泣き虫姫の最後の結婚

根占 桐守

鉄血の女を、泣き虫な花嫁にしてくれる貴方へ。

 陽の光で白銀に透き通るベール。風にふわりと浮き、真白の光を溢れんばかりに湛えるドレス。色とりどりの香り立つ花々が編み込まれた御髪おぐし

 年の離れた姉姫たちが、頬を赤らめた美しき花嫁姿で輿入れする様を遠目で目にするたび。

 わたしはいつも、焦がれるようにこう思うのです。


「わたしもいつか、最高に幸せな花嫁になりたい」と。


 物心ついた時から胸に焼き付いていたその夢を口にすると、わたしはあらゆる人々から何故だか大笑いされておりました。

 所詮わたしは、フェール王国の末姫。しかも妾の子。国王陛下、王妃殿下、お兄様、お姉様、大臣や従者たち、民衆にまで、いつもめそめそ泣いているわたしは遍く人々にこう呼ばれて笑われています──〈泣き虫姫ジリエーザ〉と。

 王族に相応しくない、穢れた血がその身に流れるわたしを娶ってくれる男など、何処にもいるわけがないのだと、皆が口をそろえて仰います。

 耳が痛くなるほどそう言い聞かされると、わたしはやっぱり泣くしかありません。泣くことしかできないのです。生まれた時から、泣いていない日などありませんでした。皆に笑われると、何故だかわたしは涙が止まらなくなってしまいます。いつもいつも、意味もなく、泣いております。それだからわたしは、〈泣き虫姫ジリエーザ〉なのでしょう。


 それでもわたしは、いつまで経っても、ずっと──この命がついえる時まで、ずうっと。


「最高に幸せな花嫁になりたい」という夢は、この胸に焦げ付いたままでございました。


 ◇◇◇


 十五歳の春。わたしに、初めて「婚約者」というものができました。夢のような心地でした。


「……お前が噂の〈泣き虫姫〉か。貧相な女だ」


 その御方はわたしの二つ年下で、十三歳。わたしを「泣き虫姫」と呼ぶ声変わりしたばかりの声は、少し掠れておりました。

 聞いたところによると、その御方は我がフェール王国を侵略しようとした帝国の皇子様なのだとか。しかし帝国はフェール王国に敗れ、二国の和平の証に皇子様とわたしの婚約がなされたらしいのです。

 わたしはその御方が「侵略者」様という恐ろしい呼び名で呼ばれていたことと、何よりわたしを見上げてくるその御方のお顔があまりにも怖かったので、思いがけず──一目見て、声を上げて泣いてしまいました。


「う、うぅ……うわあああん……!」

「……はあ。俺は泣き虫が嫌いだ」


 ◇◇◇


「俺の名はラルムだ」


 わたしの婚約者様──ラルム様がわたしの城に住むようになって三か月。わたしがラルム様の怖いお顔を前に啜り泣きにまで抑えられるようになって、そう名乗られました。わたしは思いがけず、はなをすすりながら声を上げます。


「そう、なのですか……? ぐすっ……すごい。わたしの城と同じお名前ですよ、ラルム様。これはきっと、運命でございますね」

「運命? そんなわけがなかろう。俺のまことの名は、この国に人質として寄越された際に奪われた。この城と同じ『ラルム』という名は、死ぬまでこの城を守り、この城のために死ねという意味だ。俺というフェール王国の犬の、首輪も同然だ」


 ラルム様は、いつもより一層怖い顔をしてわたしを見上げてきました。


「お前も憐れなものだな、ジリエーザ。フェール王国の姫ともあろう女が、人質以下の犬と結婚させられるのだ。ゆえに、お前はいつも泣いておるのだろう?」


 わたしはまた、声を上げて泣きそうになりました。でもわたしは、「結婚させられる」という言葉が聞き捨てならなくて、鼻水が垂れてくるのにも構わず、ラルム様の手を指でぎゅっと握りました。


