朝食を作っていたらミキが起きて来た。

「早いね」

「なんか起きちゃった。ねえ、あの部屋に行こうよ」

 僕はフライパンから目玉焼きを皿に移してから、「いいよ」とエプロンを外した。

 二階の奥の部屋で、鍵を常にかけてある。それを解錠する。ドアを開けると、人ひとり分の部屋がある。ミキが首を傾げる。

「普通の、部屋?」

「ママの部屋だよ」

 アキの遺品が十八年前のままこの部屋に取ってある。

「どうして封印されてたの?」

「……それは、ちゃんと話そう」

 一階のダイニングで向き合って座る。僕は大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

「大事な秘密の話だから、誰にも言わないって約束して欲しい」

「分かった」

 ミキはことの重大さを理解しているような顔をする。僕がそんな顔をしているのだろう。

「アキはミキのお母さんじゃない」

 ミキは黙って僕を見る。

「他にお母さんがいる訳でもない。ミキはアキのクローンなんだ。だから遺伝子的には全く同じ。ミキはアキなんだ」

「似てる訳だわ」

 ミキの声には強がりの響きがあった。

「パパはアキが死ぬときに血を取って、ミキを作った。目的は、十八歳になったらアキにしようと思ったからだ」

「ちょっと待って。私は私だよ」

「あの部屋にあるものを使わせて……いや、計画のことはここまででいい」

 僕の目に映るミキは、ミキだった。若い頃のアキとそっくりだったけど、ミキだった。おしめを変えたミキだった。一緒に生きて来たミキだった。自分の恋人にしようだなんて、もう思えなかった。僕は頭を振る。ミキは凍りついたみたいに固まって僕を見ている。

「ミキはミキだ。アキの代わりにはならない。生まれはクローンだけど、これからもパパの娘でいて欲しい」

「じゃあ、ママはママのままでいい?」

「いい」

「私は、パパの娘でよかったって、今だって思うよ」

 僕の底から涙が込み上げて来て、そのまま目から溢れた。アキが許してくれるってのはこう言うことだったのか。僕の中で微かにミキに重ねていたアキの幻影が風に揺れるように溶けた。僕は何てことをしようとしていたのだ。ミキも僕のことを許してくれている。僕の長年の計画は粉砕されたけど、それでよかったのだ。ミキは、アキと僕の娘だ。

「パパ、朝ごはん食べよう」

「そうだね」

 僕は涙を拭いてミキと並んで朝食の準備の続きをした。


(了)

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