赤い糸

もも

赤い糸

 朝起きると、右手の小指にミシン糸のように細くて赤い糸が巻きついているのが見えた。糸の先はベッドから垂れ、部屋の扉の下にある隙間から外へ続いている。

 弟がいたずらでもしたのかな。

 とりあえず布団から出て、私は家族の声がするリビングへ向かった。


「おはよう。ご飯出来てるからね」

「ん」


 優しい母の声。

 私はテーブルについて箸を持つ。


「はい」


 味噌汁を差し出す母の右手が視界に入る。

 赤い糸。


「お母さん、糸付いてるよ」

「え?」

「小指」


 母は右手の甲と掌を確認したが「付いてないけど」と不思議そうな顔をした。


「いや、でも」


 確かに細い糸が結びついている。


「まだちゃんと目が開いてないんじゃない? 先に顔でも洗って来たら」

「……大丈夫」


 母の小指から垂れ下がる糸の行方を、私は目で追う。


「おはよう」


 リビングの扉を開けて、ワイシャツ姿の父が入って来た。


「はい、コーヒー」

「ありがとう」


 優しく微笑んだ父が母からマグカップを受け取る。その手の小指には、やはり赤い糸が結ばれていた。


 切れてしまいそうなほど繊細な糸の先にいたのは、母だった。

 成程と思った私の頭に、ある言葉が浮かぶ。


 これってもしかして、『運命の赤い糸』ってヤツかな。

 だってこのふたり、結婚してから30年ぐらい経っているのにいつも仲良しなんだもん。


 改めて自身の小指を見る。

 もしそうだとしたら、この糸を辿れば私が結ばれる相手に出会えるのかも。

 そわそわする気持ちに居ても立ってもいられず、私は普段より早く家を出て、学校へ向かうことにした。


 明後日から全国大会に出場するバレーボール部キャプテンの沢田くん。

 演奏する時のまっすぐに伸びた背筋が綺麗な吹奏楽部の三田くん。

 面倒臭そうにしながらも質問にはきちんと答えてくれる数学の原先生。

 カウンターで静かに文庫を読む姿が印象的な図書委員の川内くん。

 そういえば、この間ゴミ捨てを変わってくれたのはクラス委員の向井くんだった。


 誰かも分からなかった運命の人がこの糸の先で私を待っているのかと思うと、自然と足が速くなる。


 待っててね、私の大切な人。


 細く長い赤い糸は、切れることなく道の上に続いている。

 歩道の上にはたくさんの赤い糸が見えるが、すれ違う人の小指を見比べてみると巻かれた糸の全てがどこかへ繋がっているとは限らなかった。結ばれてはいるが10センチ程でスパッと切れているもの、糸の先が引きちぎられたようにぐしゃぐしゃになったものなど、誰とも結ばれていないケースもあれば、どこかへ繋がろうと目の前で一瞬にして伸びていくものなど、糸の在り方にも色々なパターンが存在するようだ。


 誰とも繋がっていない人は、運命の人と巡り合っていないってことなのかな。

 でも、糸があるから会えるんだよね? 


 糸と人、どちらの存在の方が先なんだろうと一瞬考えたが、今朝見えたばかりのものについて深く考えても手掛かりが無さ過ぎて分からないから意味がないなと思い、止めた。

 

 何にしても、私の糸は切れることなく誰かに繋がっているのだ。

 願わくば、その先にいるのがちょっと気になっているあの子だったらいいのにな。


 そう思いながら辿っていくと、糸はビルとビルの間にある細く、暗い路地の向こうへ続いているのが見えた。


 時計を見る。

 始業時間まで、まだ余裕がある。


 私は猫のように身体を細めて路地を抜けると、古い民家が立ち並ぶ一角に出た。赤い糸はそのうちの一軒、平屋の門扉の下を通り、庭の方へ入り込んでいた。


 え、私の運命の人ってこんな近くにいたの?