「違います! 『結婚させられる』のではありま、せん……! わたしは、ラルム様の花嫁になりたいの、です! だから、結婚するのです……! ううう……わあああ……!」


 結局わたしは、声を上げて泣いてしまいました。だけどラルム様は、つるぎのように鋭かった眼差しをまん丸にして、何故だか驚いたような顔をすると、わたしが握った指を、ほんのちょっとだけ握り返してくれました。

 わたしはやっぱり、泣くことしかできません。


「だ、から……だから、あわれとか、むずかしいお言葉を言わないでください……! わたしの泣き虫はラルム様が嫌なのではなく……生まれつきのチャームポイント、なんですぅ……ひっぐ、ぐす……ううぅ……」

「……わかった。痛いほどわかったから……泣くな」


 ラルム様が片手で頭を抱えて、溜め息を小さく吐きます。その吐息には、微かに笑いに似た温かなものが混じっているように思えたのは、私の気のせいでしょうか。


 ◇◇◇


 それからのラルム様と過ごす日々は、あっという間でございました。

 ラルム様と共に居るとわたしの狭い世界が、ぱあっと明るく、広くなってゆくのです。


 わたしが十六歳。ラルム様が十四歳の秋。

 ラルム様が乗馬の仕方を教えてくださいました。わたしはお馬さんに乗るのが怖くて、やはり泣いてしまいました。ラルム様のお顔はあまり見えなかったけれど、ラルム様のお声はいつもより弾んだようなものに思えました。


「おい、ジリエーザ。あまりくっつきすぎるな。馬を御しづらい」

「う、うえええ……! ゆ、揺れます! 怖い怖い怖い、ラルム様、わたしから離れないでください……!」

「嫌でも離れられぬわ。わかったから、顔を肩に擦り付けるな……おい、鼻水!」


 わたしが十八歳。ラルム様が十六歳の夏。

 ラルム様と共に、我が城を囲む湖へとピクニックに行きました。ラルム様に、初めて水中での泳ぎ方を教えていただきました。

 ラルム様が、わたしには肉体を動かす才があると仰ってくださったけれど。足のつかない水中が怖すぎて、わたしは水中でラルム様に蛇のように纏わりつくと、やはり泣いてしまいました。


「わあああん! 助けて、ラルム様ぁ! あ、足がつきません……怖い、深い、怖い! やだぁ……!」

「うお……待て、ジリエーザ! 俺に纏わりつくな! 色々と当たって……」

「は……ラルム様、お顔が赤くなっていますよ……? ま、まさかお風邪をめされたのでは!? う、え、ぐす……ラルム様、死なないでぇ……!」

「はあ、クソ……風邪などひいておらぬ。そして俺は死なん。いいから、少し手を緩めろ。岸まで連れて行ってやる。ほら、ゆくぞ」


 わたしが十九歳。ラルム様が十七歳の冬。

 雪がしんしんと降り積もる夜。わたしが悪夢を見て泣いて飛び起きると、初めてラルム様が同じ寝台で眠ってくださいました。

 わたしは眠りにつくまで、ずっと泣きっぱなしでしたが、ラルム様はわたしが眠るまで穏やかに話しかけてくださり、昔ばあやがやってくれていたみたいに、トントンとわたしの身体を毛布越しにやさしく叩いてくださいました。


