第2話

 皐月野千夜は、真黒な冷蔵庫に映る自分にえい、えい、と叱りつけながら蹴りを加えた。

 雨の中矢のように家を出て、最寄りのスーパーマーケットまで約3分。

 居心地の良い我が家に留まろうとする愚かな自分をこの手で殺め、自らを奮い立たせようとしていたのだ。


 1分、2分。

 冷蔵庫の角を軽く蹴っていた素足が僅かに逸れて、小指を角にぶつけた。角に小指をぶつけた時の、何倍にも増幅された痛みが千夜の足から脳天までを一瞬にして走り抜け、強い眩暈を覚えた。

 千夜は揺らぐ視界の中、よろよろと2、3歩歩いて、がくりと膝を折った。


 もう、歩くことはおろか、立ち上がることすらできなかった。

 視界の端、硝子窓の向こうに広がる鈍色の空からバケツををひっくり返したような大雨が降り注ぎ、千夜の胸の中にある微かな気力すらも飲み込まんと荒れ狂う波となっていた。これでは気力を持ち直したところで、外に出ることなどできはしない。


 千夜は天井を仰ぎ、悔し泣きに泣き出した。ああ、あ、長い高校時代を戦い抜き、受験戦争にも挫けずここまで生きてきた千夜よ。小説家の卵、千夜よ。今ここで動けなくなるとは情無い。愛する家族は今のお前の姿を見て泣いておるぞ。と、自分を叱ってみるのだが、もはや手足は壊死し、芋虫のように廊下に転がっているだけの姿を晒す以外のことは最早できそうになかった。


 空腹に屈すれば、精神も共にやられる。

 私はよくよく不幸な女だ。死後の世界、天国が地獄かはわからないが、きっと笑われる。私の家族も笑われる。雨の日に空腹で死ぬなんて。しかし、もう、どうでもいいことだ。空腹の中、どうせ何にもなりやしない思考を働かせることほど、不毛なことはないだろう。

 そんなことはもう、やめてしまおう。


 千夜は膝から下だけを動かし、真黒な冷蔵庫に狙いを定めた。この足を勢いよくぶつければ、自分の心臓も止まるだろうか。

 ぶん。と足を動かし、一撃。

 じんと指先が痛むが、心臓は止まらない。

 ——南無三。とうとう千夜は両足すら投げ出し、うとうとまどろんでしまった。


 ふと耳に、ごとん、何かが落ちる音が聞こえた。どうやら冷蔵庫の中の何かが落ちたようだ。

 そうするとどうだろう。力を失っていたはずの右手に、微かに力が戻っていくではないか。

 千夜はゆっくりと上半身を持ち上げ、冷蔵庫の下、まだ開けていない野菜室の扉を引いた。


 見ると、真新しい棚の中に緑色の球体が転がっているではないか。

 それは、アボカドだ。

 雨空の微かな光を反射して、あでやかに輝くそれの声を、千夜は確かに聞いた。

『私を食べろ。』と。

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ある日のお昼ごはん 安藤栞 @ando_siori

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