奏でていたのは『ミッシェル』。聴こえてきたのは、別れの言葉
志乃原七海
第1話『Michelle』。
***
午前二時半。自室の窓ガラスは、漆黒の夜を映す鏡になっている。
俺はヘッドフォンを耳に押し当て、シールドのプラグをアンプにねじ込んだ。真空管が温まる微かな匂い。外界の雑音を遮断し、世界を自分とベースだけのものにする。
指先が選んだのは『Michelle』。
Fマイナーから半音ずつ下降していく、ポール・マッカートニーの独創的なベースライン。親指で弦を弾くたび、重低音が頭蓋骨を直接揺らす。
美しいが、どこか歪で、不安を掻き立てる進行だ。なぜ、この音へ落ちていくのか。解けないパズルを指でなぞるような感覚に、眠気などとうに消し飛んでいた。
ふと、背筋を氷で撫でられたような寒気が走る。
なんだ――?
演奏への没入とは違う、異質な胸騒ぎ。
その直後だった。
**バチィッ!!**
ヘッドフォンの内側で爆竹が破裂したような轟音。同時に、右手の甲を焼けるような衝撃が襲った。
「ッ、――あぐっ!」
反射的にベースを取り落とす。
ぶらりと垂れ下がっていたのは、4弦だ。
一番太い、鋼鉄のワイヤーのようなE弦が、無惨に千切れて暴れていた。
「嘘だろ……」
右手を睨む。鞭打たれた皮膚が裂け、どす黒い血が玉になって浮き上がってくる。
ジンジンと脈打つ熱と痛み。指が無事だったのが奇跡に近い。
それにしても、4弦だぞ。演奏中にここが切れるなんて、何万回弾いてきても初めてだ。
「……不吉すぎる」
垂れる血を舐めとり、絆創膏を探すために部屋を出た。
廊下は暗い。だが、リビングのドアの隙間から、細い光の筋が漏れている。
消し忘れか。
ドアノブを回し、リビングへ足を踏み入れる。
――トントントン。
規則的な包丁の音が響いていた。
キッチンの照明の下、見慣れた背中がある。彼女だ。
会社の制服を着たまま、前屈みで手元を動かしている。横には、俺の使い古した弁当箱。
「……おい、どうした?」
声をかけると、包丁の音が止まった。
彼女はゆっくりと振り返る。
逆光で表情が読み取りにくい。だが、その瞳だけが、ガラス玉のように悲しく濡れて光っていた。
「ごめんね」
静かな声だった。
「わたし、明日からもうお弁当、作れないから」
彼女は困ったように眉を寄せ、あどけない顔で続けた。
「わたし、死んじゃったから」
理解を拒絶する脳裏に、リビングの静寂を切り裂く電子音が突き刺さった。
俺のスマホだ。
画面に点滅する『緊急通知』の文字。
震える指で通話ボタンを押す。
耳に飛び込んできたのは、無機質で切迫した男の声と、背後に響くサイレンのノイズ。
『警察署です。奥様の身分証をお持ちの方が事故に……現場へ急行してください、心肺停止状態で――』
スマホを耳に当てたまま、顔を上げる。
キッチンには、誰もいなかった。
ただ、作りかけの卵焼きと、蓋の開いた弁当箱だけが、冷たい蛍光灯の下に取り残されていた。
右手の傷口から、ポタリ、と血が床に落ちた。
奏でていたのは『ミッシェル』。聴こえてきたのは、別れの言葉 志乃原七海 @09093495732p
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