「ううっ、ぐす……ごめんなさい、ラルム様……ラルム様、城のお仕事でお疲れなのに……」

「よい。俺もちょうど仮眠を取りたかったところだ」

「ありがとうございます、ぐずっ、ラルム様……ラルム様はあたたかいですね」

「……馬鹿を言え。それはお前の方だ。ジリエーザ」


 そうして、わたしが二十歳。ラルム様が十八歳の春。

 わたしたちは互いに成人の年齢を迎え、いよいよ婚姻の儀を執り行う年が訪れました。

 幼き頃より、ずっとずっと、ずうっと、わたしが待ち望んでいた時。

 その喜びが間近に迫っているのをどうしても隠し切れないわたしは、いつも通り書斎にて、城主のお仕事をなさっているラルム様へぴったりと寄り添いました。

 やっぱりラルム様のお顔が怖いのはどうしても慣れなかったので、涙目のまま。


「ラルム様」

「何だ」


 ラルム様が書類に視線を留めたまま、短く応えます。出逢ったばかりの頃は、ラルム様がお返事してくださることは稀でした。だけど今はこんなにも早く、わたしの呼びかけに応えてくださいます。

 嬉しい。大好き。ラルム様、だいすき。わたしのことを、見てください。


「……おい。耳元で喧しいぞ。ジリエーザ」


 あら。どうやら心の声が、口をついて出ちゃったみたいです。これは何だかはしたないのではないかと思い至って泣けてきて、わたしははなを啜ります。

 わたしがいつものように泣き出したのを、ラルム様も察してくださったのでしょう。ラルム様は「ふ」と小さな吐息を吐いて、首を傾けながらわたしを見上げてくださいました。

 実はラルム様は背丈がわたしより小さいことを気にされていて、わたしを見上げる時は何処かぎこちないのです。

 お顔は怖いけれど、可愛いラルム様。やっぱりだいすき。


「泣くな。それで? 何か言いたいことでもあるのか」

「ラルム様……わたしたち、もうすぐ夫婦となれるのですね」

「またそれか。お前はその話を、今年に入って何百回するつもりだ」


 ラルム様が呆れたように、でも柔らかいお顔でつるぎのような目を伏せると、椅子の背もたれに深く凭れかかります。それに合わせて、わたしもラルム様の首に腕を回して抱き着きました。ラルム様は、されるがまま抱擁を受けてくださいます。だいすき。


「だって、ぐす……だって、ラルム様。わたしはね、『最高に幸せな花嫁』となることが、幼き頃からの夢なの、ですよ! ……わたし、胸がいっぱいで……!」

「……花嫁、となることは叶うだろうな……だが」


 ラルム様が、珍しく言いよどむように口を開閉させた後、ぽつりと、独り言ちるように仰いました。


「『最高に幸せ』、というのは……叶うのか。お前の夫と成る者が、この俺で。俺でなくとも、お前は……」

「叶います。当然です」


 わたしは間髪を容れずに、口を開きました。開いた口がわななき、いつも以上に涙が溢れてきます。どうしてでしょう。


「そんな、寂しいことを言わないで。ラルム様……わたしの今の夢は、『最高に幸せなラルム様の花嫁』なのですよ? ラルム様。少しでもわたしと離れること、考えてたら、嫌。嫌です……う、ううぅ……そんなの、絶対に嫌、です……!」


 わたしはぶるぶると震えて、いつも以上に大泣きしてしまいました。わたしはきっと、面倒臭い女なのです。ごめんなさい、ラルム様。ごめんなさい。

 涙のとまらないわたしに、ラルム様が溜め息をつきました。

 嫌われちゃったら、どうしよう。ごめんなさい、ラルム様。


「泣くな、泣き虫。お前が泣くと、昔から身体も気も力が抜けてくる」


 ラルム様が少しだけ顔をわたしから背けます。そして、小さな声で、それでもはっきりと、こう仰いました。


「……先ほどの言葉は取り消す。ゆえに泣くな。ジリエーザ」


 きっと、この世界でいちばん、わたしを心地よく泣かせるのがお上手なのがラルム様なのでしょうね。

 わたしはラルム様が愛おしくて堪らなくなって、ラルム様をぎゅっとさらに強く抱きしめました。そんな時ふと、書斎に城の兵士が飛び込んできたのです。


「何事だ」


 ラルム様はわたしの腕の中から離れて、兵士のもとへ駆け寄ります。すると、こんなお話が聞こえてきました。「帝国が休戦協定を破り、再び戦争を仕掛けてきた。そしてこの城にも迫っている帝国軍が、帝国の皇子たるラルム様に、フェール王国第六王女ジリエーザを人質に取ってこの城を奪えと要求している」と。

