第3話

 次に目が覚めたとき、指先に触れたのは、シーツの感触ではなかった。

 それは、石鹸の匂いが微かに残る、だが氷のように冷たくなった、本物の肉の重みだった。

 俺は弾かれたように跳ね起きた。

 暗闇に慣れた眼が、シーツの上に転がる「それ」を捉える。


 宮尾だった。


 ストールを剥ぎ取られたその首筋には、どす黒い紫色の指跡が深く食い込んでいる。見開かれた瞳は白濁し、焦点の合わない眼球が、ありもしない天井の闇を見つめていた。


「…あ、あ…」


 声にならない悲鳴が喉にせり上がり、俺は布団から転げ落ちた。

 窓はガムテープで目張りされ、部屋は一滴の光も通さない完全な密室。宮尾がここへ来るはずがない。鍵はかかっていた。俺は一度も立ち上がっていない。なのに、隣には冷たくなった宮尾がいる。


「違う、これは、夢だ。まだ覚めていないだけだ」


 俺は自分の腕を血が出るほど噛んだ。鋭い痛みが走る。だが、世界は消えない。

 それどころか、死体からは不都合な現実が立ち上がり始めていた。


──暑い。


 閉め切られた八畳間の室温は、真夏の熱気と、俺自身の脂ぎった汗と吐息で異常に膨れ上がっていた。

 このままでは、こいつはすぐに腐る。

 「文学」でも「真実」でもない、ただの不潔な肉の塊として、ドロドロに溶けて悪臭を放ち始める。


「隠さないと。どこか、涼しい場所に…」


 俺は這いつくばって台所へ向かった。視界に入るのは、一人暮らし用の小さな古びた冷蔵庫。

 俺は狂ったように中身をぶちまけた。一昨日買った缶ビール、ラップのかかった惣菜。それらをすべて床に捨て、棚の仕切りを力任せに引き抜いた。

 俺は布団を剥ぎ取り、宮尾の体を無理やり冷蔵庫の狭い空間に押し込んだ。だが、死後硬直が始まっているのか、思うように曲がらない。

 俺は宮尾の背中に膝を乗せ、全体重をかけて押し潰した。ミシミシと、肋骨が軋む音が狭いキッチンに響く。


「入れ…入れよ…お前は俺の、俺だけのものなんだから…!」


 ようやく、宮尾は体育座りのような歪な形で収まった。扉を閉め、ガムテープで隙間を塞ぐ。モーターが重苦しい音を立てて回り始めた。


 俺は、その場にへたり込んだ。

 手にはあいつの肌の冷たさと、脂のような感触がこびりついている。ふと視線を落とすと、床に落ちた俺の「夢日記」が開いたままこちらを見ていた。

 そこには、俺が今まさにやり遂げたはずの「殺害」の描写は一行も書かれていなかった。


 それから数日間、俺の日常は「沈黙」と「異臭」に支配された。

 サークル棟へ行くと、部室は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。


「宮尾くんと連絡がつかない」


 仲間たちが青い顔でスマホを握りしめている。その隅で、俺はいつものように埃っぽい席に座り、ノートパソコンを開いた。

 俺の耳の奥では、不協和音ではなく、冷蔵庫のモーター音のような低い唸り声が鳴り続けている。

 アパートへ戻るのが怖かった。ガムテープで幾重にも密閉したはずの冷蔵庫から、何かが「漏れ出て」いる気がしてならない。


 四日目の夜だった。

 狭いキッチンに立ち尽くす俺の鼻を、逃げ場のない悪臭が突いた。それは、夏の熱気に当てられた生肉が、粘り気を帯びて溶けゆく匂い。


 ふと足元を見ると、冷蔵庫の底からどろりとした赤黒い液体が這い出していた。

 俺は狂ったように雑巾で拭い取った。だが、拭けば拭くほど、その液体は鉄錆のような、あるいは宮尾の石鹸の香りを無残に汚したような臭いを放ち、部屋中に充満していく。


 その時、静寂を裂いてインターホンが鳴った。心臓が喉から飛び出しそうになる。


「警察です。下の階の方から、異臭がするとの通報がありまして」


 俺は動けなかった。


