203号室ーおトなりノ顔
「なんすか?」
荻松は雑に対応する。
蒲田は悪びれもせず、曇りのない笑顔を灯している。
「すみません。実は、まだ夕食を食べていなくて、よかったら一緒に食べに行きませんか?」
荻松は蒲田の神経を疑った。ほぼ初対面の男を誘おうだなんて、やっぱりこの男は変わっている。普段ならこういう手合いを相手にすることはなかったが、死体のある部屋にいたくない気持ちが込み上げていた。
荻松は
蒲田は「本当ですか!? ありがとうございます!」と2回頭を下げて、大げさに喜ぶ。
深夜に迫ろうというのに、蒲田は壁を貫通させんとする声を張り上げる。自分の声の大きさが一体どれほどの迷惑になっているのか自覚していないタイプだ。
荻松は蒲田の配慮に欠けた言動に呆れながら、「じゃあ、準備しますんで」と低いトーンの声色で言い、ドアを閉めた。
荻松は和室にあるチェストから財布を取り出す。クローゼットから着替えを取り出し、ダイニングへ向かった。死体のある部屋で着替えるのは、さすがにためらわれた。
財布をテーブルに置き、服を脱ごうとした。男は全身の血の気が引いていくのを感じた。服にまだらの斑点がついていた。よく見たら腕にもついている。殴った際に飛び散った返り血だ。荻松の脳裏に虫が
時折、感じていた蒲田の視線。蒲田が見ていたのは、これだったのだ。蒲田は気づいていた? 何度も訪ねてきたのは、血痕かどうか確かめるため? 部屋が暗かったからわかりづらかった。だから何度か呼び出し、確認していたのかもしれない……。荻松は蒲田の笑顔がひどく卑しく思えてきた。
蒲田は何を考えて、そんなことをしたのか。蒲田の目的は――――。
荻松は服を着替える。脱いだ服を洗面所兼脱衣場のカゴに放り投げる。腕についた血痕をウェットティッシュで拭き取り、長袖のジャケットを着る。縦長のタンスの引き出しを開け、ポケットにナイフを忍ばせた。
荻松は玄関近くの壁にかかった鏡で顔を確認し、ドアを開けた。ドアの横にいた蒲田が傘を持っていた。さっきより雨脚は弱いが、依然雨は降り続けている。
「じゃ、行きましょうか」
荻松は嬉しそうな背中に冷たい視線を注ぎ、後についていく。
駐車場は一面水浸しになっており、どこへ行っても濡れるのは確定だった。荻松は慎重に足を踏み出し、ゆっくり自分の車へ向かう。カギを開け、車に乗り込む際、黄緑色の軽車を
夜は更けており、お店はそろそろ閉店する時間だ。前方を走る蒲田の車についていくと、定食屋の駐車場へ入った。
荻松と蒲田はテーブル席に座る。
「何します?」
蒲田はずっと知り合いだったかのような口調で尋ねてくる。
「お先にどうぞ」
「そうですか? すみません」
客はまばらで、まったりとした時間が流れている。
荻松は正直、あんまり腹は減っていなかった。軽い物で済ませようと決め、店員が持ってきたピッチャーに入った水をグラスに注いだ。
「それじゃ、どうぞ」
蒲田は端末を渡してくる。
メニューを選び、10分後に運ばれてきた食事に手をつける。
蒲田はかつ丼定食、荻松はうどん定食だった。
注文したメニューが来るまで会話はなかった。スマホを見たり、メニューに書かれた文字を追ってみたり。お互いに待ち時間をつぶしていたが、蒲田が唐突に話しかけてきた。
「あなたも大変ですね」
「はい?」
「いや、盗み聞きするつもりはなかったんですけど、派手な喧嘩をされてたんで」
「……すみません」
荻松は謝罪を零した。
すると、蒲田は慌てた様子で首を振り、左手の掌を向ける。
「あ、違うんです。騒音のクレームを入れたいわけじゃないんです。おたくもいろいろあるでしょうから。いやね、私54なんですけど、若い頃に離婚しまして。それ以来、ずっと1人なんですよ」
蒲田は薄い笑みを浮かべている。
「あの時は地獄でした。私を見る目が猫のゲロを処理する時とおんなじでしたよ。ひどくないですか?」
「まあ……」
「だから、朝に顔を合わせるのも嫌でね。家庭内別居みたいになってました。ストレスで10円ハゲができましたよ」
蒲田は笑い話だと言いたげに楽しそうだ。
「離婚するのに半年かかりました」
蒲田はエンジンがかかってきたのか、饒舌だった。
どういうつもりなのか。荻松は蒲田の言動に困惑していた。
荻松が元妻を殺した。蒲田はそう考えているに違いないと、荻松は推測していた。そこから蒲田が取る行動は3つ。
警察に通報する。
荻松から犯行を決定づける証拠、または証言を引き出す。
あるいは、男をゆする。
警察に通報されたら一巻の終わりだ。しかし、もし警察に通報するなら、わざわざ一緒に食べに行こうだなんて言うだろうか。血痕を確認した時点でほぼ確定だろう。
もしかしたら、まだ断定できていないんじゃないだろうか……。
なんとか情報を引き出そうと、再三にわたり荻松と会話を試みていた。それがあの不自然な訪問。蒲田は正義感に駆られ、断定できる証拠を見せつけようとしていた?