 まつりごとに疎いわたしでも、すぐにわかりました。

 ラルム様が母国にお帰りになる時が、来てしまったのだと。

 わたしはすぐさま、ラルム様のお役に立ちたいと思いました。

「さあ、ラルム様。わたしとこの城を、帝国に差し出してください。ラルム様のためならば、たとえ無能な泣き虫であろうと、わたしは何だってできます!」と、申し出るつもりでした。

 何としても申し出なければいけないというのに、わたしは──。


「ラルム、さま……わた、し……どうすれば……わたし、怖い、です」


 わたしの口から出たのは、恐怖が色濃く滲む濡れた泣き声でした。

 ラルム様がわたしを振り向きます。そのつるぎの切っ先のような眼差しが鋭く細めてられてわたしを捉えるので、わたしの身体は勝手にびくりと大きく震えました。

 わたしは咄嗟に、掠れて震える声を絞り出します。


「ごめん、なさ……ラルムさ、ま……」

「ジリエーザ」


 気が付けば。

 わたしはラルム様の腕の中におりました。あのラルム様に、初めて抱きしめて貰ったのです。


「しばし此処で待て。俺が必ずこの城を守る。お前の城は、帝国であろうが何であろうが、何者にも奪わせはせぬ」


 抱擁を解いて、ラルム様が真っ直ぐにわたしを見据えます。


「よいな」


 わたしはこの時ようやく、何故ラルム様のつるぎの眼差しが怖いのかが、はっきりとわかりました。

 ラルム様の眼差しは誰よりも真っすぐで、未来を見据えていて、気高くて──危ういのです。

 わたしでは、この御方を止められないのです。

 だってわたしは、ラルム様のく道を妨げたくないから。あの御方が見据えるつるぎの眼差しの先を、覆い隠してしまいたくないから。わたしはラルム様の危うさにまで、惹かれてしまっているから。


「では、行ってくる」


 ラルム様はそう残して、書斎を出ていかれました。

 わたしはやっぱり何もできないままで。「行ってらっしゃい」とか「お気を付けて」という言葉すら、苦しくて、怖くて、どうすればいいのかわからなくて、喉に引っ掛かったまま言えずじまい。

 ただひたすらに、音を立てずに泣くことしかできなかったのです。


 ◇◇◇


 わたしが生まれて、わたしとラルム様の城になった、この「ラルム城」が帝国軍に急襲されて一週間が経ちました。

 この一週間は何よりももどかしくて苦しい、永遠とわのような時間にも思えましたし。全てが微睡の夢の中だったのかもしれないと錯覚するような、刹那の時にも思えました。

 この一週間。わたしが眠れた時は、一瞬もございませんでした。

 戦が終わったとのしらせが入りました。帝国軍が撤退したのだと。

 それに併せて、ラルム様がご帰還されたというしらせも入ります。

 そのしらせを聞き終わる前に、わたしは駆け出しました。

 ラルム様がいらっしゃる広間まで、わたしは風のように走ります。


 ラルム様、ラルム様、ラルム様、ラルム様、ラルム様──。


 どうかご無事で。だいじょうぶ。ラルム様なら絶対にだいじょうぶ。だって、あのラルム様だもの。誰にでも不敵で、お身体は小さいけれど誰よりもすばしっこい御方。


「ラルム様、ラルム様、ラルム様! どこですか、ラルム様!」


 いつの間にかラルム様のお名前を叫んでおりました。わたしは叫びながら、心の内で何度も繰り返してしまいます。

 ラルム様なら、絶対にだいじょうぶ──。


「……来たか。ジリエーザ」


 ラルム様がわたしを呼びます。わたしは呼ばれたままに振り向きます。

 そこには、真っ赤に血濡れたラルム様が、片膝を立てて座り込んでおられました。

 兵士や従者たちは皆離れた位置におり、ラルム様を囲むように平伏しています。


「ラルム、様……ラルム様!」


 血濡れになろうと、ラルム様のつるぎの眼差しは変わりません。その鋭さをやはり怖いと思いつつも、心底ほっとしてしまって、わたしは兵士たちが自然に開けてくれた道を駆けます。

 そのままわたしは一直線にラルム様に飛びつきした。するとラルム様は簡単に床へと押し倒されてしまいました。わたしは思わず弾かれたように起き上がります。すると、わたしの下で倒れるラルム様の背中から、赤い海がどくどくと染み渡ってゆくのでした。

 呼吸も瞬きも、言葉さえ忘れてしまったわたしに、ラルム様が怖いほどにいつも通りの声で淡々と仰います。


「俺は死ぬ」

「……は……」


 わたしは、間の抜けた声しか発せませんでした。

 そんなわたしにも構わず、ラルム様は続けて淡々と仰います。


「よいか。ジリエーザ。俺が死ねば、お前だけがこの城の城主となる。お前は〈泣き虫姫〉だからとあなどられ、様々ないやしき者共に付け狙われることになろう。お前諸共、俺たちが豊かに築いたこの城を手に入れようとな」


 ラルム様はゆっくりと起き上がられます。身体を動かす度に、どくどくと、赤い海が深く、広くなってゆきます。わたしはそれを、見ていることしかできません。

 無意味な涙を、やっぱり無意味に流し続けることしかできません。

 ラルム様が、無音で泣き続けるわたしを、覗き込むように見てきます。

 つるぎの眼差しを以て、真っ直ぐに。


「ゆえに、。何者にも、決して付け入る隙を見せてはならぬ。どんな手段を用いようとも、藻掻き続けて生きろ。したたかに在れ」

「……そ、んなこと……わたしなんか、に、できま、せん……」


 わたしは掠れ声を振り絞って、弱音を吐きます。するとラルム様は、剣の目を細めて、わたしの頬に柔く触れてくださいました。何よりも冷たく、やさしい手でした。


「案ずることはない。俺の妻たるお前なら、必ずできる。そう生きられる」


 そこでラルム様がはっと息を呑まれると、途轍もなく寂しげに、ぽつりと独り言ちられました。


「……否。お前はまだ……俺の妻、では……なかった、な……」


 ラルム様が、トンとその額をわたしの肩にくっつけて寄りかかります。わたしは思いがけず、ラルム様を酷く震える手で抱きしめました。


「もう……そろそろ、らしい……」


 そう仰られた声は、今までに聞いたことが無いほどに弱々しいものでした。

 鼓動の音も緩く、小さくなり、ラルム様の呼吸の音すら聞こえません。

 わたしは泣きながら絶叫していました。


「い、や……いや、嫌、嫌、嫌! 嫌です。絶対に、嫌です。死なないで、ラルム様……絶対に死んではいけません! ラルム様! だめ……駄目、駄目、駄目、駄目! 絶対に、駄目! 誰か、ラルム様を助けて。お願い。お願いします……お願いですから、ラルム様。わたし、もう泣いたりしませんから……わたしを一人にしないで。お願いだから、死なないで! ラルム様、ラルム様、ラルム様!」

