第3話 後悔も反省もしっぱなしなの♡

「こちらパンケーキと珈琲になります。ごゆっくりどうぞ」


 白い陶器の皿がテーブルに置かれた瞬間、ふわりと甘い香りが立ち上る。焼きたてのパンケーキは、淡い黄金色を帯びていて、表面にはまだ微かに湯気が残っている。

 重なった二枚の間から、柔らかな熱がそっと逃げるみたいに滲み出していて、それだけで胸の奥が少しだけ温かくなる。


 隣に置かれた珈琲は、深い褐色。湯気が細く揺れて、苦味と香ばしさが混じった香りが鼻先をくすぐる。

 甘いパンケーキと並ぶことで、その苦さがより際立って、これから口にする時間そのものが、ちゃんと計算されているみたいに思えた。


「ささ、温かいうちが一番美味しいよ」


 遠子ちゃんにそう言って、軽く笑う。

 その声につられるように、私たちは二人で小さく手を合わせた。

 そんな動作が、不思議と心を落ち着かせる。


 私はメイプルシロップの容器を手に取る。ガラス越しに見える琥珀色の液体が、光を受けてきらりと揺れた。


 目の前のパンケーキは、鮮やかで、柔らかそうで、思わず見惚れてしまう。白くて、綺麗で、整っていて、どこか遠子ちゃんの顔を思わせる。

 触れればきっと、指先が沈み込むんだろうなって想像するだけで、頬が緩んでしまう。


 ふと視線を上げると、遠子ちゃんが少しだけ緊張した顔で、自分のシロップ容器を傾けている。慣れない手付きで、量を探るみたいに慎重で、その様子がどうしようもなく愛おしい。

 真剣な横顔も、少し不器用な指の動きも、全部まとめて、食べてしまいたい、なんて思ってしまう自分に、少しだけ苦笑する。


 私はパンケーキの表面に、シロップを少しずつ垂らしていく。とろり、とろりと落ちる琥珀色が、ふわふわの表面に染み込んでいく様子は、まるでメイクの肌色を整えているみたいだった。

 丁寧に、慎重に、素材の良さを引き立てるための大事な作業。


 かけ過ぎれば甘さが主張し過ぎてしまうし、少な過ぎれば物足りない。ムラができれば見た目も味も崩れてしまう。

 大事に、大切に、愛を込めて、とろり、とろりと垂らしていく。


 シロップが落ちるたび、ふわりと甘い香りが立ち上って、鼻先をくすぐる。その香りが思った以上に濃くて、胸の奥まで染み込んでくるみたいで、思わず小さく息を吸った。


 甘い。でも、それが何の甘さなのか、もうよく分からない。パンケーキの香りなのか、メイプルシロップの匂いなのか、それとも向かいに座る遠子ちゃんの存在そのものなのか。

 頭の中がふわっと白くなって、視界の輪郭が少しだけ溶ける。軽い目眩みたいな感覚に襲われて、現実から一歩だけ浮いてしまった気がした。


 互いにシロップをかけ終えて、そっと容器を置く。次にナイフとフォークを手に取った、その瞬間だった。

 ふと視線が合って、二人とも一瞬固まってしまう。


 どちらからともなく、照れたように笑ってしまう。理由なんてないのに、可笑しくて、嬉しくて、少し恥ずかしい。頬の奥がじんわり熱くなっていくのが分かる。

 ついさっき出会ったばかりなのに、この甘い空気が、自然と二人の距離を繋いでくれているみたいだった。


 私はナイフを持って、パンケーキの縁にそっと刃先を当てる。

 力を入れ過ぎれば、この柔らかさはすぐに形を崩してしまう。だから息を詰めるみたいに慎重に、ゆっくりと、表面をなぞっていく。

 ナイフの先が触れるたび、ふわりと小さく沈み、すぐに元に戻ろうとする。その反発が、指先にまで伝わってくる気がした。


 その動きは、切るというより、確かめるための動作に近い。

 輪郭を壊さないように、そこに在る形をなぞるだけ。


 耳元に触れるみたいに、ほんの少しだけ外側をかすめる。

 近づきすぎると壊してしまいそうで、でも離れすぎると輪郭が分からなくなる。そのぎりぎりの距離を探るように、刃先を滑らせる。

 耳の付け根の、柔らかくて繊細な部分を想像して、思わず動きが遅くなる。


 次に、頬の丸みを確かめるように、弧を描いていく。

 ふっくらとした膨らみが、ナイフの動きに合わせてわずかに揺れて、白い表面に影を落とす。その曲線があまりにも綺麗で、つい見とれてしまう。

 触れていないのに、温度まで伝わってくるみたいだった。


 顎の下を撫でるみたいに、少しだけ角度を変えて、ゆるやかに。

 ここは特に壊れやすくて、慎重さが求められる場所。

 ナイフを進めながら、そこに溜まる空気や、呼吸の気配まで想像してしまって、胸の奥がきゅっと締まる。


 最後は、髪の毛の流れを整えるみたいに、外側から内側へ。

 乱れた部分をそっと戻すように、余計な線を引かないように、なだらかに。

 ただなぞっているだけなのに、なぜか胸の奥が静かに騒がしくなる。


 どれも綺麗で、可愛くて、尊くて。

 ただなぞるだけなのに、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。まるで心臓のすぐ近くに、柔らかな灯りがともったみたい。