違うかもしれない。
すでに警察は通報しており、こうして一緒にご飯を食べているのは、警察にそう言われたからではないか?
この間に警察は、大家さんと一緒に部屋へ入っているのではないか。だとしたら、相当まずい状況だ。荻松はポケットのナイフを握りしめた。
「どうかしました? 恐い顔してましたけど」
荻松の鋭い視線を意に介さず、蒲田は尋ねる。
「いいえ……なんでもないです」
蒲田は親しげに笑う。
まだ可能性の話だ。どのみち、今部屋を調べられているのなら、すでに手遅れだろう。逃げる以外に道はない。問題は、まだ最後の可能性が残っていることだ。この可能性が一番厄介だった。
蒲田は荻松をゆするために呼び出した可能性……。人のいるこの場所なら、下手な行動はできない。警察に通報されたくなかったら金をよこせ。
そう脅してくる。もしそうなら、蒲田には逆らえない。いいように利用され、骨の髄までしゃぶられた後に捨てられる、最悪の生活が待っている。偽物の笑顔を貼りつけたこの男に、一生服従することになるだろう……。
刑務所に入るよりマシと考えるか、この男に付き従い、支配されるよりマシと考えるか……。
荻松はグラスの水をゴクゴクと音を鳴らして飲んだ。
「聞いてます?」
不意に蒲田の大きな声が飛び込んできた。
「はい?」
「だから、離婚。するんですか?」
この男にデリカシーってヤツを顔面にぶつけてやりたい気分だった。
「ああ、まあ、はい」
「へぇ……ま、お2人で決めたことならしょうがないですねぇ」
確かにこの男はデリカシーも常識もないみたいだ。だが、ゆすろうとする気配は感じられない。本当に、ただ変なおじさんなだけで、一緒に食べたかったってのも嘘じゃなかったのだろうか。
世の中には、飲食店に1人で入れない人もいると聞く。隣人というだけで、歳の離れた男とでもご飯に誘えるコミュ強ぶりに、荻松は呆れを通り越して感心した。
「あんなにお綺麗なのに、性格が合わなかったってことですか?」
「まあ、そんな感じです」
「なるほど。わかります。私も似たようなものです」
どんぶりを持ち上げ、口へ一気に運んだ蒲田は咀嚼し、水を流し込んだ。食事の余韻を帯びた息を落とし、グラスが強く置かれた。
荻松は体が跳ね上がるほど驚き、蒲田に丸々とした目を向けた。
「ほんっと嫌な女でしたよ。あんたの稼ぎが悪いから、あたしが近所の人からバカにされるのよって、グチグチと」
突然気性の荒くなった蒲田に戸惑う荻松。蒲田から貼りつけたような笑みは消え失せ、冷笑が口元を飾っている。
「だから、殺したんです。妻を」
次の更新予定
おトなりノ殺人 國灯闇一 @w8quintedseven
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。おトなりノ殺人の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます