卵はまだ割らない

ドラドラ

見えない命を温める日々

 冷蔵庫の卵を見ると、私は思うことがある。


 卵は殻に守られ、中身は見えない。

 外からは、そこに何が入っているのか分からない。


 割らなければ、確かめようがない。

 けれど、割った瞬間、もう元には戻らない。


 卵とは、そういう存在だ。

 可能性と不可逆が、薄い殻一枚で釣り合っている。


 ◇   ◆   ◇


 七月のある日、妻から第二子の妊娠を知らされた。


 正直に言えば、驚きよりも、胸の奥が静かにほどけていくような安堵が先に来た。

 喜びが爆発するというより、長く張りつめていた糸が、ようやく緩んだ感覚だった。


 長女がダウン症だと分かったあの日から、私たちはしばらく妊活を控えていた。


 未来を諦めたわけではない。


 だが、あのときの私たちは、あまりにも多くのものを一度に抱えすぎていた。


 生まれてきた命を守ること。

 社会と折り合いをつけること。

 この子の将来を、漠然とした不安ごと受け止めること。


 新しい卵を温める余裕など、正直なところ、なかった。


 ◇   ◆   ◇


 それでも時間は流れ、長女は三歳になった。

 成長はゆっくりだったが、確実に前へ進んでいた。


 笑うようになり、名前を呼ぶと振り向き、私たちの顔を見て、安心したように小さな手を伸ばす。


 その一つ一つが、私たちの中に沈殿していた恐れを、少しずつ溶かしていった。


 この子の世界は、確実に広がっている。


 私たちが思っているよりも、ずっと力強く。


 そう感じられるようになった頃、私たちは再び卵を温める決断をした。


 第二子の妊娠を知った日、妻の体の中に新しい命があると思うだけで、世界が少し柔らかくなった気がした。


 街の音も、空の色も、いつもより優しく感じられた。


 それが正しい道だと、疑いもしなかった。


 ◇   ◆   ◇


 だが、一か月後、妻の体調は目に見えて悪くなった。


 つわりにしては、長すぎる。

 顔色は冴えず、仕事から帰ると、横になり動けなくなる日が増えた。


 それでも妻は「大丈夫」と言った。

 そして私は、その言葉を疑わなかった。


 疑わなかったというより、疑いたくなかったのだと思う。


 殻にひびが入っているかもしれないと気づくのが、遅かった。


 ◇   ◆   ◇


 あの日の朝も、いつもと変わらなかった。


 まだ薄暗い時間帯、私はいつも通りの出勤準備をしていた。

 妻が起き上がり、すぐにトイレへ向かった。


 それを、私は何の疑問もなく見送った。


 行ってきます、と声をかけ、玄関を出る。


 その背中に、後悔という言葉が張りつくことになるとは、夢にも思わなかった。


 日常は、あまりにも自然な顔で続いていた。


 ◇   ◆   ◇


 仕事を終えて帰宅すると、妻が家にいた。


 出勤日のはずなのに、と思ったが、体調不良で休んだのだろうと、深く考えなかった。

 すべてを、日常の延長線上にある出来事として、無意識に分類してしまった。


 そして、静かな声で告げられた。


 胎児が、流れたこと。


 言葉が耳に届いても、意味が追いつかなかった。

 頭の中で弾かれたまま、形にならない。


 朝、トイレに行ったとき、ぬるっとした感触があったという。


 何かが、落ちた感覚。


 不安になり、一人で産婦人科へ行き、そこで胎児がいなかったことを知らされたという。


 卵は、割れていた。


 私の中で、何かが音を立てて崩れた。


 手足がしびれ、心臓が異常な速さで脈打ち、立っていられなかった。

 床に座り込み、息の仕方さえ分からなくなった。


 一つの命を、失ったのだと、遅れて実感が追いついてきた。


 私ですら、こんなふうになった。


 では、妻はどうだったのだろう。


 後になって、妻はぽつりと言った。

 あのとき、トイレで、すくい上げてあげられたらよかったのかもしれない、と。


 排水に流れていく水音の中で、何もできなかったことが、今も胸に引っかかっているのだと。

 あの卵を、せめて手のひらに乗せてあげられたら、少しは違ったのではないかと。


 私は、何も言えなかった。

 いや、正確には、言えることが一つしかなかった。


 そんなことはない。

 君のせいじゃない。


 それは慰めにも、答えにもならない言葉だったと思う。

 それでも、私はそれを繰り返すしかなかった。


 どんな行動をしていても、結果は変わらなかった。


 そう言い切ることでしか、妻の後悔を受け止める術を、私は持っていなかった。


 命が殻を出るとき、そこに意思が介在する余地はない。

 掴めたかどうかで価値が決まるものでもない。


 頭では分かっている。


 だが、心はいつも、『もしも』を探してしまう。


 すくい上げられなかったのは、卵ではない。


 自分自身を責めずにいられない、その感情だった。


 自分の体の中で、卵が割れ、何も生まれなかったことを知る。

 その瞬間を、一人で受け止めた妻の気持ちを、私は想像しきれない。


 守っていたはずの卵が、気づかぬうちに割れていた。


 温めていたはずの時間が、突然終わった。


 ◇   ◆   ◇


 それでも、世界は続く。


 翌日も朝日は昇り、長女は変わらず笑っていた。

 昨日までと同じように、無邪気に。


 世界は何事もなかったかのように回り続ける。


 その事実が、かえって胸に重くのしかかった。


 私はその日から、酒をやめた。


 健康のためでも、反省のためでもない。


 ただの、願掛けだった。


 もう一度、卵を授かることができたなら。

 その殻が、最後まで割れずに守られるなら。

 無事に生まれるその日まで、私は飲まない。


 そう決めただけだ。


 酒を断ったところで、何かが変わる保証はない。

 因果関係など、どこにもない。


 それでも、人は理屈ではなく、祈りで生きる瞬間がある。


 殻の中で育つものは、外からは見えない。

 ただ信じて、温め続けるしかない。


 酒は、私の殻を薄くする気がした。

 意識を緩めた隙間から、あの日の感情や言葉が溢れ出してきそうで。

 自分の中の覚悟まで、溶かしてしまいそうで。


 感情は、思っているより簡単に割れてしまう。


 明日は会社の仕事納めで、そのまま忘年会だ。

 街にはすでに、年末の浮き立つ気配が満ちている。

 赤と緑の飾りの次は、赤と白の飾り。

 軽い笑い声、乾杯の約束。


 このまま、何事もなかったかのように年は暮れ、めでたい空気のまま、新しい年が始まるのだろう。


 だが、私は飲まない。


 どれほど時間がかかってもいい。

 どれほど慎重になってもいい。


 卵は、割るためにあるのではない。


 生まれ落ちるその時、殻が役目を終える。


 あの日失われた卵は、決して無駄ではないと、私は信じたい。


 守れなかった命も、後悔も、すべてを抱えたまま、次の卵を温め続けるしかない。


 冷蔵庫の中で、卵は今日も静かにそこにある。


 飲まないという小さな我慢を、卵のそばに置いておく。


 それが、父親としてできる、ささやかな祈りだった。

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