202号室ー笑う御隣
「夜分遅くに申し訳ありません。隣に引っ越してきた
小柄な男性――――蒲田はペコリと薄い頭を下げた。焼けた肌に丸顔。黒のジーンズにライム色のTシャツ。半袖のTシャツにはよくわからない英語がプリントされている。年齢は50代くらい。見た目は普通のおじさんだった。
「これ、つまらない物ですけど、よかったら」
蒲田はラッピングされた箱を渡してくる。
荻松は何時だと思ってんだと言いたくなったが、さっさと終わらせたくて受け取った。
「何度かお伺いしたんですけど、いらっしゃらなかったので。すみません」
「いえ……」
荻松は小さく答える。
「あの、大丈夫でした?」
「はい?」
「いや、ものすごい声で言い争っておられたんで、おっかなびっくりしましてね。大丈夫かなって心配になったもんですから」
蒲田の声はよく通り、激しい雨音でも十分過ぎるほど聞こえた。
「ダイジョウブです……。もう、解決したんで」
「どうでしたかぁ。よかったですぅー。あ、では、失礼しました。どうぞ、これからよろしくお願いします」
蒲田は深くお辞儀する。
「はい……」
「すみません」
ペコペコと頭を下げる蒲田を無視して、ドアを閉めた。
荻松はもらった箱をテーブルに投げる。
印象に残る
薄闇に潜む死体に目をやった。
荻松は雨音に隠すようにため息をついた。額に手を押しつけ、皮膚を引っ張るように髪をかき上げる。
時間がほしい。頭を整理する時間が……。
元妻が意識を取り戻さないか、わずかな望みを持っていたが、その可能性はもうないみたいだった。落胆している反面、荻松は元妻が意識を取り戻さなくて安堵していた。もし元妻が生きていたら、間違いなく今回の件を問題にするだろう。荻松の立場は悪くなり、元妻の要求が通りやすくなるかもしれない。
荻松はスマホで検索をかける。
『死体を隠す方法』
『腐敗を遅らせる方法』
『死体の匂いを消す方法』
どれを調べてもマニアックな情報ばかりで、素人に実践できそうなものは載っていなかった。それどころか、ネタっぽいふざけたものが大半だった。
少し考えればわかることだ。誰が真剣に死体を処理する方法を検索しているだなんて思うだろうか。だが、荻松にはそれ以外にできることがない。なんでもよかった。今、この場をうまく収める方法さえあれば――――。
それが鳴り響いた時、ついに自分の耳がおかしくなったと思った。しかしすぐに否定するかのように2回目が鳴った。どうやら聞き間違いじゃないようだ。さっきと同じく、ゆっくりとした感覚でインターホンが鳴っている。
今日はツイてない。
荻松はドアスコープで確認する。
舌打ちをすると、外の雨のような気持ちになりながらドアを開けた。さっきの男がにんまりと親しげに笑ってそこにいた。
「すみません。同居人の方にご挨拶をしていなかったことを思い出しまして」
「同居人じゃないです。挨拶もいらないです」
男は冷たく言い放った。
「そうですか。すみません……」
蒲田の視線がチラついている。
蒲田は相変わらず胡散臭そうな笑みを浮かべていたが、どことなく違う気がする。褐色の笑顔がぎこちない。
荻松は自身の心臓の音が跳ね上がるのを感じた。
蒲田は隠しているつもりなのか、不自然なほど笑顔を貼りつけている。
「お部屋、電気つけないんですね」
「は?」
「いえ……。節約志向なんだなって思いまして」
蒲田はうつむき加減になりながら、黒のジーンズに両手の
「最近は電気代もシャレにならないですからね。私なんかよりしっかりしていらっしゃる」
荻松は苛立ちが募る。わざわざそんなことを言うために来たのかと、喉元まで上がっていた言葉を呑み込んだ。
「あの……」
