【12】
次の週は、大忙しだった。
理由は単純で、折原さんが紹介してくれた土地が、こちらの想像を超えて好条件だったからだ。駅から近く、周辺環境も悪くない。地形も整っていて、権利関係もきれいだ。上司に資料を見せた瞬間、目の色が変わったのを覚えている。
「篠田、すぐに提案できるように準備しろ。よその会社に取られたら、上に経緯を説明しないといけなくなるからな」
脅しにも似た檄を飛ばされて、僕は毎晩遅くまで残って提案資料を作る羽目になった。数字を詰め、図面を作り、想定問答をひたすら書き足す。いつも最後にオフィスを出て、終電で帰り、シャワーも浴びずにベッドに倒れこむ。目を閉じても、パソコンの鈍い光が、まだまぶたの裏に残っていた。
それでも、夜中にふっと思い出す瞬間がある。遥香さんは、どうしているだろう。今日もあの黒い影が現れ、彼女の安眠を妨げているのではないか。そう思うと、より一層彼女が気の毒に思えるのだった。
折原さんから連絡が来たのは、そんな一週間を何とか生き抜いた、金曜日の夜だった。
翌日、僕は新宿駅に降り立つと、人混みをかき分けてある喫茶店へと向かう。少し歩いただけで、目的地の看板はあっけないほど静かに現れた。珈琲西武。入口は控えめで、並んでいる人の横を「すみません」と言って通りながら、僕は店内への足を踏み入れた。
「篠田、ここだ」
手を挙げる折原さんを見つけて、僕はその向かいに腰を下ろした。赤いソファは深くて、背もたれに身体を預けると、吊り下がるランプの小さな灯りが目についた。
これはいわゆる、“昭和の純喫茶”というやつだろうか。平成生まれの僕には、当時を知るはずもないのだが、こういうクラシックな店内を見ると、懐かしさみたいなものが静かに立ち上ってくる。
しかし折原さんは、そんな空気に浸る様子もなく、机の上に山積みにされた本の山へ視線を沈めていた。背表紙には「民俗学」「オカルト」「超常現象」――そんな言葉が並んでいる。
「すごい量ですね。借りてきたんですか?」
「まあな。どこに手がかりがあるかわからんから、手当たり次第に当たってる」
折原さんは視線を上げないまま答えた。会社員だった頃から、彼女はずっとこうだ。人にも頼るけれど、自分で調べられることは一つ残らず頭に叩き込み、噛み砕いて、自分の血肉にしてしまう。だからこそ、あの超人的な仕事ぶりが成り立っているのだろう――そう思ったところで、ウェイターがすっと現れたので、僕はアイスカフェラテを注文する。
なぜ僕らがここにいるかと言えば、遥香さんが“スミオさん”の怪談を聞いた場所が、この珈琲西武だったからだ。例のピンク髪のユーチューバーが、また現れるかもしれない。要は張り込みのいうわけだ。やみくもに探し回るよりも、可能性のある場所に賭けたほうが効率は良い。
とはいえ時間がもったいないので、僕らはそれぞれ好きな作業をしながら待つことにする。
最初の一時間は、わりと普通だった。折原さんは黙々と参考書籍のページをめくり、僕はパソコンで終わっていない提案資料を作り込む。せっかくなので折原さんにアドバイスを求めるが、軽くいなされてしまった。
けれど張り込みは、基本的に退屈だ。何も起きない時間が長い。次第に集中力は途切れ、僕らはそれぞれの甘いものを注文することにする。
「どうですか? 何かわかりましたか?」
「いや、どこにもスミオさんなんて幽霊は書かれていないな。そもそも、LINEだなんだと言っている時点で、あまり期待もできないが」
折原さんはポンポンと本の山を叩く。
「だが、願いを叶えてくれる怪談っていうのは、意外に多い。宅間稲荷の霊験とかな」
「番町七不思議でしたっけ? 確かによく聞きますよね」
僕も折原さんの助手をそれなりにやってきているので、怪談話にも詳しくなってきている。宅間稲荷の霊験というのは、千代田区の番町に願いが妙に叶う稲荷があり、成就した後にお礼参りをしないと祟られる、という話だ。
