第4話

 「何で、殺したの?」


 木漏れ日の中に立つ宮尾は、ひどく穏やかだった。その透明な瞳が、言葉が、逃げ場のない「刃」となって俺を貫く。


「文学だけでも優位に立っていると思っていたのに、「悪くない」なんて、慈悲のように俺を肯定し、軽薄なエンターテイメントのように消費したからだ」


 俺の咆哮に近い告白を、宮尾は冷めた笑みで受け流した。


「結局、人よりも優位に立つことしか考えていないんだよ。実力も伴っていないのに、自尊心だけはこの森よりも遥かに立派だ。…いいか、あれはただの社交辞令だ。あんたの本なんて、一文字たりとも読んでいない」


 心臓が凍りつく。


「俺の物語の方がずっと優れている。何故かわかるか?形振り構わず宣伝して、それが評価につながってる。努力をしてるんだよ。一方であんたは格好つけて斜に構えて、自分を特別だと思い込みたいだけ。憎むべきは俺じゃない。隅の方で小さくなって世間に毒を吐き、素直に「読んでください」と言えないあんた自身さ」


 俺は怒りで拳を握った。支配していたはずの「俺だけの宮尾」が牙を剥いた。針の穴を通すように的確に、俺の心の柔らかな部分を「刃」で貫く。


「お前の評価は上っ面だけの、仲良しごっこで互いに評価を付け合った結果だ。俺は違う。純粋に俺の書く言葉が好きな人間が評した本当の評価だ」

「そう思っていればいい。それでも、本は読まれて評価された者が勝者だ。好きな人だけに読まれ、その人たちだけに向けて書くのは、あんたの言う仲良しごっこと何が違う?」


 宮尾の言葉は、俺が夢の中であいつに刻んだ痣よりも深く、俺の魂を抉り取った。俺は、再び逆上してあいつの首を絞めた。だが、宮尾は抗うことなく、ただ俺の顔をじっと見て笑った。


 目が覚めた。茹だるような熱気はない。アパートの一室。パソコンの液晶が青白く光り、白い画面に文字が浮かんでいる。


『何で俺を殺した?』


 俺は悲鳴を上げて椅子からのけぞり、冷蔵庫を、押し入れを、部屋のすべてを確認した。

 死体はない。体液の臭いもしない。

 突然、インターホンが鳴った。チェーン越しに扉を開けると、そこには二人の警察官が立っていた。


「異臭がするとの通報を受けたので、各部屋を確認しています。一階の方が、上から腐ったような臭いがすると」


 一階?ここは三階だ。臭いが上から降ってくるはずがない。


「異臭はいつから?」

「つい昨日ですよ。夏ですからね、猫か何かが壁の中で死んだんでしょう」


 「そうですか」と答え、されるがままに部屋を見せた。冷蔵庫も押し入れもすべて確認し、頭を下げて出ていった。

 何もない。やはり、すべては夢だったのだ。

 俺は安堵し、壁に寄りかかった。その時、ふと壁の向こうから微かな音が聞こえた。


「もしもし?ここから出してくれませんか?」


 それは、紛れもない宮尾の声だった。


「お前は、猫か?」

「いいえ、私は犬です」

「何でそんなところにいる」

「あなたがここに閉じ込めたんでしょう?」

「…あれは、夢じゃなかったのか」

「さぁ。夢であって欲しかった?」


 逃げ場のない問いかけに、俺の心拍が跳ね上がる。


「俺は殺してないし、嫉妬なんかしていない。努力もしているのに、なぜあいつが、あいつだけがすべてを奪っていくんだ」

「あいつって?」

「夢に出てくる、鬱陶しい奴だ」

「みゃお〜」

「ふざけるな、お前は犬だろ」

「そうですよ。あなたのような、卑しい負け犬です」

「負けてない」

「何に?」


 問い返され、言葉が詰まった。


「あなたはいつから、何と戦っているんです?勝手に負けたと思い込んで、嫉妬して。相手は何も思っていないのに、あなただけが固執して、自分を特別だと思い込もうとしているだけなのでは?」

「うるさい」

「そうやって他人の言葉を否定して拒否するから、自分だけの世界から抜け出せないんでしょう?仲良しごっこで気持ちよくなっているのは、一体誰でしょう?」

「うるさい!」


 俺は拳を壁に叩きつけた。何度も、何度も、右手の皮が弾け、血が壁を汚すまで。ようやく空いた穴の中に指を突っ込み、内側の暗闇を掻き毟る。

 だが、そこには何もなかった。

 声も、宮尾も、犬も、猫も。ただの、空虚な空間があるだけだった。


 無気力な感覚に襲われて膝をつく。傍にはあの「夢日記」がある。

 これまでの出来事は、すべてこのノートの中に刻まれているはずだ。俺が宮尾を支配し、繋がったという唯一の証拠が。

 震える指でページを捲った。


 白かった。

 一頁目も、中盤も、最後の一頁まで。

 インクの染み一つ、ペンを走らせた跡さえもなかった。


 俺が心血を注いで綴り続けたあの「不協和音の羅列」も、宮尾の肌に刻んだ「痣の記録」も、何一つとして存在していなかったのだ。

 最初から一文字も書かれていない白紙の束だった。

 目の前が、真っ白に塗り潰される。

 俺は、自分が誰なのかも思い出せないまま、ただ白紙の海へと沈んでいく。


「俺は、誰になりたかったんだ」


 その時、静止した空気の中、耳元で、湿り気を帯びた間の抜けた声が響いた。


「みゃお〜」

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白紙の痣 おーひょい @oooooooohyoi

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