荻松はひんやりとしたぬめり気を首筋に感じた。
「なんですか?」
「奥様……」
蒲田の笑顔が怪しく輝く。
ひどく湿気の高い外気を吸い込み、むせそうになる。
荻松は目の前の男に恐怖と怒りを覚えた。
今すぐ、この男を殺すしかない。荻松の頭は殺意に憑りつかれていた。どうやって殺そうかと考え、周囲に注意を向けようとした時、蒲田は「綺麗ですね」と言葉を零した。
「え?」
「いや、あんなお綺麗な奥様をお持ちなんて羨ましい。できれば、もう一度お会いできればと思ったんですが、すみません。お邪魔しました」
荻松はペコリと会釈すると、蒲田もオウムのように頭を下げた。
「おやすみなさい」
荻松はドアを閉める。荻松はテーブルの煙草を荒っぽく取り、火をつけた。さっきよりスムーズに火をつけた荻松は、不思議なほど落ち着きを取り戻せていることに少し驚いていた。
額に浮かんだ嫌な汗を拭い、テーブルの上に置かれたバッグに目を向ける。元妻のバッグだ。
こんなものがあったら……。荻松は悩ましく顔をゆがめた。その時だった。荻松は重大なことに気づいた。煙草を口にくわえたまま、バッグを漁る。荻松は目的の品を発見する。
元妻のスマホの電源を切り、強引にスマホを折った。パキバキと嫌な音を立てる。案外いけるものだと思いながら、小型破砕のゴミ箱に放る。キッチンの窓の向こうの外灯を見つつ、煙草をふかし、水場に吸い殻を落とした。
世の中には変わった人間がいる。そいつの変人レベルやどれくらいの関係性かによっても印象は違って見えるものだ。それが隣人だとしたら……。
いくら他人からなだめられようとも、お前に何がわかると煙草の火をその口に突っ込んでやりたくなる気分だった。
状況が状況だ。ちょっとしたことで苛立ってしまう。
荻松は気味の悪い笑顔を浮かべた蒲田を想起する。
それにしても、あの男はなんなんだ。丁寧なのか、失礼なのか、よくわからないふざけたヤツだ。日本人のマナーの低下が著しいと嘆かわしく叫ぶマナー講師もどきには、日頃からウンザリしていたが、今日に限っては何度も首を縦に振りたくなる。
テーブルに置いていた箱が目に入る。荻松は蒲田からもらった箱をゴミ箱に投げ入れた。荻松は煙草を灰皿に押しつぶす。
あの男に構っている暇はない。荻松は死体の処理について考え出した。
死体を処理するとしても、関係先が不審に思うだろう。荻松はどうにかできないか考えようとしたが、まったく思いつきそうになかった。
そもそも逃げるにしても、隠蔽するにしても、すでに手遅れかもしれない。蒲田は元妻を知っているようなことを言っていた。自分と一緒にいるところを見られていて、喧嘩のことも知っている。だとしたら、逃げてもあの男の証言から犯人が絞られてしまう。
荻松は右目上の骨に
こんなことになったのも、元妻のせいだと憤慨する。元妻は荻松に対し、財産を7割よこせと要求していた。荻松は不動産投機に手を出し、儲けようとしていた。知り合いからの儲け話に安易に乗ってしまった。利益を出すどころか、借金をすることになった。
それに留まることなく、荻松は元妻が稼いだお金にも手をつけていた。それが発覚し、弁護士を交えた離婚協議が行われていた。
こんな目に遭っているのも元妻の金にがめつい性格のせいだ。荻松の鋭い目が死体となった元妻に注がれる。ムカムカして、もう一本煙草に手をかけようとした時だった。煙草を吸うのを制するような電子音が鳴った。
「ふざけんなよ、マジで……」
荻松は小さな声で悪態をつく。一定の間隔で鳴っている。荻松は煙草をテーブルに投げ、ドアを開けた。
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