「……聞け。ジリエーザ」


 わたしの絶叫を諭すように、ラルム様がわたしを呼びます。そんな、柔くて、やさしくて、温かい呼び方をされたら……わたしは、ラルム様の言う事を聞くしかないのです。


「泣き虫は嫌いだと。いつも言っていたな。あれは──嘘だ」


 ラルム様が片手でわたしの頭を抱き寄せ、ラルム様自身の頭を擦り寄せてくださいます。それがこんな時でも心地よくて、わたしは目を細めてしまいます。


「お前が初めて、俺を見て泣いたあの時。あの瞬間から今この時まで、ずっと、俺は──泣き虫なお前に、心を奪われ続けている」


 わたしは呼吸を忘れました。呼吸すら煩わしかったのです。


「泣き虫なお前を、ずっと、好いている……」


 ただひたすらに、ラルム様のお声とお言葉を、この魂と肉体に焼き付けて刻まねばならないと、必死でした。


「今思えば。俺はいつもお前を怖がらせて、泣かせてばかりだったな……許せ」


 ラルム様、ラルム様、ラルム様。

 わたしもです。わたしも、ラルム様に初めて出逢ったあの瞬間からずっと……片時もなく、あなたに恋し続けております。

 だいすき、なのです。

 そうお伝えしたいのに、口からは泣き声と嗚咽しか漏れません。


「なあ、ジリエーザ……お、れ……と……」


 わたしの頭を抱いていた、ラルム様の片手がふと、落ちてしまいます。

 それと同時に、ラルム様の鼓動も、呼吸音も、体温も、何もかもが消えてしまいました。


「ラ、ルム、さま? ……いや……や、だ……あ、あああ……あああああああ──!」


 わたしの声にならぬ声が、怪物の如き咆哮だけが、虚しく激しく、轟きます。

 きっとこの時。

 わたしはラルム様と共に、生まれてこの方枯れることを知らなかった涙も、失ってしまったのでしょう。


 ◇◇◇


 ラルム様を失ったあの日。

 それからは死ぬまで一生、泣くことなどなかった。

 ラルム様の最期の言葉が、その先の私を明確に形作ったのだ。

 ラルム様の死後。私は一生のうちに、列強国の王や大貴族といった計七人の男と結婚し、数多くの養子を育て、私とラルム様の城を中枢とした国を建国した。

 そうして私は、豊かなラルム様の城を付け狙うかつての母国フェール王国の半分の領地を奪って打ち負かし。ラルム様を殺した帝国は徹底的にほろぼした。

 かつて〈泣き虫姫ジリエーザ〉と呼ばれた女はもうどこにもおらぬ。

 今、この地を統べるのは、齢七十にして戦争の前線を駆ける女王。

 ラルム城を守る、血も涙もない女。

〈鉄血女王ジリエーザ〉などと、呼ばれている。


 ◇◇◇


「……いよいよ私にも、この時が来たか」


 戦場で永く吼え続けてきた私の声は低く、年相応に嗄れている。

 かつての母国、フェール王国との何度目かの戦の最中さなかにある私は、本陣の天幕に居た。人払いをした天幕の中央で──大量の血に濡れた包帯に巻かれて、横たわっている。

 外では、永く私と共に戦ってくれた民たちが咽び泣く気配がする。皆、私の死期を悟ったのであろう。

 いつからだろうか。私は、死ぬ時は一人と決めていた。ゆえに、天幕の中には私一人。

 目蓋まぶたを閉じれば、激動の生の記憶が濁流の如く蘇ってくる。どれも懐かしくて、恋しい記憶だ。

 しかし、不思議と物悲しくは思わなかったし、寂しくも、怖くも無かった。

 無論、涙など流れることも無い。

 私はもう鉛のように重くなって上がらない目蓋をそのままに、小さく喉奥で笑う。


「〈鉄血女王〉と畏れられた私の死も、あっけないものだな」


 意識が、とろとろと溶けていく感覚に身を任せて、最期を呟いたその時。


『ふん。何が〈鉄血女王〉──お前は〈泣き虫姫〉だろう。ジリエーザ』


 不意に、この魂を焼け焦がすような声が聴こえた。私は弾かれたように目を見開くと飛び起きて、背後を振り向く。


『は……ラルム、さま……?』


 私は間の抜けた嗄れ声で、あの御方の名を呼ぶ。

