クリスマス、雪の音が消えるまで

あまいこしあん

クリスマス、雪の音が消えるまで

 街は朝から静かだった。

 雪が降ると、音が一枚ずつ剥がされていくように、世界が柔らかくなる。駅前のイルミネーションも、人のざわめきも、すべてが白い膜の向こう側にあるようだった。


 私は小さなケーキの箱を抱えて、彼の部屋の前に立っていた。

 インターホンを押す指先が、少しだけ冷えている。緊張なのか、冬のせいなのかは分からない。


 扉が開いて、彼が現れる。


「……寒かったでしょ」


 それだけで、胸の奥がふっとほどけた。

 この人はいつも、大きな言葉を使わない。でも、その分、視線や声の温度が正直だ。


 部屋に入ると、暖房の匂いと、微かに漂うシナモンの香りが混じっていた。

 テーブルの上には、赤ワインと簡単な料理。豪華ではないけれど、丁寧に選ばれたものばかりだと分かる。


「ケーキ、持ってきたよ」


「ありがとう。ちょうど良かった」


 そう言って笑う彼の横顔を見て、私はふと、去年のクリスマスを思い出す。

 あの頃は、まだ他人行儀で、触れ合うことにも理由が必要だった。


 今は違う。


 食事をしながら、他愛のない話をする。仕事のこと、最近見た映画、駅前のツリーが去年より小さくなった気がする、なんてどうでもいい話。


 でも、そのどうでもよさが、心地いい。


 ワインを少し飲み過ぎたせいか、頬が熱くなる。

 視線が合うたび、言葉が一拍遅れる。


「……音楽、かける?」


 彼がそう言って、静かなジャズを流した。

 スピーカーから溢れる低い音が、部屋の空気をゆっくり揺らす。


 ソファに並んで座ると、肩が触れる。

 触れているのに、触れていないふりをする距離。


 その曖昧さが、甘い。


「雪、すごいね」


「うん……帰れなくなったら、どうする?」


 冗談めかして言ったつもりだった。

 でも、彼は少し間を置いてから答えた。


「その時は、その時で」


 視線が絡む。

 それだけで、言葉はいらなくなった。


 彼の手が、そっと私の指に触れる。

 確かめるように、逃げ道を残すように。


 私はそのまま、指を絡め返した。


 心臓の音が、やけに大きい。

 音楽よりも、雪よりも。


 彼が近づく。

 息が混ざる距離。


 唇が触れた瞬間、世界が一段静かになった気がした。

 深くもなく、激しくもない、ただ「確かめ合う」ためのキス。


 それなのに、胸の奥が熱くて、どうしようもない。


「……好きだよ」


 彼の声は、囁くようで、でも逃げなかった。

 私は少し笑って、同じ言葉を返す。


 それからは、時間が溶けていった。


 ソファに身を預けて、互いの体温を感じる。

 指先が髪に触れ、背中に回り、また離れる。


 焦らない。

 奪わない。


 ただ、必要なだけ、近づく。


 窓の外では、雪が降り続けている。

 世界はまだ冷たいのに、この部屋だけが、別の季節みたいだった。


 やがて、彼の肩に頭を預ける。

 心臓の音が、規則正しく伝わってくる。


「クリスマスってさ」


「うん?」


「誰かと一緒にいるだけで、特別になるんだね」


 彼は何も言わず、私の髪を撫でた。

 その仕草が、答えだった。


 夜は、まだ長い。

 でも、急ぐ理由はどこにもない。


 雪が止むまで。

 音が戻るまで。


 この甘さの中で、少しだけ、眠ってしまってもいいと思った。


 今年のクリスマスは、

 きっと、忘れない。

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