「どうしてそういう話が多いんでしょうね」
「さあな。みんなないものねだりなんじゃないのか。身の丈に合わないものばかり求めるのが、人の常だからな」
折原さんは机に運ばれたレモンケーキを受け取ると、嬉しそうに頬張った。ひと口飲み込んでから、ぽつりと続ける。
「最近はSNSなんてもののせいで、他の人の成功がよく見えるようになってしまったからな。よりいっそう、身の丈に合わないものが欲しくなってしまうわけだ」
たしかに、と思う。タイムラインには、誰かの昇進、誰かの結婚、誰かの海外旅行、誰かのタワマン。切り取られた“成功”だけが流れてくる。ああいうのを見ていると、自分の生活とつい比べてしまって、勝手に傷ついたりもする。でも、やめたくても今さらやめられないというのが本音だった。
僕の知る限り、彼女はその手のものをほとんどやっていない。だからだろうか、僕はついうっかり、口を滑らせてしまう。
「でも、良いこともありますよ。SNSって。便利じゃないですか。いろんな情報が勝手に入ってくるし、知らないことも知れるし」
言い終えた瞬間、折原さんの咀嚼が止まった。フォークが皿の上で、かすかに音を立てる。
「篠田」
名前を呼ばれただけで、背筋が伸びる。
「人の話を鵜呑みにするな。特に、誰が言ったかもわからないときほどな」
「え……」
「理由は三つある」
折原さんは指を一本立てた。
「一つ。人は、出来事を都合よく組み替える。悪気がなくても、記憶は編集される」
二本目。
「二つ。人は都合のいいことしか聞かないし、都合のいいところしか覚えない。聞いた側も、話した側もだ」
三本目。
「三つ。いちばん厄介なのは、その情報が間違っていても、本人が嘘だと疑っていないことがある。相手が信用できるかどうかと、話の中身が正しいかどうかは別なんだ」
折原さんはケーキの欠片を小さく切り、落ち着いた声で続けた。
「おまえがやるべきなのは、人の話をそのまま信じることじゃない。確認することだ。誰が、どこで、何をしたのか、どうしてしたのか、根拠はあるのか。ちゃんと自分の頭で考えて、判断しろ」
僕は思い当たる節があり、乾いた声で答える。
「……じゃあ、遥香さんの話も」
「否定はしてない」
折原さんは視線だけを上げた。
「だが、慎重に扱え。彼女の話は、まだ真実とも虚言とも言い難い。真実の見極めは、事実を追いかけて、論理的な証明によって行われる必要があるんだ」
僕は返す言葉が見つからず、カフェラテに手を伸ばす。からん、と鳴った音が、静かな店内には不釣り合いなくらい大きく響いた。
***
夕方が近づくころ、折原さんが一度だけ席を立った。戻ってきた彼女は、スマホを片手に声をかけてくる。
「篠田、そろそろ切り上げるぞ」
「え……、何かあったんですか?」
「遥香さんからだ。この一週間の状況について、話したいらしい」
僕らは荷物をまとめて、あわただしく新橋へと向かった。駅前のビジネスホテルの一階にあるロビーで、遥香さんと待ち合わせる。
「環境を変えてみても、やっぱりだめでした。あの影は、ずっと私についてきているんです」
真っ赤なスーツケースを抱えた彼女は、先週よりさらに消耗していた。髪はぼさぼさで、顔色もどこか薄い。
「そうですか……。そうなると、やはりあなた自身に何か原因があるようです」
折原さんは声色に気をつけながら、うつむく遥香さんに問いかけた。
「何か思い当たる節はありませんか? 例の怪談に関係なくとも、実生活で変化があったこととか、仕事の悩みだとか」
「ないです……。仕事もこの春に体制変更があったくらいで、やっていることはそんなに変わっていませんし」
「体制変更?」