 見間違えようもない。

 あの御方──ラルム様は、不敵に鼻を鳴らして、ラルム城の城門の前に腕を組んで立っていた。


『久しいな』


 ラルム様が淡々と短く仰ると、小首を傾げる。その懐かしい仕草が堪らなく愛おしくて、私は咄嗟にラルム様の名を叫んだ。


『ラルム、さま……ラルム様、ラルム様!』


 一歩、一歩。

 ゆっくりとラルム様のもとへ歩みを進める。

 確かめるように。恐れるように。

 足を踏み出す度に心臓が痛いほどに高鳴り、両目から頬にかけて、炎に炙られて焼け爛れるような熱を伴った。きっと、地獄へ行く私に相応しい、業火にこの目を焼かれているに違いない。

 そんな私を静かに見つめているラルム様が、「ふ」と笑うような吐息を漏らす。その吐息さえも酷く懐かしく、叫び出したいほどに愛おしい。


『泣き虫は変わらぬままか』

『……え?』


 ラルム様の言葉に、私は思いがけずまた、間の抜けた声を


『違う……違います。私、ラルム様が居なくなってしまわれてからは、ラルム様の言いつけをお守りして、一度として泣いたことなど……あ、れ……?』


 気が付けば、私は大粒の水の珠を、ぼたぼたと流していました。私がこの身を焼く業火と思っていたものは、熱い涙。

 ラルム様に近づいていくに連れて、の獣のような低い嗄れ声は、いつかの少女のような泣き声に変わってゆきます。

 ラルム様の目の前まで辿り着いたわたしは、涙の止め方も忘れたまま、うわ言のように繰り返しました。


『なみだ、どうして今更……? 申し訳、ございません。ラルム様……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』

『何を謝る事があろうか。あの時、言っただろう』


 ラルム様がふわりとわたしを抱きしめて、「ふ」と笑いの混じった吐息を零しながらゆっくりと仰います。


『俺は泣き虫なお前を好いている──ようやく、お前の夢を叶える時が来た』


 ラルム様が抱擁を解いて、わたしの両手を握ってくださいました。

 ラルム様の仰る「わたしの夢」──遠く、忘れ去ってしまっていたはずのその夢が、鮮烈に思い出されて、わたしの涙は更に烈しく流れ落ちてゆきます。


『あの時の続きを、してもいいか』


 あの時。きっと、ラルム様とわたしが離れてしまった、あの時のことでしょう。

 ラルム様は何かを言いかけられて、逝ってしまわれました。わたしは早くその時の続きが聞きたくて、ラルム様のつるぎの眼差しを見つめたまま、何度も頷きます。


『俺と結婚してくれ。ジリエーザ』


 幼き頃からの、わたしの夢。

 だいすきなラルム様に出逢った時から更に熱く胸に焼き付いた、何にも代えがたい夢。



 最高に幸せなラルム様の花嫁になりたい!



 わたしは生きている間、たくさんの男性と結婚しました。彼らを利用するために、わたしの夢をも利用して、結婚してしまいました。血も涙もない女です。

 それなのに。それを知ったうえで、ラルム様は──。


『うっ……ふ、うう……こんな、わたしと……結婚して、くださるのですか……?』

『無論。俺の花嫁は、お前だけだろう。ジリエーザ』

『ぐす……ううう……ラルム、さま……わ、ああああ……!』


 魂が弾けんばかりの幸せに、至上の喜びに、わたしは大泣きしてラルム様の腕の中に飛び込みました。

 ラルム様は小さく肩を竦めながら、大泣きし続けているわたしを抱き上げると、遠く在りし日のラルム城へと向かってゆっくりと歩いてゆきます。

 そして、「ふ」と笑う吐息混じりにこう仰いました。


『ようやく見れたな。お前の嬉し涙を』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

泣き虫姫の最後の結婚 根占 桐守 @yashino03kayama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画