光は名を呼ばれない
あまいこしあん
光は名を呼ばれない
暗闇の中で、光は目を覚ました。
天井は低く、白い。病室のようでいて、どこか無機質だった。手足は拘束されていない。ただ、逃げ道がないことだけは、直感でわかった。
「起きたか」
スピーカー越しの声。
男の声だった。落ち着きすぎていて、感情がない。
「ここはどこ……?」
問いに、答えは返らない。代わりに、壁の一部が光り、映像が映し出された。
そこにいたのは、ミオだった。
そして、その隣に立つ——彼女が「相棒」と呼ぶ人。
二人とも、別々の部屋にいるようだった。
互いの存在は見えているが、触れられない。
「再会だな」
声が続く。
「君たち三人には、因縁がある」
光の胸が、嫌な音を立てて軋んだ。
男は名乗らなかった。
だが、言葉の端々に、国家という巨大な影が滲んでいた。
「現総理大臣は知っているか?」
光は黙ったまま、画面を見つめる。
「彼は、かつて“Velvet Moon”のオーナーだった男の弟だ」
その瞬間、ミオの表情が凍りついた。
相棒が一歩、前に出ようとする。
「兄を殺したのは、ミオ。
それが事実かどうかは、もはや問題ではない」
声は淡々と続く。
「彼は復讐を選び、国家を選んだ。
そして今、君たちを選んだ」
光の映像に、初めて視線が向けられた。
「君は“取材の場で救われた娘”。
あの日、あの場に現れなければ、事業所は潰れていた」
光は唇を噛んだ。
あれは衝動だった。正義でも勇気でもない。ただ、見過ごせなかっただけ。
「だからこそ、価値がある」
画面が切り替わる。
光の過去、ミオの過去、相棒の過去。
つなぎ合わされ、ひとつの“物語”として提示される。
「命令は一つだ」
沈黙。
「ミオと相棒。二人で殺し合え」
「……ふざけないで」
最初に声を上げたのは、光だった。
「それで何が残るの?」
スピーカーが一瞬、ノイズを発した。
「残るのは秩序だ。
君たちは“例外”だ。国家は例外を許さない」
ミオが、ゆっくりと首を振った。
「私たちは、もう“選ばされる側”じゃない」
相棒が頷く。
「光。聞いてるか」
光は、強く頷いた。
「私は……駒じゃない」
その言葉に、空気が変わった。
数分後、照明が落ちる。
拘束も、指示もない。ただ一つ、試されている。
殺すか。
従うか。
それとも——
沈黙を選ぶしかないのか。
ミオと相棒は、互いに言葉を交わさなかった。
否定もしない。肯定もしない。
それは諦めではなく、下手に声を出せば、すべてを壊してしまうと知っている者たちの沈黙だった。
光だけが、呼吸を乱していた。
「……待って」
彼女は一歩、前に出る。
カメラの赤いランプが、無言で点灯した。
「今ここで決断するのは間違ってる。
まず私が出る。外に、この状況を伝える」
ミオが、わずかに目を見開いた。
相棒が、首を横に振る。
危険だ、と言わなくても伝わった。
それでも光は、走った。
警告音。
床が揺れ、扉が閉まりかける。
光は全力で駆けた。
だが、距離を読み違えた。
次の瞬間、視界が歪む。
腹部に、重い衝撃。
一度ではなかった。
複数の影。無言の力。
「っ……!」
声は、途中で途切れた。
床の冷たさを感じる前に、意識が闇に沈んだ。
目を覚ましたとき、光は浮いていた。
正確には、浮かされていた。
透明な壁。
淡い光を帯びた液体。
身体は自由に動かないが、痛みもない。
——培養液カプセル。
そう理解した瞬間、恐怖が遅れて押し寄せる。
外から、誰かの影が見えた。
しかし声は届かない。
光は、ただ見つめることしかできなかった。
別の部屋で、ミオは耐えていた。
拘束は解かれていない。
逃げ場も、選択肢もない。
彼女が受けている行為の意味を、相棒は理解していた。
理解しているからこそ、視線を逸らすことも、止めることもできなかった。
「……もう、いい」
相棒の声は、かすれていた。
「これ以上は……無理だ」
ミオが顔を上げる。
血の気の引いた唇が、震える。
「お願いだ」
相棒は、彼女を見なかった。
「君が、終わらせてくれ」
それは命乞いではなかった。
逃避でもなかった。
壊れきる前に、自分を消してほしいという願いだった。
銃は、すでに手元にあった。
国家は、すべてを用意していた。
選択肢のない選択を。
ミオは、何度も息を吸い、吐いた。
「……ごめん」
引き金を引いた。
音は、驚くほど小さかった。
その瞬間、光のカプセルの液体が揺れた。
理由は分からない。
だが、胸が締め付けられ、息が詰まる。
——何かが、終わった。
それだけは、確信できた。
後日、この施設は記録から消された。
事件も、人物も、因果も。
光は、生きて外に出た。
だが、彼女の中で何かは、確実に変わってしまった。
ミオは、公の場から姿を消した。
名も、立場も、過去も。
国家は、沈黙を守った。
そして光は、知る。
沈黙を選ばされた者たちの犠牲の上に、世界は平然と続いているということを。
それでも彼女は、生きる。
名を呼ばれなくても。
守られなくても。
——忘れないために。
光は名を呼ばれない あまいこしあん @amai_koshian
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