「開けてください。確認だけですから」


 無理やりこじ開けられる前に、俺は震える手でチェーンを外し、扉を数センチだけ開けた。

 二人の警官が、怪訝そうな顔で俺を見ている。その視線の先は、俺の背後、あの異臭の源であるキッチンへと向けられていた。


「ひどい臭いだ。失礼しますよ」


 彼らは拒む間もなく、土足で俺の聖域を蹂躙した。一人が鼻を抑えながら、一直線に冷蔵庫へ歩み寄る。


「ここから漏れてますね」


 終わった、と思った。

 俺の文学も、宮尾との心中も、すべてが白日の下に晒される。


 警官の手が、ガムテープの貼られた冷蔵庫の取っ手にかけられた。バリバリと、乾いた音がしてテープが剥がれる。


 俺は目を閉じた。


 扉が開く、重苦しい音がした。


「…なんだ、これ」


 驚愕の声に、俺は恐る恐る目を開けた。


 冷蔵庫の中は、空だった。

 

 棚の仕切りも、放り込んだはずの宮尾の死体も、何もない。

 ただ、底の方に、あの忌々しい赤黒い液体だけが、水溜りを作って淀んでいるだけだった。まるで最初から宮尾などいなかったと言うように。


「俺が殺した。俺が、あいつを冷蔵庫に詰めたんだ」


 警察署の取調室の無機質な蛍光灯の下で、俺は何度も同じ言葉を繰り返した。

 だが、刑事たちは困惑した顔で互いを見合わせるばかりだった。


「乾さん、落ち着いてください。宮尾くんの行方不明届も出されていますが、あなたの部屋から事件性を示す証拠は何も出ていない。あの液体も、ただの腐った野菜の汁と生活排水が混ざったものだと…」

「違う! 俺は確かに、あいつの喉を締めたんだ! 指に、この指先にまだ感触が残っているんだ!」


 俺は叫び、自分の指を突き出した。だが、刑事の目には、痩せ細った男の指にしか見えていなかった。


 自首してもなお、俺の「真実」は世界に拒絶される。俺は精神鑑定を待つため、薄暗い留置場の一室に閉じ込められた。

 コンクリートの床に横たわり、俺は必死に目を閉じた。

 宮尾に会わなければならない。

 現実が俺を認めないのなら、夢の中に、俺たちの本当の結末があるはずだ。


 茹だるような熱気に、俺は目を覚ました。そこは、留置場の冷たい床ではなかった。慣れ親しんだ、アパートの一室。

 自首も、警察も、すべてが悪夢だったのかと胸を撫で下ろそうとしたその時。

 キッチンの冷蔵庫から、あの鼻を突く「体液」の腐った臭いが漂ってきた。


 慌てて玄関へ向かうと、ドアの隙間に光熱費の支払いの催促状が挟まっている。

 支払いを忘れていたせいで、冷蔵庫の電源が落ち、中の「宮尾」が腐り始めたのだ。

 俺は狂ったようにコンビニへ走り、氷を買い、支払いを済ませた。だが、戻ってきたアパートの階段下には、赤色灯を回したパトカーが数台停まっていた。


 俺は氷の袋を投げ捨て、肌身離さず持っていた「夢日記」だけを掴んで、裏手にある深い山の中へと駆け込んだ。


 巨大な杉の木陰に凭れ、荒い息を吐きながら俺は日記をを捲る。

 そこには、俺と宮尾が夢の中で貪り合った、悍ましくも美しい情事の数々が書き連ねられていた。だが、何度読み返しても、「宮尾を殺した」という記述がどこにもない。


「俺が、本当に宮尾を殺したのか? ならば、あいつが俺を「好きだ」と言って受け入れたのは、夢じゃなかったのか?」


 現実と夢が、裏表を失ったコインのように激しく回転し始める。混乱に耐え切れず、俺は逃げるように重い瞼を閉じた。


 目を開けると、木漏れ日の中に宮尾が立っていた。あの時と同じ、ストールのない、無防備な首筋を晒して。


「…何で、俺を殺したの?」


 宮尾の声が、静かな森に響き渡った。

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