 とくん、とくん、と鼓動が少し早まる♡

 耳の奥で自分の脈が分かるくらいに、身体が静かに主張してくる。息を吸うと、胸がいっぱいになって、吐くのが少しだけ苦しい♡

 なのに、不思議と嫌じゃない。むしろ、その苦しさすら愛おしい♡


 甘いはずなのに、どこか切ない♡

 満たされているのに、足りない♡

 この曖昧な感覚が、じわじわと身体の内側に広がって、指先まで熱を運んでくる。肩が少し強張って、背筋がぴんと伸びてしまうのも、自分で分かる♡


 遠子ちゃんのことが好き、っていう気持ちが、胸の奥から溢れてくる♡

 理屈じゃなくて、抑えようとしても止まらなくて、行き場を失った想いが、心臓の周りをぐるぐると巡っている♡


 このまま静かにしていれば、きっと顔に出てしまう。そんな予感がして、思わず視線を落とした。


「どうしたの? 食べないの?」


 遠子ちゃんが不思議そうに私の方を見る。

 その何気ない仕草、その柔らかな声。それだけで胸がぎゅっと締め付けられて、張り裂けそうになる♡

 好き、という感情が、もう隠しきれないほどに膨らんでいた♡


「あまりにふわふわしてて綺麗だから、なんか食べるのが勿体なくって」

「分かる。一口目って勇気いった」


 そう言って照れたように笑う遠子ちゃんがおかしくて、つい私も笑ってしまう。

 張り詰めていた胸の奥が、ふっと緩む。


 シロップが肌の下地やファンデーションだとしたら、ナイフとフォークで切り分ける作業は、メイクブラシでそっと触れていく工程に近い。

 厚塗りは禁物で、力を入れ過ぎれば素材そのものを壊してしまう。パンケーキの表面を見つめながら、私は自然と“どう整えるべきか”を考えてしまう。


 まずはおでこ。

 広さも丸みも程よくて、ここはツヤを活かしたい。余計な陰影はいらないから、明るさを保ったまま、均一に整えるイメージ。


 眉は少し悩む。

 主張しすぎないのに、表情を決定づける場所。柔らかさを残したまま、芯だけをそっと通す。遠子ちゃんの真っ直ぐさを消さないように、描き込みすぎないのが正解だ。


 睫毛と目元は、いちばん神経を使う。

 あのきらきらした視線は、飾らなくても十分に強い。だからこそ、盛るよりも引き算。光を受け止める余白を残して、瞬きのたびに感情が透けるようにしたい。


 鼻筋は控えめに。

 影を作るより、輪郭をなぞるだけでいい。触れれば壊れてしまいそうな繊細さを、そのまま残す。


 最後に唇。

 色を足すか、それとも素のままか。少し迷って、結局は何もしないという選択に落ち着く。完成されすぎていない、その曖昧さが、遠子ちゃんらしい。


 整えすぎない。作り込みすぎない。

 ただ、元からそこにある良さを、邪魔しないようにそっと手を添える。

 そんなふうに、私はナイフとフォークを動かしながら、遠子ちゃんを“仕上げて”いく。


 視線も手元のフォークも、自然と口元に引き寄せられていく。


 きらきら光る目元に、そっと唇を寄せる。

 触れた瞬間、時間が止まったみたいに全身が強張る。刺された、という表現がいちばん近い。視線の熱が、そのまま身体の奥に伝わってくる。


 次に、明るく色付いた頬。

 ほんの一瞬触れただけなのに、驚くほど柔らかくて、胸の奥まで甘さが広がる。言葉に出来ない感情が、静かに溶けていく。


 おでこ、眉、睫毛。

 それぞれに、確かめるように、祈るみたいに唇を重ねる。触れるたびに、遠子ちゃんの存在が輪郭を持って、胸の中に落ちてくる。

 呼吸が浅くなって、思考がゆっくりと輪郭を失っていく。


 そして最後に、唇同士が重なる。

 その瞬間、考える余地はどこにも残らなくて、ただ甘さと柔らかさと、どうしようもない幸福感だけが広がっていく。


 幸せ、幸せ、幸せ。

 胸の奥で、その言葉が小さく弾んでは、波紋みたいに広がっていく。

 息をするだけで満たされて、何も失っていないのに、もう十分だと思えてしまう。


 ああ、なんて女の子って可愛いんだろう。

 ただそこに立って、笑って、瞬きをするだけで、世界の輪郭を少しだけ柔らかくしてしまう。

 なんて女の子って、幸せの塊みたいなんだろう。

 触れなくても、抱きしめなくても、存在そのものが光になって、この世の全部を静かに幸福で満たしていく。


 早川遠子ちゃん。

 あなたは、みんなの光で、憧れで、自然と目が追ってしまう存在。

 意識しなくても惹かれてしまって、気づけば心のどこかに居座っている。

 誰もが、少しだけ欲しくなってしまうのも、きっと仕方のないことなんだと思う。


 でもね。

 そんな役割を背負う必要なんて、どこにもない。

 誰かの期待や、理想や、勝手な願いを、全部抱え込まなくていい。

 眩しくあろうとしなくていいし、応えようとしなくていい。


 ただ、自由でいてほしい。

 笑いたいときに笑って、疲れたら立ち止まって、好きなものを好きだと言って。

 誰かの光になる前に、あなた自身のままでいてほしい。


 みんな、そんな貴女のことが大好きで、愛しくて、大事で、壊れないように、そっと胸の中に置いている。


 だからこそ、無理なんてしなくていい。

 輝こうとしなくても、あなたはもう十分すぎるほど、ちゃんと光ってる。


 ただあるがまま。

 ただ、望むまま。


 それが、私が貴女に向けてしまう、いちばん静かで、いちばん深い願いだから。

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二人の関係はパンケーキより甘い♡ ~ぴゅあぴゅあ百合、焼き上がりました~ ムーラン @mooran

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