「はい。……自分で言うのもなんですが、四月一日付で課長に昇進しまして。でも、こんな状況だから、全く期待に応えられていないのですが」
「そんなことはないでしょう。おめでとうございます」
折原さんは一瞬だけ笑みを見せ、また真面目な顔に戻る。
「念のため、会社の方やご友人にも話を聞いてもいいでしょうか」
「どうぞ……。それなら、私の同期をあたってください。諸々の事情を話してありますから」
連絡先を教えてもらっている間、僕は彼女のスーツケースから機材を取り出し、パソコンに繋いでデータを確認する。やはりカメラには何も映っていないかったが、ひとつだけ、気になることがあった。
「折原さん、ちょっと」
振り向いた二人に、僕はパソコンの画面を見せる。
「サーマルスコープの方で、気になることがありまして。影らしきものは映っていないのですが、なぜか部屋の温度が上がっているんです」
設置されたサーマルスコープ付きのカメラは、シングルの客室全体が映り込む位置に固定されていた。映像の中で、遥香さんは時折びくりと立ち上がり、部屋のどこか一点を睨むように見つめる。カメラには映っていないが、例の影が現れているのだろう。僕が注目したのは、その瞬間の「部屋全体」の温度だった。
「ほら。ここ、わずかですけど色味が変わってる。せいぜい数度あるかないかですが、でも温度が上がっているのは確かです。で、もう一つ。なぜかここだけ、妙に熱い」
僕は画面の隅に浮かぶ、小さな四角い影を指さした。赤く滲んで発光するその場所を見て、遥香さんはうーんと首を傾げる。
「これは……たぶん、私のスマホですかね」
「スマホ?」
「はい。ほら、直前まで触ってますし」
少し巻き戻す。立ち上がる直前、彼女が手にしていたスマートフォンを、ベッドに放り投げるのが映っていた。だが、これが熱くなっただけで、部屋全体の温度が変わるとは思えなかった。
「これで、何かわかるんですか?」
「え? いや、それはまだ、何とも……」
期待のこもった遥香さんの眼差しに、僕は歯切れ悪く答えた。折原さんが顎に手を当てたまま口を開く。
「何にせよ、物理的に有意な差が観測できたのは収穫です。この映像も解析しましょう」
その後、他の機材のデータも見てみたが、それ以上は何も見つからなかった。パソコンをぱたんと閉じると、嫌な感じの沈黙が僕らの間に流れる。
「私は、どうしたらいいんでしょうか……」
遥香さんの声が、少し掠れた。折原さんは少しだけ考えて、ゆっくりとした調子で答える。
「ほかの方法を試しましょう」
「ほかの方法って?」
遥香さんが顔を上げる。折原さんは、言葉を一つずつ置くみたいに話した。
「この手の怪奇現象には共通することがあります。それは、対象以外の人間が一緒の時には発生しないというものです」
折原さんの主張は、これまで関わってきた事件から得られた知見だった。心霊現象の相談を受けても、なぜか僕らが調査に入ると、その現象だけがぴたりと発生しなくなることがある。依頼人の家を出た途端に「今、起きました」と電話が入り、慌てて引き返すなんてことも、珍しくなかった。
「遥香さんの身に起きていることも、誰かがそばにいれば発生しなくなる可能性がある。だから――」
遥香さんはごくりと喉を鳴らし、答えを探すように折原さんを見つめる。次は何をさせられるんだろう。そんな不安が、息づかいの端に滲んでいる。けれど、折原さんが口にしたのは、僕の予想からも外れた言葉だった。
「だから――しばらく私の家に住みませんか?」
遥香さんは驚いた顔で、折原さんを見つめた。
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霊視探偵の報告書 石野 章(坂月タユタ) @sakazuki1552
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