 もしそうなら、一目だけでも見てみたい。

 

 不法侵入と分かっていながらも、少しだけ、顔を見るだけという想いで、私はそっと敷地へ入り、庭へ回った。

 

 地面を這っていた糸は壁を伝い、窓の向こうへ続いている。

 窓ガラスにそっと耳を寄せる。サーッという水の音から推測して、ここはお風呂場だろうか。キュッと栓を締める音に続き、扉を開く音がして、静かになる。

 運命の人が入っていたのかもしれないと想像すると、何だか胸がドキドキした。


 どんなところに住んでいるのか知りたい。


 窓の桟に手を掛け、ほんのわずかな隙間を作り、中を覗き見た。


「いやっ!!!」


 驚きの余り、声が出る。

 バラバラになった手と足、頭と胴体が浴槽に無造作に積まれていた。


 何あれ。マネキンとかじゃないよね。だって、お風呂の中が赤くて、切られたところは明らかに肉だった。


 運命の人が殺人鬼だったなんて、そんなことある?

 どうしよう、怖い。

 逃げなくちゃ。

 

 出来るだけ音を立てないようにゆっくりと後ろを振り返り、門扉へ向かおうとしたその時、凄い勢いで玄関の扉が開いた。


「君、うちで何してるの」


 沢田くんでも三田くんでも原先生でも川内くんでも向井くんでもない。

 黒い上下のスウェットにサンダル、夜みたいに暗い目をした、中途半端な髭の中年男。


 こんな男の人なんて、知らない。


 私は男を突き飛ばすと、恐怖に背中を押されるように走った。


 怖い、怖い。

 馬鹿だ、私。

 運命の人とか舞い上がっちゃって、何で知らない人の家なんて覗いちゃったんだろう。

 糸なんて見えなければ良かった。

 こんなものが見えてしまったから、知らなくていいことを知っちゃったんだ。


 逃げる様に夢中で走っていたその時、背後でドン、と大きな音がした。

 たくさんの人の悲鳴が聞こえ、一気に空気がざわつくのが分かった。

 振り向くと、道路の周辺に人だかりが出来ている。

 あぁ、誰かはねられたんだ。

 囲む人々の間から、轢かれたであろう人物の手が見えた。


 右手の小指にはぐるぐると強く巻きついた赤い糸。

 その糸の先にいたのは、呆然とした表情で震えながら立ち尽くしている自動車を運転していたと思しき女性だった。


 気の毒に。


 そう感じたのは一瞬だった。

 人混みの向こうに男の姿があった。

 こちらを見ている。

 

 逃げなきゃ、あの男に追い付かれてしまう。

 

 私は再び走り始める。

 どこをどう走ったのか分からないが、気が付けば私は自分の家に戻っていた。

 温かないつもの日常の空気に戻りたい一心で、玄関の戸を開ける。


「お母さん! お父さん!」


 廊下の突き当り、明るい陽射しが差し込むリビングへ滑り込む。


「聞いて! 今さっき、私」


 目に飛び込んできた景色が、私の口から言葉を奪った。

 愛しい者を見詰める様に目を細めた母が、ピクリとも動かない父に向かって何度も包丁を振り下ろしている。『浮気』『憎い』『大好き』『どうして』『汚い』『愛してる』と小さな声でぶつぶつと漏れてくる声は、ご飯が出来ていると私に告げたあの優しい声と同じだった。


 あぁ、そういうことなのか。

 瞬間、私は分かってしまった。


 これはいわゆる赤い糸じゃない。

 殺し、殺される運命にある相手を結んだ糸なんだ。

 切れたり、千切れたような糸を結わえていた人は、殺される、あるいは誰かを殺す運命から逃れた人だったのだろう。


 私も何とかして運命から逃げたい。

 そう願い、赤い糸を引きちぎろうと何度も引っ張ったが、鋼のように固く、切ることが出来ない。


「何で!? どうして切れないの!」


 嫌だ、怖い、殺されたくない。

 私は泣きながら糸を引っ張り続ける。

 ピンポーン。

 インターホンの音が肉を刺す音をかき消すようにリビングに響く。


 糸が。

 運命が、逃がしてくれない。

 だからって、こんなところで諦めてたまるか。


 私は母から包丁を奪うと、両手で強く握り締めた。


 こんな運命、くそくらえだ。

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